【終話:そこに、希望の光がありますように】
結論から言おう。
森川はいまもまだ、病院のベッドの上にいる。高校二年の夏から、一度も目が覚めることなく――。
◆
森川菫が、最初に両親の離婚を経験したのは、小学校二年生のころだった。
直接的な原因となったのは、父親の浮気。
もし、浮気だけが原因であったなら、まだ夫婦間の関係を修復できる見込みもあったろう。ところが父親は、相手の女性にのめりこんで多額の金銭を渡した上に、妊娠までさせてしまっていた。
家庭内は冷え切っており、もはや打つ手がなかった。
ある程度大人になれば、両親の事情をわきまえて、自分の中で落としどころを見つけることも出来ただろうが、当時、森川はまだ二年生。心に負った傷が、相応に深かったことは想像に難くない。
両親が揃っている子どものうち、精神的に問題が無い子どもが90%。治療を要するほどの精神的トラブルを抱えている子どもが10%であるのに対して、両親が離婚している子どもでは、精神疾患を抱えている子の割合が25%にまで高まる。
これはバージニア大学の、とある教授による研究結果である。
親が離婚している子供たちは、両方の親から見捨てられる不安を常に抱えている。
学業成績も、成人してからの社会的地位も低くなりがちで、自分の結婚も失敗に終わりやすい。
一方でこちらは、とあるアメリカの心理学者によるデータである。
こういった例を取り上げるまでもなく、森川の人生にも歯車の狂いが生じ始める。『片親の子ども』である、という周囲の偏見の目が、ごく自然と森川にも注がれることになった。
『森川さんって、お父さんいないんだっけ?』
悪意のない何気ない一言ですら、彼女の胸を鋭く抉るナイフとなった。
片親であるという事実は私生活の中でも負担となるため、学校行事に対する母親の参加率も、おのずと低くなる。
『森川さんの家はほら、父親がいないから』
PTA活動など、行事に参加しない母親への囁くような周囲の声。授業参観や、運動会といった父母参加行事を伝えても、『忙しいから』としか答えない母親の背中。様々なストレスがちょっとずつ積み重なっていき、元来そこそこ明るかった森川の性格にも、次第に濃い影が落ちていく。
記憶の中に残っている、彼女の姿を探ってみる。
校庭で、俺の隣に座っていたときの森川は、ぱあっと音がしそうなほど明るい笑みを浮かべていた。だが一方で、教室にいるときの彼女は概ね独りだった。親友だった霧島以外の生徒と、話している場面を見た記憶が殆どない。
もし──同級生の中に霧島七瀬がいなかったらと思うと、正直ぞっとしてしまう。
もっとも、片親であるという負い目を、母親自身も感じていたのだろう。世間体を気にするあまりか、娘に良い学校を受けさせねばという願望が、人一倍強かった。
この辺りでも、名だたる進学校である櫻野学園を森川が受験することになったのも、そんなわけで、彼女の意思というよりはむしろ母親の独断だった。
とはいえ、それ自体は悪いことではない。
櫻野学園の評判は事実良好だ。品行方正な生徒が多く、イジメなどといった悪い噂も、殆ど聞かないのだから。
だが、神様というのは本当に意地が悪い。更なる不幸が、彼女の元に舞い降りる。言うまでもなく、花火大会に行く途中で遭遇したバス事故だ。
不幸中の幸い──という言葉をここで使うのに抵抗はあるが、犠牲者が出るほど凄惨だった事故のなかでも、森川は一命を取り留めた。だが、脊髄にダメージがあったため、退院後、森川の体には障害が残ってしまう。
手指の震え。足のしびれと筋力の低下。自立して歩くことはできるものの、階段の上り下りなど困難な場面は多く、杖を併用する必要があった。
常時杖をついて歩く女生徒の姿は、やはり学校内でも悪目立ちする。囁かれる心ない一言や陰口で、一層彼女は塞ぎこむようになった。
