団地狂詩曲

紅粉 藍

第一章 5号棟505号室

1―貧乏学生ミヤ、朝の新聞配達で金を得ること

 下り坂をほうき星のように走り抜けるのは、まだ薄暗い早朝に灯った自転車のライトだ。

 その自転車はボディに『日和実ひよりみ新聞』と小さな看板が取り付けられている。乱暴な漕ぎ方の運転手と一緒に揺れる。

 風でめくれた前髪の下に、縫合した傷跡を持つ彼は、調仁人つきのみや じんとと云った。

 彼はアルバイト中で、年季を感じさせる自転車のカゴには新聞が何部も積み重なり、この丘の下に見える沼落団地の住民に届けられるのを待っている。

 ぱっと見では数えきれないほどに立ち並ぶ、薄汚れた外観の巨大な四角柱の群れ。都会のビジネスビル群とはまた違った威圧感を感じる。

 未だ静まったここが、沼落ぬまおち団地である。

 彼は勝手知ったる俊敏なハンドルさばきで、団地の敷地内に入っていった。

 彼もまた、この沼落団地の住人だからだ。

 しばらくして、自転車はドリフト気味にようやく停止する。

「えーっと、24号棟からだな。うっし、のぼるか」

 調仁人――通称ミヤは、ズボンのポケットにくしゃっとメモ紙を突っ込み、自転車のカゴから新聞を決まった部数だけ小脇に抱えた。

 春先の早朝はこの時間帯、朝日の一筋も無い。団地内の電灯だけが頼りだ。

 沼落団地の棟は無作為に乱立している様に見えるが、ほとんどが一棟につき四つの階段があり、階段は五階までで、それぞれ階段を挟むように二部屋――という法則がちゃんとある。

 現行の建築法では五階以上の建物にはエレベータを設置すべしとあるらしいが、昭和の時代に建設された沼落団地にそんなものは無い。なのでミヤは自分の脚のみですべての棟を駆けあがり、新聞をそれぞれの部屋に放り込んだらまた自分で駆け下りる。それを自転車のカゴが空っぽになるまで繰り返すのだ。

「ハァハァ……次ぃッ、23号棟!」

 ぐっと脚に力を入れなおして顔を上げる。

 さすがのミヤも息は切れるが、朝の空気はいくら肺に入れても清々しいものだ。

 お世話になっている『日和実新聞』支店は県道沿いにあるが、そことすら比べても団地の中の空気はうまい。昨晩カレー臭を漂わせたお宅の前も、今は団地全体を囲う木々によって清められている。

 数多の寝息のみが許されたここには、たくさんの人間が居るはずだというのに束の間の静寂がだけがある。不思議な場所だとも思う。

「次、22号棟!」

 そして、今その静けさを切り裂けるのはミヤの吐息だけだ。

「っしゃ、ここはおわり! 次はあっちだ!」

 雑にかつ無駄のない蹴りで自転車のスタンドを上げると、再び走り出す。

 自転車のカゴはまだまだ空っぽにはならない。


「今朝はここで最後だな」

 うっすらと白んできた空にすずめたちの声。自転車のスタンドを止める音が割り込んだ。

 ミヤは額を少しだけ汗で湿らせており、それが朝の光に輝いている。

「えっと、メモメモ……ん? この号棟で新聞取ってる人いたっけか? 一件だけだし、まあ全然いいけど」

 購読者数の上下はたまにあるが、それほどイレギュラーな出来事ではない。

 確認したメモ紙をくしゃくしゃに丸めて、大きく開いた口に放り込む。

「んぐっ……朝飯の代わり」

 ミヤは一部をカゴから小脇に抱え、やっと空っぽになった自転車が小首を傾げた。

 リズミカルに二段飛ばしで配達先の部屋まで上っていく。これで今朝の仕事もおわりだと思うと、自然足取りは軽やかだった。

「……あれ?」

 おかしい。

 三階まではあっというまに通り過ぎたのを覚えている。しかし、次の階に辿り着くまでの階段が長すぎる。箸休めのような踊り場ばかり続いているのだ。

 ミヤは三階からいくつめかわからなくなった踊り場で一度立ち止まった。

「どうなってやがんだ? えーっと、確か次のお宅は……って、メモ紙はもう食っちまったか。だが俺の頭が……いや、覚えてねえわ。これは本格的にヤベェな、店長にどやされそうだ」

 初めて配達に来た棟なので、部屋の玄関前の特徴も掴んでいない。

 普段なら何号棟の何階のあの玄関はいつも傘立てに開いた傘が置きっ放しだとか、表札のほかにファンシーな作りのウェルカム板がかけられている、だとか何かしらの個性があるものだ。そういった特徴を頼りに、自分は何階にいて階段はこれだけ上ればよい。次のお宅の玄関前はこういう目安があるからそれが視界に入れば新聞をぶち込め。という判断も出来る。

