私より知っている 第1話 和久井咲良のケース

 先程から既に二週しているスヌーズ機能をようやく消した。時計は七時十分を回っている。学校なんて行きたくない、行く意味が見つからない。サニー先輩を眺めることくらいしか、学校に行く理由なんて見つからない。と和久井咲良わくいさくらは常々思っていた。眉間のシワが緩まないまま、制服を着てカーテンを開けると、日差しが眩しすぎて、もっと眉間にシワが寄った。

「ママ、おはよう」

「咲良! いつまでダラダラしてるの、早く準備しなさいよ!」

 母親は既にお弁当の支度も終えたようで、咲良が降りてきたことを確認すると、食パンをトースターに差し込んだ。

「パパは?」

「もうとっくに出たわよ!」

 父親も母親も、いつもシャキシャキしていて、どうしたらこんなに朝から元気になるのだろう。それが最近の咲良のいちばんの疑問だ。

「昨日も遅くまで携帯ゲームでもしてたんじゃないの? いい加減にしなさいよ、もうすぐ受験生なんだから……ほらまた‼︎」

 咲良はスマホを触りながら、出されたトーストを口に咥えていた。

「ほんっとにお行儀が悪いんだから、早く食べちゃって!」

 咲良は幼い頃からどこかゆったりとしているところがあった。

 幼稚園の時から、かけっこもいつもビリで、父親も母親も、咲良に悔しい気持ちがあるのかどうか伺ってもたが、全くそのような様子はないようだった。

 強い身体を作らせようと、水泳教室に通わせたこともあったが、全く続かなかった。少しすると、すぐに行かないと言い出し、母親が無理矢理連れて行こうとすると、ついては行くものの、プールサイドでひとり座っていることも多かった。

 学校の成績は悪く無かったが、特段良いと言う事もない。両親は、できるだけ勉強をさせようと塾に通わせていたが、成績がぐんぐん上がるということは、特に無かった。だからと言って下がる事もない。両親にも、咲良がいつも何を考えているのか、理解しにくい節があった。

「行ってきます」

「あら! もう行くの?」

「早く行けって言ったじゃない……」

「そうだけど、行くようなそぶり見せないんだもの……気をつけていってらっしゃい!」

 咲良は小学校の時も、中学校の時も、学校に馴染めているようには見えなかった。家に友達を連れてきたことも、今までに一度もない。しかし、高校生になり、スマホを持たせると、手放せなくなってしまったようだ。今まで何かにのめり込んだ様子は一切見せなかった咲良だが、スマホとはどうやら仲良くできたらしい。持たせた瞬間から、片時も離さない。いつもいつも画面に向かって、何か心を通じ合わせているようだった。流石に両親もその咲良の様子に心配になった。咲良はもともとゆったりしているタイプだったが、朝は格段弱くなり、成績も少しずつ下がっているようだ。休みの日もどこかに出掛ける様子も全くない。一体全体スマホで何をしているのか、両親には全く想像がつかなかった。

 咲良はいつも通り、イヤホンをつけてバスに乗り、ラッドウィンプスを流しながら通学するのは、唯一の朝のルーティンとも言える。音楽を流しながら、ゲームをしたりSNSをしたりする。そうしているうちに、気がつくと学校の前に立っている自分がいるのだ。


「あ、サニー先輩だ……」

 革靴を下駄箱に入れたところで、彼の姿を目で追った。

 咲良は今、恋をしている。男子から声をかけられることは少なくない咲良だが、自分から恋に落ちたのは初めてだった。図書室で、高いところにある本を取ろうとした咲良を、手伝ってくれたのが彼だった。咲良は最初乗り気では無かったが、その優しそうな声に、なんとなく好感を持って、すぐに連絡先を交換した。咲良は、その彼のことをサニー先輩と呼んでいる。チャットのアカウント名がsunnyだったからだ。しかし咲良はチャットの上でしか、ほとんどサニー先輩と話したことがない。サニー先輩はテニス部で忙しそうなので、学校で咲良から話しかける事は全く出来なかったし、サニー先輩も、咲良のクラスまでわざわざ訪ねてくる事もないようで、軽く挨拶をする程度だった。咲良の顔を見ると『よっ』と言ったような感じで、右手を上げるサニー先輩の顔を見るだけで、咲良は嬉しい気持ちになった。


「おはよう咲良!」

「……おはよう」 クラスメイトの声に、咲良は現実に引き戻された。

 高校に入ってからは、咲良にも何人か友達が出来たが、咲良には本当に学校に行く意味を見出せないでいた。友達なんて特にいらないし、勉強をしたいわけでもない。少し大人になって、友達付き合いをしないと、変な人だと思われるという事だけは学んだようで、学校では明るく過ごしているつもりだ。しかし、咲良の本心はそこに無かった。テニス部の練習をしているサニー先輩を陰で見つめることだけが、咲良の楽しみだった。

 スマホの中にはたくさんの友達がいる。SNSではたくさんの人と話すことができる。いつでもどこでもゲームができる。楽しいことばかりだ。体育祭より文化祭より、修学旅行よりも楽しいことばかり。その小さな箱の中に、咲良の世界はあった。

 昼休み、咲良はサニー先輩にチャットを送った。

『先輩、今日も部活ですか?』

『うん、試合が近いからね』

『試合、見にいっても良いですか?』

 咲良は返事を待っている。この待っている時間も、咲良にとって大事な時間だ。既読マークがついた。どんな返事が来るのだろう。咲良の目はスマホの画面から離すことができない。

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