ここまでは、以前霧島から聞いていた通りの内容だ。
そんな中でもなんとか気持ちを切り替え、学校にも慣れ始めた頃合いで、彼女は引越しと転校を経験する。
霧島から聞かされていた、母親の再婚だ。
なんのために入った私立だ? それは母親の希望でもあったんじゃないのか? という憤りを正直感じるが、今は置いておこうと思う。
それでも、可能性はあった。新しい家族の存在が、森川の精神的支柱となって、ここまで悲惨だった彼女の人生を、一変させてくれる可能性が。
実際に、一変した。
ただし結果として──悪い方向に。
新しい父親は、表向き『は』とてもいい人間だった。
年齢は、森川の母親より二つ上。会社での営業成績は平凡ながら、誰に対しても分け隔てなく接する勤勉なサラリーマン。見た目が実直そうなこともあり、誰の目から見ても『素敵な父親像』に映ったことだろう。
経歴のなかにある唯一の汚点ともいえる、二度に渡る離婚歴を除けば。
いや……もしかすると。この離婚歴こそが、彼のなかに存在している危険因子であったり、本性を如実に物語っていたのかもしれないが。
母親と三人で居るときはなんの問題もなかった。仲睦まじい夫婦であり、仲の良い親子。他ではない森川自身もそう思っていただろうし、近所での父親の評判も決して悪くなかった。
波風が立たぬまま一年が過ぎ去って、母親が外出をしたことで森川と父親が二人きりになったとき、遂に彼はその本性を現した。
父親は『自分は人より劣っている』という思いこみが強く、劣等感を抱えている人間だった。
そうしてたまったストレスを発散するため、誰かを痛めつける機会を常に狙っているのだが、根本の性格が矮小なので、自分より弱く無抵抗な人間のみを狙うのだ。人や動物に対して苦痛を与えることや、惨たらしい行為そのものを好む性癖。
森川にとってもっとも不幸だったのは、彼が嗜虐性を発散する対象として、義理の娘──つまり、森川菫が選択された事に他ならない。
彼の幼児期における家庭環境に、何らかの問題点があったのかもしれない。あるいは、嗜虐性を発揮する相手を求めて再婚したのかもしれないが、それはどうでもいい。終わったことは、今さら覆らないのだから。
最初に行われたのは言葉の暴力。
上手く歩けない事。
綺麗に文字が書けない事。
学校に、上手く馴染めていない事。
学業成績が、伸び悩んでいる事。
そういった諸々が影響して積極性を欠いている性格を、怠惰で傲慢だと切り捨てた。
身体的なことから精神的な内容まで。それこそ思いつく限りの罵詈雑言が森川に浴びせられた。それも確かに正論だ。反論できる材料がない。だが、塞ぎ込んでいる森川の生活習慣を改めさせるための手順として、当然のことながら適切ではない。
既に傷だらけである森川の心が、新たな痛みに耐えられなくなるまで、さほど時間は要さなかった。ついに彼女は、精神疾患を発症するに至る。
だが、それでも彼の暴走は止まらない。口撃だけでは飽きたらず、身体的苦痛まで与えるようになった。
俺だってこんなことをやりたくてやっているわけじゃない。お前の出来が悪いからだ、と繰り返し語り、舌の根の乾かぬ内に森川を殴った。
しかしそこは彼も手慣れたもので。殴るとしても、痣になりにくい強さと外から見えづらい場所に留めたこと。『母親に告げ口なんてしてみろ。親子共々殺してやるからな』と、強い口調で森川が脅されていたこともあり、母親が虐待の事実を知るまで、かなりの時間を要してしまう。
高校二年の夏。彼女は最初の自殺未遂を起こした。
風呂場で手首を切ったのだ。ところが、この段階でもまだ母親は虐待に気づかなかった。
森川は固く口を閉ざしていたし、真っ先に駆け付けた父親が、理想の父親像を演じて見せたから。幸いにも、傷が浅くて大事に至らなかったのもあり、思春期特有の不安定さからくる精神的なもの、と結論づけられた。