 今日に限って、この棟では何も引っ掛かるものもなくここまで来てしまった。

「どうしよっかなあー、てかここは何階だ?」

 ミヤは踊り場の塀から身を乗り出し、高さを確認しようとした。

「なんだこりゃ!? さっきまでなんともなかったのに……!」

 小鳥も起き始め、なんでもない朝がやって来るだろうと思っていた。そのミヤの考えを覆す光景が広がっていた。

「なんだこりゃ!? よくある朝の白くかすんだ靄とか、そんなレベルじゃねぇ……真っ白だ! 深い霧に囲まれてる! 下の自転車も何も見えん」

 なんだこりゃ、とミヤは繰り返した。

 さっきまでの平和な朝方が、まるで別世界に来てしまったような気候変動。

「へぁー、奇妙な日もあるもんだな。なんだか寒くなってきた気もするし……」

 ミヤは年中着回している半袖からはみ出た腕をさすった。

 しかし困った状況なのは変わらない。ここが何階かはわからないし、配達する部屋もわからないままだ。ミヤは頭を掻いた。

「一旦下りて、店まで戻るのがいちばん良いんだろうけど……もうこんな時間だし、誰かに引き継いでもらう感じになるかな。申し訳ねぇ上に給与も下がる。はあー……」

 盛大にもらしたため息も、この濃霧を晴れさせるには及ばない。

 ――その時、ぶるるっと背筋が震えた。

 この感触、寒さだけではない気がする。

 二度目のおかしさを感じたのはミヤ特有の生まれ持った勘だ。

 本能的に素早く振り返る。そこに見えたのは、次の階の部屋だ。

「……なんだこのドア。カミサマでもいんのか?」

 興味本位、というよりはそこに背を向けてはいけないような、そんな気持ちでミヤはゆっくり残りの階段を上っていった。 

 奇妙な玄関だ。団地のありきたりなドアの上に、綱と水引が垂れさがっている。それは神棚を彷彿とさせた。

「なんか、怪しげな宗教団体の基地……とか? でも表札らしきもんも無いな」

 無遠慮に観察する。

 水引の紙は真っ白で汚れもよれすらも無く、月日の流れを感じさせない。綱もシャレで取り付けたわけでは無さそうな堂々とした本物らしさがある。もちろんこちらも砂一つ付着していない。

「事故物件の部屋だから? いや、それだったら沼落団地中に知れ渡ってるはずだから俺の耳にも入るよな……ていうか、どちらかというと地鎮祭っぽいかな?」

 物心ついた時には既に沼落団地に住んでいたミヤも、このような部屋は見たことも聞いた事もなかった。それだけにその装飾は妙に惹かれるものがあった。

「そもそもこの部屋、誰か住んでんのか? 住んでたらそれはそれで……ん?」

 今、何か聞こえた――

 ミヤは動きを止め息をひそめた。

 自分の庭と言っても過言ではないこの場所で、ミヤは今初めて脂汗を掻いていた。


 シャン……――


 鈴のような音だ。


 シャン、シャン――


 それもたくさんの鈴を振って鳴らしているような。

 目の前の部屋の中から聞こえてくる。

 しかも遠い。


 ……シャンシャンシャンシャン


 この団地に全部でどれだけの部屋があるかは数えたことは無い。だが、沼落団地のどの部屋も間取りはすべて同じだとミヤは知っていた。階段を挟んで左右対称という違いだけはある。

 それだとしても、たくさんの鈴をこの部屋で鳴らすのにこんなに音が遠いはずがない。


 シャン、シャンシャンシャンシャン


 しかもその音がだんだんとミヤの突っ立つ玄関の方へ近づいてきている。


 シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャン――――!!!!!!!!!!


 本能的にミヤはその場から離れた。

 具体的に言うと、階を確認していた踊り場へ飛び降り、身を乗り出して下を覗いていた塀から更に飛び降りた。

「ぅぐあっ……ぃっつつ~~~~~~っさすがに……脚が、しびれるなこれは……」

 さっきまで居たと思しき階を見上げるが、何の変哲もない。ただの見慣れたボロい団地の一角だ。

 ここでミヤは空がすっかり明るくなっていることに気付いた。

 次いであれほど濃かった霧が一辺たりとも残っていないことにも気付く。

 いつもの朝がやって来たのだ。

「……開いたんだよな、あの玄関」

 だが、ミヤには確かに飛び降りるだけの危険をあの時感じていた。

 まだ少しジンとする脚を見下ろす。

 思い返すと、夢だった気もしてくる。

 しかし、走り出した間際に横目で見えた光景が脳裏から消えない。

 鳴り響く鈴の音とともにドアの真裏まで近づいてきた気配。その何者かが部屋のドアを開けたのかまでは定かではない。蝶番のきしむ音もなくすうっと開いた隙間からは、温かな家庭の明かりが漏れたりはしなかった。無だ。全くの闇だった。

「音が、近寄ってくるみたいに大きくなって、誰かが――鈴を鳴らしてたヤツがドアを開けた……? じゃあ誰か住んでんのか、やっぱし。でも……何をしてたんだ? ――あ」

 あごに持って行った手が、空っぽである事実。

「ああああああああああああああっ!!!!! 新聞ッ!!!!!」

 どうやら慌てていた隙に、先程の場所に置いてきてしまったようだ。

「いやいやいや、戻んのヤだぜ俺は……奇人が住んでる部屋の前なんかもう通りたくねえもん。絶対関わっちゃいけない奴だって……!」

 ブツブツと独りごち、自転車を空漕ぎして葛藤する。

 しかし健気に小首を傾げている愛車には『日和実新聞』の名前、『我々は何のために早朝から走り回っているのか』まるで問い詰めてくるようだ。

「くっ……新聞拾ってくるだけ行くか……」

 こうして二度手間を取らされたミヤだったが、結論から言うと、新聞は見つからなかった。

 それどころか、オカルトじみた思い出を作らされたあの部屋もきれいさっぱり見つからなかった。神棚の様な装飾の玄関を見間違えるはずが無いのに、だ。

 何度最上階である五階まで往復しても、水引も綱も、鈴の音も、どこを探しても消えてしまっていたのだった。

 ミヤは狐につままれたような表情で、五階からの朝日をぼーっと眺める。

「あ……やべ、学校!」

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