ジョーカーの患者たち

森川音湖(もりかわ ねこ)

あなた 第1話 一条那々子のケース

 今日もまた目が覚めた。

 窓から差し込む日差しは、直線的に眠りまなこを刺激している。シバシバと何度か瞬きを繰り返すと、白い天井にはいつも通り、顔のような茶色いシミが見えた。

 今日もまた、この部屋で目覚めることができた、ということをゆっくりと確認した。

 毎朝目が覚めると、この確認作業をするのは一条那々子いちじょうななこの日課だ。

 



 三ヶ月ほど前、那々子は生まれて始めて目の前が真っ暗になるという経験をした。まさか自分が末期のがんであるという宣告を受けるとは、夢にも思っていなかったのだ。仕事中に突然激しい腹痛に襲われ、緊急搬送されたのち、目覚めた場所は硬いベッドの上で、周りはくすんだ白い壁に覆われた病室だった。天井の茶色いシミは、じっと那々子のことを睨んでいる。検査した時にはすでに、全身に転移が見られ、手の施しようの無い状態だった。

 いわゆる世間でいうところの科学者である那々子は、医者がそんなに事細かに説明をしなくても、今置かれている状況がどのようなものか、すぐにわかった。

「そんな……こんなことって……」

 母は医者の説明を聞くと、手を顔全体に覆うようにして泣き始めた。父も母の肩を抱いている。

 自分はすぐ隣に座っているというのに、早くも葬式にいるかのような雰囲気を出されて、那々子は気分が悪かった。医者の説明を食い入るように聞いている両親のその姿は、さながらホラー映画を見ている若者のようで、那々子は自分の事のようには、全く感じられなかった。そして、医者の話しは頭に全く入ってこない。この時間は、会社のくだらない会議に出ている時よりも、よっぽどつまらない時間だと思っていたが、目の前にドラマが起こっているようで、なんだか自分は傍観者のような気持ちになった。

 会社はもちろんすぐに辞めることになり、入院後、母はつきっきりで毎日病院で寄り添っては、よく涙を流している。婚約者のれんも、仕事帰りに見舞いに来ては、わざとらしく無理した笑顔を向け、元気づけるのに必死のようだ。こういう状況になった時、本人が一番冷静になるものだ、と那々子は思った。

 しかし一週間前、緩和ケアに移ってからは、さすがに体調も一筋縄ではいかなくなった。確実に死に近づいて来ていることが、手に取るようにわかる。今更になって、どうして私がこんな目に、いつも冷静な那々子だったが、次第に頭の中は恐怖で支配されていくように感じていた。




 那々子は、自分の人生が安泰なものになると思っていた。左手の生命線は長かったし、それだけ努力をしてきた自負もあった。

 一条グループを束ねる父と、元キャビンアテンダントで、専業主婦でありながら、社長夫人としての意識を高く持った母は、那々子に一切の期待をかけていた。

 年の離れた兄も、幼い頃から勉学に励み、スポーツ万能で、学校でも人気者であったが、その両親からのプレッシャーに耐え切れず、下がっていく成績に常に怯えていた。母は、兄を激しく叱責することが増え、父も兄の目を見て話す事はなくなった。そんな兄が、部屋から一切出てこなくなって閉まったのは、那々子が六歳の時だ。いつも優しかった兄の顔は、青白く光るゾンビのようになってしまった、と当時の那々子には思えた。

 姉は、ずっとこの家に不満を持っていた。父の言う事にも、母の言う事にも反抗し、手のつけられない状態になり、気づいた頃には、家に戻ってくる事はもうなく、風の噂によると、海外で結婚したらしい。

 上二人の子育てに頭を悩ませた両親は、那々子だけには、一条家最後の砦、と言わんばかりに、目に入れても痛くないほど可愛がり、手厚く教育した。

 その結果、那々子は有名国立大学を大学院まで卒業し、大手化粧品メーカー、大華堂おおかどうの開発研究員として就職し、三年目を迎えた春のことだった。


「那々子、これ」

「え? 何?」

 わかっているのに、那々子はわからないふりをして、同じ会社の営業課で働いている高浜蓮たかはまれんに訊いた。蓮は白いリボンでまとわれた、エメラルドグリーンの小さな箱をテーブルに差し出し、顔を真っ赤にしながらワイングラス越しに那々子を見つめている。

