第二十四話 熊の怪

 董卓の変貌を見ても、呂布に動じる様子はない。

「熊の怪か」

 一言だけ呟き、魏越から戟を受け取る。

「塞外に生まれ育ってきただけあり、この姿を見ても動じぬか。

 呂布、その胆力、やはりここで食ってやるには惜しい。

 今からでもまた儂に忠誠を誓い、二度と逆らわぬと言うなら、あの雌狐を貴様にくれてやってもよいぞ」

 張り裂けた朝服を払いのけ、一頭の巨熊となった董卓は無造作に腕を振り上げると、身をすくませ怯える御者の頭上に振り降ろした。

 哀れな御者の頭部が弾け散り、大地に叩きつけられた体は原型を留めていない。

 主の変貌と御者の惨劇を目の当たりにした董卓の側近が声にならない悲鳴を上げて四散する。

 さしもの羽林からも動揺の声が漏れる。

「羽林、魔性や妖怪と言えども命奪えば死す。

 恐れず矢を放て」

 呂布の一喝に羽林は気を取り直し、次々に矢を放つ。

 しかし董卓の体は矢を通さず弾き返す。

 羽林に動揺の声が広がる。

 賊徒から天子をお守りすべく、日々調練を重ねてきた。

 弓に限らず刀、矛、騎馬の術を研鑽してきた。

 だが自分達が知る賊徒とは鳥獣ではなく人。

 まして弓矢の通らぬ妖魔や魔性の類などではない。

 この世に生を受け、初めて見る魔物。

 遠巻きに矢を放つ羽林が恐怖で後ずさりする。

「夜叉の爪牙」

 弓では敵わないと見た魏越の声と共に、夜叉の爪牙が董卓を取り囲んで斬りかった。

「こそばゆいわ」

 猛獣の咆哮が響き渡る。

 剣を手に群がる夜叉の爪牙を寄せ付けず董卓は戦う。

 剣は一条の閃光となり、爪は鎧を裂いて肉を抉り、咆哮は旋風を巻き起こす。

「退け、爪牙。

 夜叉の左腕が相手になってやる」

 夜叉の爪牙では歯が立たないと見たか、張遼が斬馬剣を構えて宮殿入り口の壇上から広場へ飛び降り、董卓に迫る。

「魏越、お前は司徒の側にいてやれ」

 そう言って魏越の肩を叩くと、戟を手にした呂布も階段を降りていく。

「散れ、爪牙。

 我が瀑布の一撃、受けてみよ」

 張遼の渾身の斬撃は受け止めた董卓の剣を折り、そのまま右肩に食い込む。

 斬馬剣の重たい一撃は董卓の鎖骨をへし折り深く体に食い込むが、董卓は左腕を大きく振り、張遼を殴り飛ばした。

 斬馬剣を董卓の肩に残し、張遼は近くにいた夜叉の爪牙を巻き込み、石つぶての様に宙を舞って地に叩きつけられた。

「文遠」

 魏越が叫び、階段を駆け降りて張遼の元へ走る。

 駆け寄った魏越に助け起こされる張遼。

 五体が砕け散りそうな激痛に耐えながら張遼が目を開くと、董卓は肩に食い込んだ斬馬剣を左手に取り、呂布と対峙していた。

 張遼も片手では持て余す重量の斬馬剣を左手一本でも軽々と振り回す。

対して呂布もまた、鋼の柄が折れてしまいそうな重い斬撃をしかと受け止め、戟を振って応戦する。

 互いの得物がぶつかり合う度に火花が散り、鉄が焼けるような匂いが鼻孔を刺す。

 流星がぶつかり合ったかの様な衝撃音が鼓膜を刺激する。

 しかし肩の傷は深く、徐々に董卓の動きが鈍っていく。

「呂布よ、これ程の力を持ちながら、何を欲して王允など下につく。

 何を望んで儂に刃を向ける。

 ただ雌狐を欲しただけではあるまい」

 右肩からはどす黒い血を撒き散らし、少しの距離を取った董卓が大きく息を吐いて呂布に問う。

 呂布はゆっくりと董卓へ歩を進めながら答える。

「俺は何も王允の下についたわけではない。

 だがそれ以前に、俺は人の世に生きる」

 その答えに董卓は大きく鼻を鳴らす。

