6―クソ親父、チョウ現る

 そんな昔のこと、ミヤは全然記憶にない。

 そういうことをしたかもしれないし、してなかったかもしれない。ミヤはそれほど記憶力が良くない。それは日々の学校の授業からも証明済みだ。

「お前の親父のチョウさんもそれの類だ! 大型トラックに轢かれても、バンパー凹んであっちが当て逃げされたって言ってたそうじゃねえか!」

「あーそんなこともあったな……」

 その事件については覚えている。

 俺が小学生の高学年の頃、夜中に酒瓶片手にふらついていた父親が道路に出てしまい、スピードの出た大型トラックがそこを突っ込んだのだ。だが蓋を開けてみれば被害の出たのは大型トラックの方で、運転手は無事だが酷く狼狽ろうばいしていたそうだ。それはそうだ。確かに跳ね飛ばしたのに一升瓶を守って受け身を取った丈夫で俊敏なオッサンを真夜中に見てしまったのだから。

 しかも帰宅したチョウは慰謝料貰うの忘れた、と渋い顔で帰ってきた。そもそも酒は好きで飲みはするが一向に酔わないタイプなので、本当に人騒がせだと母親にこっ酷く説教されていた。

「で? 昔話しに来ただけか? てか早く帰って?」

「こ、こんなに他人から嫌われといて、まだ金の事しか考えてない……やっぱり人の心が無ェッ!!!」

「失礼な奴だな!?」

 だんだん腹が立ってきたが、ヨットケのエプロンをしている限りレジに立ってなかろうがミヤは店員の立場である。ここでゴッちゃんを殴るわけにはいかない。

「とにかくさ、今はゴッちゃんの相手してらんないワケよ。本当はムカついてきたから無性に人殴りたい気もするけど。あとでブッ飛ばしてやるからマジで後にしてくんない?」

「ム……チッ、本気じゃねぇお前殴ってもまあ気は収まらねえ、か……何時だ?」

 意外と話せるのは本当に何でだろうな、コイツも不良と呼ばれている男なのに、と疑問に思いつつ、ミヤはバイト後の動きを計算する。

「じゃあ、二十二時で」

「はあっ!? 遅すぎるだろ!! 明日も学校あるんだぞ!?」

「やっぱ不良じゃねえなッ!!!? 不良なら夜更かしくらいしろッ!!!!」

 ムシャクシャしたミヤは、瞬時にその頬を殴り飛ばした。

「ぐっフ……!」

「あ」

 途端にとてつもなく大きな後悔がミヤを襲う。

「な……なんてくだらないことで、俺は……っ」

「まっ!? ミヤ君!?」

「げっ!? 店長……!!?」

 しかもタイミング悪く雇い主であるスーパーヨットケの店長が自動ドアから出てきた。

「こ、これは、そのー……」

「なかなか帰って来ないと思ったら喧嘩!? ってあら、宇和島さんちの吾太朗君じゃない?」

 店長はつかつかと早足にやって来ては、オバチャン特有の甲高い早口でまくし立てた。

「事情は分からないけど、制服で人殴っちゃダメよ、絶対ダメ! 今のミヤ君はヨットケの顔なのよ? せっかくレジでなければってんで雇ったのに、こんなことして……私は裏切られて悲しいわよ! 一生懸命働いててくれてイイ子だわと思ってたのに!」

「ああ~~~~~~~~~~もうー……」

「ああもうーじゃないの! うちは団地内のスーパーだけど、駅近だからたくさんのお客様がいらっしゃるのよ!? そもそも――」

 くどくどくど。

 続くお説教にミヤが盛大な溜息を吐いている間に、人だかりができてきてしまった。店長の仰る通り、駅を出てすぐ見えるスーパーがヨットケだからだ。

「わかった! わかったから店長……!」

「ミヤ君のお母さんにもこのことは連絡させてもらうからねっ!? 今後の事も兼ねてっ」

「う……っ」

 ぷんっと踵を返す店長の背中は、有無を言わさないオカン的風情が漂っている。「黙ってこっちにいらっしゃい」という意味だ。

「うわ、ダッセェ……」

 ゴッちゃんが腫れた頬を手で押さえながら呟いた。




「あの、……仁人さん?」

「あ?」

 あれからバイトを終え、裏口から出てきたミヤを呼び止めたのは竹誓だった。

 正直、針の筵のような気持ちでの労働は、生活がかかっていても精神的に来るものがある。店長の不機嫌を受け止めながらやっと一日のやるべきことを完遂したと思ったら、面倒な女だ。