「なに? この箱、もしかしてプレゼント?」

 それが二十七歳の誕生日プレゼントであるだけではないことくらい、那々子にはわかっていたが、もう少し蓮が本当にあの言葉を言ってくれるのか、待ち構えてみた。

「……結婚……してください」

 この大して高級でもないが、小洒落たフレンチレストランに誘ってくる時点で、那々子はこれから何が起こるのか、容易に想像できたが、本当にこの言葉を蓮から言われた時、自分でもびっくりするくらい、那々子の心は跳ね上がった。

「はい……私でよければ、よろしくお願いします!」

 これまで、なんて答えようかと何十通りかの答えを用意していた那々子だったが、ここは満面の笑みでしおらしく答えることにした。プロポーズというのはムード作りが何よりも大切だ。この私に、ちゃんとプロポーズできるなんて、柄にもなく、よくここまでがんばったぞ、と蓮の頭を撫でて褒めてあげたい気持ちになって、蓮の手をにぎりながら、その真っ赤に染まった顔をまっすぐと見つめた。

 蓮の実家は、いわゆる一般家庭で、特別裕福ではなく、大社長のご令嬢である那々子とは、かなりの格差があるように感じられたが、両親は快く蓮を迎え入れた。

 何事もなく、結婚がうまく進みそうで、この時の那々子は幸せの絶頂であり、自分の人生に阻むものは何もない、という気持ちで溢れていた。

 そんな中での癌宣告は、これまでの那々子の人生からは、到底予測のできない事態であったのだ。

 ——人生には、まさかのことが起きる。

 那々子は、二人の兄弟の姿を見て、そんなことは重々承知しているつもりだったが、そのまさかなことが起こった時、自分の人生がもうすぐ終わってしまうなんて、いまだに信じられなかった。自分の力では、どうにもできないことがこの世にはあるのだということも初めて知った。しかし、それを学んだのは最悪のタイミングで、もうすでに遅かった。

 母は毎日泣いていた。病室の外に出ては、いつもドア越しにすすり泣いているのがみえる。目を赤く腫らして、部屋に入ってくる母の姿に、那々子は正直辟易としていた。父も蓮も、仕事帰りには、必ず毎日病室にやってくる。

 那々子は、蓮や両親にとても申し訳ない気持ちになっていた。両親は自分に、ほとんど三人分の愛をくれていたと思っていたし、蓮はよりによって、自分の人生をかけて婚約した相手が、残りいくばくもない命を燃やしているなんて、彼らの気持ちを想像するほど、那々子は申し訳ない気持ちになって、自分がいなくなった後、彼らがしっかりと、前を向いて歩いていけるのかどうか、心底心配になった。こんな彼らを残して自分は逝くのか。

 ——しかし、その時は間違いなく確実に、一歩づつ近づいているのだった。




 那々子の両親は、彼女が余命宣告を受けてから、あらゆる手段を探していた。ありとあらゆる医者に診断させたし、海外で手術をする方法も探っていた。しかし、自分達の命よりも大切な娘は日に日に弱っていく。両親は、その日を迎える覚悟が全く出来ていなかった。その二人の姿は異常なほどだと、病院関係者も蓮も思っていた。お金持ちというのは、金でなんでも解決しようとする。その姿を見ていると、本当に那々子の命を延長させることもできてしまうのでは無いか、という雰囲気すらかもしだしていた。

 その姿は、能見のうみ総合病院の脳外科医、五名竜二ごみょうりゅうじの目にも写っていた。

 五名竜二は、那々子が入院している病院の、一本隣の道沿いにある、能見総合病院に勤めている。

 能見総合病院は、那々子が入院している高級なセレブ病院とは違い、三流の総合病院だ。廊下の明かりも暗いし、作りも古い。確実に経営が潤っているようには見えず、患者の様子も、本当に健康保険に加入しているのか、疑わしいよう人たちばかりである。外来の受付も、なんだか薄気味の悪い雰囲気をかもしだしており、そこを曲がった角からゾンビのようなお化けが出てきたとしても、なんらおかしくはなさそうだ。

 脳外科医も総合病院だというのに、五名一人であった。だいいち能見総合病院には、脳の病気で訪れるような患者はほとんどいない。五名は診察する患者も、ましてや手術をしなければならない患者なんかも受け持っていなかった。病院というのは基本的に人手不足だというのに、どう見ても暇を持て余しているようで、周囲からは給料泥棒と陰口を言われていたが、そのするどい目つきと人を寄せ付けない雰囲気に、意を呈して文句を言う者はいなかった。




「お嬢さんの命、助けることできますよ」

 その男は、那々子の両親の背にそうつぶやいた。

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