「人の世。

 つまらぬ価値観に縛られ、他人にそれを押し付け、それでいながら自身は何かに隠れて愚行を繰り返す。

 他人の眼を気にして欲望を抑圧させ、鬱屈させ、それを歪めて放出する醜悪な世だ。

 そんな世に生きようと言うのか」

 息遣い荒く、斬馬剣を大きく振りかぶる董卓。

 次の瞬間、雷の如き白銀の閃光が董卓の眉間に突き刺さった。

 苦悶の表情で斬馬剣を取り落とした董卓は、声にならぬ声を絞り出そうと口を動かす。

「人を顧みず、己の欲望しか見れない者にはわからぬだろう。

 俺は何かを欲して戦っているのではない。

 求められ、守るために戦うのだ」

 そう言って呂布は諸手で握る戟に、更なる力を込める。

 未央宮に断末魔が響いた。

 鮮血を吹き上げ、力尽き倒れた董卓の目、鼻、口、そして眉間の傷口からどす黒い煙のような気が吹き出し、一条の帯となって西の空へ消えていった。

「熊の怪に取り憑かれていたようだな」

 どす黒い気が抜けきると董卓の体が元の人間の姿に戻っていく。

「ともあれこれで終い、ですかな」

 張遼に肩を貸す魏越が歩み寄る。

「文遠、大丈夫か」

 身を案ずる呂布に、張遼は胸を押さえながら絞り出す様に笑みを見せた。

「いや、まだ終わってはおらぬ」

 呂布の背後から声がかかる。

 王允だ。

 さっきまで魏越の背後で怯えていた様子はどこへやら、居丈高に歩み寄る。

「門を開き、逆臣董卓の死骸を市中に晒せ。

 董卓の治世の終焉を天下に喧伝するのだ。

 そして呂布、お前には次の勅が用意されている。

 お前を奮武将軍に任ずる。

 そして自身の手勢を率いて、直ちに郿塢の董卓一族を征討せよ」

 王允の言葉に呂布は異を唱えた。

 董卓残党の征討自体に異論はない。

 だが郿塢には万を超える数の兵がいる。

 五千の私兵を持つ呂布だが、今日召集していたのは夜叉の爪牙一千しかいない。

 急な話であった上、動きを察知されて警戒されぬよう必要最低限の兵数である必要があったからだ。

 一千で万を超える兵がいる城を征討するのは無理だ。

 しかし王允はこう言う。

「この長安にもまだ董卓の残党はいる。

 警護の為、羽林を始めとした国の軍を動かす訳にはいかない。

 将軍の私兵で征討するのだ」

 呂布の背後で未央宮の門が開かれる。

 外で董卓を待っていた側近に、董卓粛清が知らされ騒然としだす。

 呆然と立ち尽くす者。

 その後の粛清の対象になるのを恐れ、逃げ出す者。

 そして喜ぶ者。

 そんな門外の混乱をよそに、呂布と王允のやりとりは続く。

「郿塢征討の勅に逆らうつもりはない。

 董卓一族の殲滅を図るのは道理だ。

 だが、今日召集した兵は夜叉の爪牙一千しかいない。

 当然遠征の準備もしていない。

 昨日、動きを察知されて警戒されないように、兵の数を押さえろと言ったのは司徒ではないか。

 三日、いや二日待って欲しい」

 だが王允は首を横に振る。

「生憎だが、勅は直ちに、とある。

 悠長にしていると郿塢の逆賊に備えの時間を与えてしまう」

 そう言って王允は勅書を広げて見せる。

「しかし、だからと言って今すぐにと言うのはあまりにも……」

 王允の言う無理難題に難色を示す呂布の耳に、門外の喧騒の中から呂布の名を呼ぶ叫び声が聞こえた。

 振り返るとそこには全身を血に染め、転げ落ちるように馬から降りる成廉の姿。

 肩を貸していた張遼を夜叉の爪牙に預け、魏越が駆け寄る。

「どうしたんだ、その姿。

 まさか貂殿の奪回を失敗したのか」