「……またアンタか。何でまだいんだよ?」

 ギロリと視線を向ける。ミヤの雌雄眼しゆうがんで睨まれてビビらない奴は少数だ。しかし竹誓は何やら頬を染めて、そわそわと足元を見つめていた。

「えっと、これからのことお話しようと思って……晩御飯だですよね?」

「アンタらが押し掛けてきたおかげでいつもなら回収できた廃棄弁当も持ち帰れずまだですが?」

 極めて不機嫌そうに返す。

 だがミヤの雰囲気とは打って変わって竹誓は高めの声音で話しかけてきた。

「それならっ……私が仁人さんの晩御飯を作って差し上げます!」

「……は?」

 半ば苦笑して。ミヤは疲れ切った肺の中の二酸化炭素もそれに乗せた。

「何言ってんの? いらねーよ」

「だから……」

「うるせーよ」

 最近はさほど暗くもないと感じ始めた五月の夜九時。

 団地の街頭と、棟の電灯、家庭から漏れ照る明かりが帰り道を照らす。

「……チッ」

 朝の新聞配達のほかに契約しているバイトは今のところヨットケのバックヤードだけだ。ここをクビになるとすると、新たに長期で雇ってくれる現場を探さねばなるまい。遠回りになるがコンビニ前に置いてある無料求人冊子をもらって帰るか。なんならその場でコンビニに雇ってもらえないか交渉するか――

 などとぐるぐる、ミヤの頭の中はそんなことで支配されていた。

「仁人さん!」

「……ああ? なんだよ?」

 ミヤには考えることが山ほどあるのだ。

 今晩の飯。明日の昼食。明日からの職、学校に払う金、これからの生活資金――考えるだけで眩暈めまいがする。

「ちゃんと聞いてください仁人さん! 私が……竹誓が在りもので食事を作りますから。本日のファイトマネーということで!」

「……ファイトマネー?」

 ぼやけた頭で鸚鵡返しする。

 ファイトマネーっ――ボクサーがもらったりするアレか? 一戦分が換算されてお金とかになるヤツ。

「……何でアンタが俺に?」

「それは……私が、仁人さんを、支えたいからです」

「……?」

 まだ頭の半分はヨットケをクビになった場合の受け皿の話で盛り上がっている。

 そこに入ってきたファイトマネーという単語。

「……それは、アンタが俺の生活を支援するってこと?」

「はい! 起床のおはようコールから朝食、手作りお弁当、洗濯、掃除、風呂洗い、背中も流しますし、晩御飯だって六時間浸水させた新米で炊き立てのご飯を提供します!」

 疲れ切ってオリゴ糖の足りない脳で辛うじて思考する。背中流すのはさておき、できたてのご飯は食べたい所存。

「でも、何で?」

 問題はこの、今日新登場したよく知らない転校生らしいって話しか聞いてない得体の知れない女が、何故俺にってことだ。本当のところを言うと、もう早く布団に入ってうつつを忘れたいくらい、ヨットケのクビはショックだ。まだ決まってないけど。

「だから、私が仁人さんを……仁人さんの人生の伴侶になりたいんです! 支えたいのです! ……いけませんか?」

 嗚呼……もう面倒なことは置いておいて明日にしよう。

 今日はもう疲れた。眠りたい。寝たい。帰りたい。

「……もうどうでもいい。今日は寝るわ……」

「……! っわ、わかりました! では私は膝をお貸ししますので、本日はゆっくりお休みください!」

「うん……?」

 とりあえず一旦会話が完結した気がして、明日にはもう出禁になっているかもしれない事務所への小径を重たい頭で振り返った。事務所の玄関には早まった蛾がたむろしていた。

 それからは意識のはっきりしないまま家路を歩いていたと思う、のだが。

 ――いやなんでだよ。

 と、ミヤは自宅の沼落団地5号棟103号室のドアを開けて、我に返った。

 現実に知らない女はのこのこついてくるし、なにより、滅多に顔も見ない父親・チョウが帰宅していたからだ。

「おう、青少年。不健全だな、女連れで夜中に帰宅か?」

「はずれ馬券しか持って帰って来ない父親に言われたくねえわ」

「おい、この家缶詰もねえのかよ。酒の肴になりそうなもの以前に食い物がねえじゃねえか」

「そらアンタが冷蔵庫売っ払ったからだろうがよ……」

 台所の引き出しから消費期限の切れたコンブを取り出ししゃぶってカップ酒を煽っているその横に、あったはずの巨大な存在感が消えている。そう、冷蔵庫が今朝にはあったのだ。

