第14話 いします
その夜、なかなか寝付かれずに何度も寝返りを打つうちに目が冴えてしまい、江洲楓はショールをはおってベッドルームを出た。少し考えてからカラス玉のペンダントをしまったケースも持ち出した。
キッチンのダイニングテーブルに、リキュールの壜とグラスが置いてある。竹園灰の心遣いだ。
それから、画集のような本が一冊。
絵本のような堅牢な薄手の本だ。
シンプルな装幀の表紙の真ん中には写真が印刷されている。
蛍光グリーンのコンポート皿。
花器にも使えそうな深さがあって底から縁に向ってゆるやかなカーブで広がり、さらに縁はメロディを奏でるような優美な曲線を描いている。
大正時代に見られるようになった洗練されたデザインだ。
昭和初期に建てられたこの屋敷には、困窮時にも手放さなかった明治大正昭和初期の日本製の器や調度品のコレクションが、蔵の隠し部屋に保管されていた。西洋のものを模したというよりは、ブレンドすることで独自性を持たせたアンティークの日本製の西洋調度品や器類は、八洲家のこだわりだった。
「さすが、灰。感謝」
江洲楓はつぶやくと、切子の小ぶりのグラスにリキュールをついだ。
グラスに口をつけてひと息に飲み干す。
甘くて強い液体がのどを心地よく焼いていく。
アルコールのせいか気がゆるんだのか、真夜の中でカラス玉を見たくなり、テーブルに置いてケースのふたを開けた。
常夜灯の仄暗い明かりの中で、カラス玉の光は鈍い。
やはりブラックライトを当てなければあの蛍光グリーンは現れないのだ。
「灰、起きてるかな。ここに来る時は寝ずの番だって言ってたけど。でも、まあ、一緒に飲むのは無理かな」
以前寝酒につきあってと頼んだ時には、「実はこれでも仕事中なの」とにべもなく断られてしまった。お茶や食事はつきあってくれるが、アルコールは万が一の時に動けなくなると困るからとのことだった。
その割には料理やスイーツにワインやブランデー、日本酒などがふんだんに使われている。
ついこの間もクレープシュゼットの実演サービスで、腕を伸ばしてかなりの高さからコアントローをつつーっと大量に注いで、クレープパンを思いっきり青白い炎の海にしてみせたのだった。アルコール分は飛ぶとはいえ豪快な使い方は見ているだけで酔いそうだった。味はもちろん最高なのだが。
「今度はベイクドアラスカ頼んでみようかな。海開きのサマーパーティーの時に」
夏の海岸のにぎわいを思い浮かべながら、2杯目に口をつけようとした時だった。
ふっと、潮のにおいが鼻をついた。
波の音がいつになく騒しい。
海岸からはさほど離れてはいないものの風がなければ普段は海の気配はさほど濃くはなかった。
今夜は天候に異常はなく月齢も特別な潮汐ではなかったはずだ。
江洲楓はどこか窓が開いているのかと訝しみ、カラス玉のペンダントを手に、においと音のする方向へ歩いていった。
一人で住むには広すぎる家だった。
一階の端に前庭に面して半六角形に突き出た吹き抜けのサンルームがある。天気が良ければ波の煌めきの向こうに岬が見えそこから外海に出て行く船の航跡が幾筋も描かれていくのを眺めることができる。潮のにおいはそのサンルームから漂ってきているようだった。
サンルームから庭に出るガラス戸が開いていた。
遮光のレースカーテンが揺れている。
そちらに近づくと、なま温い潮の香が強くなった。
カーテンを払って外を見る。
その時、手に持っていたカラス玉が月光を浴びて鋭く閃いた。
「ごめんなさい」
弱弱しい声がした。
江洲楓は振り返って室内を見まわした。
部屋の隅のサイドボードの影に蹲る人影が見えた。
「あかりさん? 」
江洲楓はサイドボードに近寄っていった。
小刻みに震える肩が見える。
通り雨にでも降られたのか、ぺったりとした髪から雫が滴っている。
波打ち際の距離感を誤って波をかぶったのか、ロングワンピースの裾に水の染みが広がっている。
「どうしたの、こんなところで」
怖がらせないようにゆっくりと近づいて片膝をついて久繰里あかりに寄り添った。
久繰里あかりは江洲楓の手にしたカラス玉のペンダントを確認した途端に震えだした。
「あかりさん、落ち着いて」
江洲楓はそれを見てカラス玉のペンダントをソファとは反対側にあるアップライトピアノに掛けられた黒く重いカバーをめくるとふたの上に置いてカバーをかぶせた。
これで彼女の視界にカラス玉は入ってこないはずだ。
久繰里あかりはへたりこんで大きく肩で息をしている。
江洲楓は自分の肩からシルクカシミアのショールをはずすと彼女を包んだ。
しっとりと濡れた髪から潮のにおいが漂ってくる。
「おねえちゃんが、返してもらってきなさい、って」
久繰里あかりが口を開いた。
「え、おねえちゃんって、
あかりは、大きく目を見開いてから、こうべをたれた。
「わか、ら、ない」
「わからないって、え、どういうこと」
問い詰めそうになって江洲楓は、ひと呼吸置いた。
あかりが再び小刻みに震え始めた。
「と、とにかく、そのままじゃ風邪をひいてしまうから、着替えましょう」
電気をつけるとあかりの印象が変っているのに気がついた。
昼間見た時は、肩揃えの髪は黒かったのに、生え際から耳の上くらいまでが緑ががかって変色していたのだった。おねえちゃんから逃れるために変装しようとしてカラーに失敗したのだろうか、それにしても奇妙なまだら模様に染まっている。
「灰に頼んで何か温かいものを作ってもらうね。ここは落ち着かないから、リビングへ行きましょう」
江洲楓はそう促すと、よろめいてうまく歩けない久繰里あかりに肩を貸して歩き出した。
その時だった。
着信を知らせて携帯が震えた。
江洲楓は少しためらってから、思い切って画面に表示した。
―—いします――
そこには、今度来るであろうと予想していた「がいします」ではなくもっと短い「いします」とあった。
「いします……イシマス……委しますだと、委譲する、つまり任せるだから、よろしくお願いしますってこと。慰しますだと、文字通り慰める、癒されたいという気持ちで相手がいるってこと」
江洲楓は考えごとをする時に言葉に出すくせがある。
「いします」というメッセージ、これは、竹園灰にも知らせなければと思った。
けれどもまずは久繰里あかりをとにかく着替えさせないと。
そこで江洲楓は思い出した。
カラス玉をピアノところに置きっぱなしだったことに。
サンルームの鍵もかけ忘れていた。
どうしよう。
迷っているうちに、肩を貸している久繰里あかりがずっしりと重くなってきた。
くるんでいるショールにも水が染みてきている。
「だ、だいじょう、ぶ、あか、あか、りさ、、、」
江洲楓は声がかすれてうまくしゃべれなくなっていた。
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