第3話 老人と犬

 それから数日間、ジョイはトイレの様子が見える近くの茂みの影に隠れて、もしかしたら姿を現すかもしれない彼女を待ち続けた。しかし、朝昼晩と繰り返し姿を現したのは、棍棒を持ったあの化け物だけだった。


 自らの支えになるものを何もかも喪った、そんな経験をしたことのある方には想像はつくだろうけれども、彼の絶望感、孤独感は言葉にすることも難しいほどだった。

 渇きも空腹もひどかったが、そんなことはどうでも良かった。彼女たちに会えないのなら、そもそも生きる理由などないのだ。


 そんな彼の様子に気付いたのが、毎朝この公園を散歩することを日課としていた、一人の老人だった。

 近付こうとすると、ジョイが怯えて逃げようとするため、最初は声を掛けて手を振る程度だったが、数日後に再びそばに近寄ってみると、もう彼は逃げなかった。そんな元気さえ、失っていたのだ。


「こりゃあ、いかん。随分な弱りようじゃないか。とりあえず、うちにおいで。飼い主は後で探そうかね」

 老人は、ジョイを抱き上げた。彼は逆らうこともなく、ぐったりとなされるままだった。紺色のジャンパーは泥と毛でひどい有様になったが、十年も着ている代物だから今さらどうでもいい。


 住み慣れた、「第三コーポ希望荘」にたどり着き、グリーンのペンキのあちこちに錆が浮いた屋外の階段を駆け昇ろうとすると、背後から待ったがかかった。


「ちょっと、シゲさん。そのワンちゃんは何だい? これでもうちは、ペット禁止だよ」

 腰に手を当ててにらんでいるのは、こちらも長い付き合いの大家さんだった。老人がここに住み始めた頃には、まだ色気の残る後家さんという雰囲気もあったが、今ではただの老婆だ。


「死にかけとるんだ、こいつ。飼い主とはぐれたらしい」

 返事になっていないのだが、大家さんの表情が変わった。彼女も本当は、動物が好きなのだ。

「そりゃいけないね。うちに連れておいで。温かいミルクでも飲ませてやるよ」


 シゲさんと大家さんの二人に看病されて、ジョイはどうにか体力を取り戻した。最初は口にしようとしなかった「ビタワン」も少しずつ食べ始めた。

 しかし彼に、以前のような元気さが戻ることはなかった。

 散歩に連れて行こうとするシゲさんに逆らおうとまではしなかったが、周囲に関心なさげに、とぼとぼと歩くだけだ。

 ただ、公園のトイレの前を通りがかった時だけは、じっと立ち止まってその建物を見つめた。まるで、まだその中に彼女がいるのではないかと思っているかのように。


 結局ジョイは大家さんの飼い犬ということになり、あくまでその世話を任されたという建前で、シゲさんの部屋に置いてもらうことになった。

「希望荘」の住民はみんな親切だった。大家さんが古いワープロで作った「飼い主を探しています」というポスターを、各々なじみのお店に手分けして持って行って、レジ前などに貼り出してもらうように頼んでくれたくらいだった。


 そもそも、ここがペット禁止になったのは、数年前に孤独のうちに亡くなった住民が大の動物嫌いで、隣室で飼われていたチワワと本気の大喧嘩を繰り返したのが理由で、今となっては誰も文句を言う者などいなかったのだった。

 ただ、肝心のその飼い主一家がとっくにこの街を離れている以上、残念ながら連絡が入ることはなかった。


 そんなみんなと毎日を過ごすうちに、ジョイも少しずつではあるが元気を取り戻し始めた。通路から手を振る通りがかりの住民に、尻尾を振り返して愛嬌を振り撒く、そんなくらいには。

 シゲさんとの散歩の際も次第に足取りが軽くなり、四季ごとに様子を変える公園の風景に関心を示すようにもなった。

 舞い散る桜の花びらを追いかけ、セミに向かって吠え掛かり、何かを思い出そうとするかのように紅葉を見上げた。


 そしてあの季節、クリスマスがまたやってきた。

 今は老人となったシゲさんだが、彼にも当然若い日はあり、電算室のキーパンチャーだった恋人と一緒に四畳半一間の下宿で「タカラブネ」のクリスマス・ケーキを食べた、そんな大切な甘い思い出もあった。

 そのせいか、シゲさんはクリスマスの雰囲気が好きだった。

 大々的に部屋を飾り付けたりまではしないものの、窓辺に小さなツリーを飾り、イブの日にはオーブントースターでローストチキンを温めて食べる、そんな習慣があった。


 押し入れからソニー・プラザで買ったツリーの箱を取り出し、銀紙の星や綿の雪をセッティングしてコンセントをつなぐと、色とりどりの豆電球がチカチカと点滅を始める。その様子を見ていたジョイは、ワンワンと激しく尻尾を振って大喜びした。やはり彼は、クリスマスの申し子なのだ。


「お、そうかい。お前もクリスマスが好きかね」

 いつにない、ジョイの嬉し気な反応に、シゲさんは相好を崩した。

 イブの日には、自分のローストチキンだけではなく、「ビタワンGооd!」――缶入りの高級ドッグフードで、彼のチキンよりも高いくらいの値段だった――も奮発した。


 久々に食べる、ウェットタイプの贅沢ご飯に、ジョイはまた大興奮した。

 あまりにワンワン言うので、大家さんはじめ「希望荘」のみんなが何事かと様子を見に来たりしたが、シゲさんの説明を聞くと「良かったねえ」と頭を撫でてくれるのだった。通路の外では、雪がほんの少しだけ、舞っていた。

(最終話へ続く)

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