「確かに何も冷蔵庫には入ってなかったけども……」

 頭を抱えるミヤを差し置き、チョウは早速物珍しそうに竹誓をじろじろと物色している。

「ほーーーーーーう? なかなかカワイイ引っ掻けてんじゃねえか? 美人局つつもたせか?」

 チョウの酒焼けのダミ声がミヤの頭ガイコツを遠慮なく殴りつける。

「初めまして、仁人さんのお父様。私は輝夜竹誓かぐや たけちかと申します」

「……ふうん」

「アンタは自己紹介すんな! コラ親父ィ!!! 何で勝手に今日帰ってんだよ、連絡ぐらい寄越せやィッ!!!!」

 竹誓との間に入って面倒な話題を避ける作戦。

「いやいや、お前のスマホもう契約期限切れてるだろ?」

「んなバカな……あ、ホントだ。電波拾ってねえわ……」

 スマホが通じてないとなると、ますます次の職場が見つからない。ミヤの考え事が一つ増えた。

「それより、この娘っこはどこで引っかけたんだ? 隅に置けねえなあ、んー?」

「うるせーな少し黙ってろ! こっちは忙しいんだよ」

「今夜の予定でか?」

「もーーーーーーーーーッ、いつもこんなしつっこくねえだろ!!!!! たまに帰って来たと思ったらマジで何しに家に来たんだよッ!!?」

 それを聞いた瞬間に、チョウの据わった目が初夏にも追いつかないただの団地の一室を凍えさせた。

「ここは俺の家だよな……? なあーんでお前にそーんなこと言われなくちゃいけねえんだ? ああ?」

 ビリビリと、学ランの下の素肌にも鳥肌が立つ。ミヤはまた面倒なことになったなと考えていた。

 自分の父親ながら、こんな男は父親の風上にも置けないと思っていた。それは今回に限らず、自分を家庭外の存在と捨て置いた時に現れるチョウの顔がそうミヤに思わせていた。

「で……っ出て行けとまでは、言ってねえだろうがッ! とにかく……」

 発されるプレッシャーに耐えかねて、ミヤが視線を逸らそうとした時だった。

「いや、もう用は済んだから出て行くが?」 

「――――ッっコラあぁぁぁぁぁっぁあ待ていいいいいいいいィッ!!!!!!!!!」

 チョウの羽織った甚平の懐、見逃さなかった。

「なぁーんで母さんの通帳持って出てく必要があるんですかねぇ!!!!???」

「ぬ……フン、さすが俺のせがれといったところか……」

「あ、なァッ!?」

 ミヤは、自分の方が玄関を背にしていたので――竹誓も壁として機能すると思い込んでいたので――この期に及んで逃走するとは思いつかなかった。だがしかし、チョウの方が修羅場を多く潜り抜けていたということか。

「とーォうッ!!!!!」

 ガシャアアアアアアアアンッ!

 廊下で一年振りに相見えたかと思ったらこれだ。

 二尺もない廊下を飛び越え、入った四畳半の部屋の窓を突き破って出て行った。

「って窓ッ!!!!? 割れてるけどぉォォォォ!?」

 追いかけてベランダに出た時にはもう、かなり遅かった。チョウの影は夜の帳と見分けがつかなくなって知っていた。

「な……んだ、アイツ……? 仮にも俺の父親……いや! どの通帳を盗られたのか確認しないと!」

 玄関に竹誓を入ってきたまま置いておいて、ミヤは居間の洋服箪笥を引っ張った。その中に母親が置いていった金融関係の書類などが入っていた。

「……っぅああー、よかった! この団地5号棟103号室の契約書はそのままだ! 盗られたのは……!?」

 なんということだ。

 母親からの送金を司るメインバンクの通帳、キャッシュカード。それから、預金が出来た時に積み立ててていたミヤ名義の通帳が消えていた。

「ッッォッッツックソ親父ィィィィィィィィィイイイイイイイイイイ!!!!!!!!! ブッコローーーーーーーーーースッ!!!!!!!!!!」

 この瞬間、ミヤは事実上ほぼ無一文となった。

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