「い、いや、貂殿は無事に救出した。

 だが殿の屋敷に戻って間もなく、徐栄が三千の兵と共に、殿の家族と貂殿の身柄を求めて襲ってきた……」

 成廉の言葉を聞いた呂布の顔色が変わる。

「王允、どういう事だ」

 王允に向き直り、詰め寄る。

 妖魔に取り憑かれた董卓を倒した余韻もなく、広場が再び不穏な空気に包まれる。

「徐中郎将が勝手にしている事だ。

 どういう事と聞かれても儂は知らん。

 そんな事よりも、そうそうに郿塢に向かうがよい」

 王允は素知らぬ顔で答え、その答えに呂布は愕然とした。

「そんな事より、だと。

 家族が謂われもなく捕らわれようとしているのに、見捨てろと言うのか」

 自分の家族を物の様に言われ、呂布の目は激憤を蓄え、強く拳を握る腕は今にも王允に掴みかからんばかりに震える。

 二人の様子を伺う羽林からも、王允の無慈悲な言葉に動揺の声があがる。

 自分達を可愛がり鍛えてくれた呂布の家族が危機なのだ。

「徐中郎将も貂蝉を求めていたのは将軍も知っておったろう。

 身柄を求めているということは、命まで取るつもりはあるまい。

 儂は董卓という妖怪を誅した事は評価し、奮武将軍に任ずる他、また別の恩賞はくれてやろう。

 だが勅に従わなければ、逆賊として処罰せねばならんぞ」

 周囲の雰囲気を気にも止めず、王允は勝ち誇った顔をして言葉を続ける。

「将軍は昨日こう言ったな。

『信用している訳ではない』

『相容れようとは思わん』

 同感だ」

 薄笑みすら浮かべる王允に呂布は奥歯が砕けんばかりに歯軋りをする。

「昨日の今日で周到に用意されたその勅。

 初めからその算段か。

 それがお前の魂胆か」

「ほ、奉先殿……」

 激昂する呂布に張遼が恐る恐る声をかける。

 張遼でなくとも呂布の配下であれば、呂布が誰よりも家族を大切にしている事を知っている。

 その家族の身の危険、悠長にしている暇はない。

 当然その家族には、張遼に懐く息女も含まれている。

「先に行け、文遠。

 魏越、夜叉の爪牙と共に。

 俺の娘はお前が守れ」

 張遼は力強く拱手して応えると、痛む体を押して馬に跨がり夜叉の爪牙に号令する。

「将軍、勅に逆らうつもりか。

 今日集めた千の兵の内、ここに六百、屋敷には四百。

 徐中郎将の兵は三千。

 もう間に合うまい。

 この先決して逆らわず、儂の手足として黙って従うなら、その大切な家族を儂の力で守ってやらんでもないぞ」

 この言葉に呂布の怒りは限界を超えた。

 この男は自分を思うままに操るべく、妻子を人質にしようと言うのか。

「王允、勅には従おう。

 だがそれは俺の手で家族を守ってからだ」

 戟を握る手に力が入る。

「許せ、貂蝉」

 次の瞬間、疾風の如き速さで戟が王允に繰り出された。

 たじろいだ王允は避ける事もできずに喉元刺し貫かれる。

「お前は俺や貂蝉だけでなく、俺の家族まで己の欲の為の道具にしようとした。

 人の心を解さず踏みにじるなら、相応の報いを受けてもらう」

 そう言って戟を振って血を払い、ざわつく周囲の羽林に宣言する。

「司徒王允は太師董卓に取り憑いた魔の気を受け、人の心を失した故に誅した。

 不服ある者いれば俺を追ってくるがいい。

 俺は今から屋敷に向かい、その後勅に従い郿塢征討に向かう」

 二人の一部始終を見ていた羽林に異を唱える者はなく、皆膝をついて呂布に拱手した。

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