そして、彼女が退院してから一か月後、二度目の悲劇が起こる。
いつまで経っても娘が起きてこないのを不審に思った母親が部屋まで行ってみると、床に横たわったまま動かない森川の姿がそこにあった。精神科で処方された睡眠薬を、大量にお茶で流し込んだ形跡があった。
この事実を聞かされたとき、世界が足元から崩れ落ちていく感覚がした。強い胸の痛みと、耳鳴りを俺は覚えた。
そうか。強い未練を現世に残したまま命を絶ったから、自縛霊になったんだと直感した。
しかし、真実は違っていた。自己肯定感の低さが、死にたい、という絶望の高さに繋がり、彼女は少しばかり過剰にやりすぎた。お茶の量も、睡眠薬の量も多すぎて、効果が十分に出る前に吐いてしまった。
とにもかくにも、森川は再び一命を取り留め、父娘の関係性が異常であると、ついに母親も気づいた。そのまま現在もまだ、同じ病院に入院しているらしい。
ここまでの話を森川の母親から聞き終えたとき、やり場のない憤りを覚えた。視界がチカチカした。俺には抱えきれないほど、重い人生だと感じた。
いや、詭弁はよそう。
到底、抱えきれなかった。
それでも俺は──森川の為に、何かをしてやらなければならないと思った。
俺はあの日、森川に伝えたんだ。『ずっと、元気で』そして、『愛している』と。その言葉に嘘はない。だから──。
母親に頭を下げて森川家を出ると、そのままの足で森川が入院しているという病院に向かう。
五階に到達してエレベーターの扉が開くと同時に、俺の足が恐怖で竦んだ。
あれから七年も経っているのに、今さらどの面を下げて彼女と面会したら良いのか、皆目見当がつかなかった。穢れをため込んで、心が壊れてしまう前の、『中学生の森川菫』とは違うんだ。
俺は……なんて声を掛ければいい?
入口に、『森川菫』とプレートがある病室の前で立ち止まる。
返事が戻ってこないと知っていたが、それでも扉を軽くノックした。無論、返事なんてない。意を決して扉を開けた。
病室の中は空調が効いているのだろう。廊下と比較して多少涼しかった。規則的な周期で奏でられる、電子音の羅列が鼓膜を打った。
カーテンの隙間から暖かい陽が差していて、ベッドの上で眠っている森川の顔を照らしていた。
鎖骨が浮き出ている首元。
長く伸びた髪の毛。
何本か、点滴の管が繋がっている細い腕は、先日見た『中学生の森川菫』と同様、日光にあまり当たっていないとわかる色白の肌だ。
思いのほか、穏やかな顔で眠っていることに安堵した。
──森川の母親に告げられた話には、もう少し続きがあった。
自殺未遂をし、入院した後で判明したことなのだが、森川のあばら骨の一本にひびが入っていた。一度目の自殺未遂があったあと、虐待がエスカレートしたのだろう。
既にボロボロだった森川の人生は、義父によって徹底的に破壊され尽くしてしまっていた。心も。体も。それからまもなく両親の離婚が成立したので正しく言えば、元義父、なのかもしれないが。
こうして彼女の姓は、再び芳田から森川に戻った。
この話を聞かされたあと、俺はただちに母親との会話を切り上げ家を出た。
昔のことですし。
もう、済んだことですし。
娘はもう、ダメかもしれませんが。
そう結論を与えて話を終えようとした母親に、じりじりとした苛立ちを覚えていた。あともう少しその場に留まっていたら、立場をわきまえることなく、母親を殴ってしまいそうな俺が居た。
ひとりで生活をするなかで寂しさを感じたり、老後のことや、もしもの事態が起きたときのことを考え、「誰かが側にいた方がいい」と考え再婚に踏み切るのは頷ける。
だが、そこに至るまでも、至ったあとからも、森川がどんな悩みを抱え相談もできずに内に秘め続けていたのかを、他ならぬ母親が理解しようとしていないし
そんな感情が透けて見えて、だからこそ強く思った。
「俺が森川を、守ってやらなくちゃならない」
ベッドの傍らに立つと、森川の手をそっと握ってみた。
予想していたのと違い、しっかり体温が伝わってきたことにほっと胸をなでおろす。『生霊』だった彼女とは、比べるべくもない。
自殺未遂をした日。救急搬送されたあとの検査で、森川の体に骨折以外の異常は特段見つからなかったのだという。
呼吸、血圧、脈搏等々全て正常。眠っているように穏やかな状態で、脳波にもなんら異常はなかった。
それなのに、植物状態になったわけでもないのに、高二の夏以降、彼女の意識は戻らなくなってしまう。
科学的な療法では打つ手なしで、担当医師もお手上げの状態なのだという。
ここから先は、全て俺の憶測だ。
自殺未遂をした日以降、生霊となった彼女の魂が肉体から分離して、あのバス停に縛られたんじゃないだろうかと。あの相合傘の落書きは、小学四年生だったあの雨の日、俺を送ったあとで森川が書いたんじゃないかと。だから、あのバス停だったんじゃないか、と。
「待っていてくれてありがとう、森川。でもさ……もう、待たなくても良いんだ。戻って来てくれよ、森川」
両手でギュっと彼女の手を握ると、絡めた拳の上に、雫が一滴落ちた。
――俺の、涙だ。
誰かの為に泣くなんて、いったい何年振りだろう。こうして思うと俺もさもしい人生を送ってきたものだ。
目の前に居るのは、俺の初恋の人である森川菫その人なのに。ただ突っ立って見下ろしているだけで、何もしてあげられない自分の無力さが、堪らなく辛い。
持って行き場のないこの感情を、俺はどうしたらいい?
なあ、森川。お前がこれまで失ってきた時間を取り戻すために、俺にできることはなんかないのか?
「教えてくれよ。……森川」
『森川の欲しいものは、優しいお兄さんだそうです』
二分の一の成人式が行われた小学四年生の夏。思えばこのとき既に、森川はSOSを発信してたのかもしれない。心の拠りどころを、誰かに求めていたのかもしれない。
もっと早く気づいてやれれば。せめて、彼女と音信不通になった中学二年の夏、諦めることなく俺が足掻いていれば、歴史は変わっただろうか? あの頃に戻れたら――なんて思うのは、やはり傲慢だろう。
それでも、と俺は思う。これまで俺は、森川になにもしてやれなかった。彼女の過去だって、もう変えることはできない。全部俺のせいだと罵られてもしょうがない。反論などせず全部受け止めてやる。でもな。
『もし僕がまだ告白できていなかったら、僕の代わりに彼女に気持ちを伝えてください』
ああ、お前の言う通ちだな。弱気になるにはまだ早い。
俺が、森川菫を──愛している。この事実だけは、今でも不変なのだから。
こんな最低な俺でも彼女の支えになれるのか、それは正直分からない。それでも俺は日が暮れるまで、彼女の手のひらを握り続けた。
森川の入院している病院は、俺の家からは電車で一時間近く掛かる場所だった。
次の日から俺は、時間の許す限り、それこそ──週末は欠かすことなく、彼女の病室に通い続けた。
ありがとう。
そして、愛してる、と何度も耳元で囁きながら、彼女の姿を見つめて日々を過ごした。
そのまま、一ヶ月が過ぎ去った。
半年が過ぎ去った。
今も変わらず、森川の目が覚めることはない。
「なあ、森川」と俺は呟く。「まだ傘を返してもらってないんだ。必ず、返しに来いよな?」
けれども、と俺は思う。
たぶん。なんとなく。全然根拠もないけれど、森川はそろそろ目が覚める。
そんな気が……するんだ。
願わくば、彼女の瞳が開いたその時、幾ばくかの希望の光が、そこにありますように──。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます