<case : 20> noah - ノア

「何をやったんだ……?」


 驚愕したヴェルが言うと同時に、悲鳴と怪物の咆哮が入り混じった轟音がホール中に反響する。誰かがターンテーブルに触ったのか、重低音の聴いた音楽も再び鳴り始める。エレクトロ調なデスメタルが人々の焦燥をなお駆り立てる。


 まさにホールは、先の少女が言った、混沌と呼ぶにふさわしい場になりつつあった。少女が舌打ちする。


「先にあれを何とかしなきゃ……」


 少女が怪物に向かっていこうとすると、その前にヴェルが立ちはだかる。


「何のつもり?」

「あの怪物は俺がやる。お前は、あの男を追え」


「人間にあれの相手は無理よ」

「……そうだな。人間なら、な」


 初めてヴェルが至近距離から少女の目を見据える。伸ばした前髪に隠れたヴェルの赤い左目を視認し、今度は少女は驚愕する番だった。


「行け!」


 それだけ言うと、ヴェルはバーカウンターに飛び乗って大ホールの様子を俯瞰する。


 あの辺りは、ナタリが聞き込みをしていたはずだが、姿が見えない。先ほどから鳴らしているがコールにも応答がない。仮にもファントムの掃除屋、暴徒の下敷きになるような奴ではないはずだが。


 ヴェルはカウンターの上を駆け、一気に跳躍する。側面の壁を蹴り、天井に煩雑に張り巡らされたフレームのひとつを掴むと、勢いをつけて一気に前方に飛ぶ。前しか見ていない群衆は、自身の頭上を飛ぶ灰色狼の姿に気づかない。


 着地し、群衆の最後尾に出ると、辺りはすでに血の海だった。今のところ、視界に入っている死体の中にナタリの姿はない。


 怪物は空間の端に移動して、ヴェルに背を向けながら一人の死体に覆いかぶさり、死肉を貪っている。


「人間、マキナス問わず、喰うのか」


 声に反応して、怪物が顔を上げる。金色だった瞳は今は感情の読めない赤に変わり、真正面に立つヴェルを捉えた。怪物は咆哮すると、熊のように爪牙を突き立てながらヴェルに襲い掛かった。


 姿勢を落とし、銃を構え、正確に一射。指を吹き飛ばされると、怪物は悲鳴を挙げ、一歩後ろに後ずさる。苦痛と怒りに顔を震わせながらヴェルを睨みつけると、先ほどよりも圧倒的な速さで再び突進する。


 ヴェルは振り下ろされた爪牙をギリギリで避けながら、怪物の側面を跳んで背後に回る。そして、怪物が振り返るよりも速く背中へ二射。


 しかし、怪物の硬質化した皮膚はヴェルの銃弾を弾き、致命傷に至らない。そこにできた一瞬の隙を、怪物は逃さなかった。ヴェルを目視せず、前を向いたままにもかかわらず、勢いよく腕を振り返し手を繰り出す。


「チッ」


 ヴェルは腕をクロスさせて防御態勢を取る。そこに怪物の腕が直撃する。その衝撃は88キロあるヴェルの体躯を軽く吹き飛ばし、身体の80パーセント以上がマキナスの素体で、強化骨格と人工筋繊維によって人間離れした身体にすらなおダメージを与えるほどだった。


 吹き飛ばされたヴェルは、壁を突き破って暗い部屋に転がり込む。


「ぐっ……」


 粉塵が舞うその部屋は、ステージ裏の物置のようだった。顔を上げたヴェルは、次に目に飛び込んできた物を見て息を呑んだ。


 目の前に落ちていたのは、肩から先だけの腕だった。その腕には、ヴェルもよく知る灰色狼の腕章。心臓が高鳴り、唖然とする。


 すぐに辺りを見回し、部屋の奥で片腕をそがれ、血を流して倒れているナタリを見つけると、怪物が迫っていることも忘れて傍に駆け寄る。


「おい、しっかりしろ! 何があった!」


 息はある、しかし出血が多く意識もすでにない。ナタリの顔は真っ青だった。


「キオン! 俺だ、至急クメールルージュに応援を」

「ヴェル! もう向かってる、数分で着くはずだ!」


 コールを受けたキオンは言った。


「市民から通報が入ったんだ。それに、他の場所でも同様の内容で通報が増えていて、本部が対応に当たってる。そっちの状況は?」

「冴継が重傷だ。早く医療機関に運ばないとまずい」


「くそっ……じゃあ、化け物がいるってのは本当なのか。錯乱したジャンキーどもが見た幻覚だと祈ってたのに」

「残念ながら、本当だ。俺が見た怪物と同じだと思う、それに……」


「とにかく、応援が着くまで攻撃は待て。あまりに危険だ」

「いや、どうやら、そうもいかんらしい」


 ナタリのもとへ駆けつけたことで、ヴェルは袋小路に追い込まれる形になっていた。そこに、怪物が口元から涎を垂らしながらゆっくりと迫ってくる。


 その眼光は先ほどまでと違って、ヴェルを餌ではなく、明確な敵だと認識しているように見えた。キオンが耳元で何か言っていたが、通話を切る。


 前方に怪物、後ろにはナタリが倒れている。横から抜け出す隙間はないし、自分が避けてしまうと後ろのナタリが危ない。


 射程に入ったのか、怪物は一気にヴェルに向かって突進してくる。これに応じてヴェルも怪物に向かって一直線に走り、ナタリとの距離を開ける。走りながら銃を構え、弾が切れるまで撃ち込むが、先ほど同じく硬質化した皮膚を貫けない。


 怪物が腕を振り上げ、頭上からヴェルに叩き込む。一発が怪物の眼に当たり、振り下ろした腕はヴェルをかすめて地面に直撃する。


 ヴェルは地面に食い込んだ怪物の腕を踏みつけると、そのまま腕から肩へと跳躍し、さらに肩から天井へと跳ぶ。鍾乳洞のように張り巡らされた鋼鉄製のフレームに手をかけて捕まり、体勢を整えると、ヴェルを追って顔を上に向けた怪物の口の中を狙って、ありったけの銃弾を撃ち込む。


 予想の通り、身体の中ならば銃が効いた。怪物は断末魔のような悲鳴を挙げ、地面に頭から倒れこんだ。


 肩で息をしながら地面に飛び降りると、再度ナタリの元へ駆け寄る。急いで治療を受けさせなければならない。応援はまだか。


 ナタリの身体を抱き上げようとしたその時、ヴェルの後方で再び荒い息遣いが聞こえてくる。振り返ると、死んだはずの怪物が息を吹き返し、立ち上がっている。


「くそっ」


 すぐに銃を構えてけん制するものの、すでに弾は先ほど撃ち尽くしてしまった。悟られたら終わりだ。緊迫したまま、睨み合いを続ける。


 いつの間にか外の音楽も鳴りやんでいて、場は耳が痛くなるような静寂に包まれている。


 痺れを切らせた怪物が咆哮する。


 いよいよ突っ込んでくるかと思い、銃を捨て、何の気休めにもならないナイフを構えた時。ドン、という短く太い音とともに怪物の額に穴が穿たれる。怪物が今度は断末魔を挙げる隙間もなく地面に沈むと、その向こうで、例の少女が銃を構えていた。


「すごい銃だな」

「ええ、天才が作った銃なの」


「おい……」


 倒れていた怪物の身体が、まるで沸騰したように泡立ち、自己分解を始めた。しばらくして、怪物は最終的に皮膚の爛れた人間の姿になった。


 顔は判別がつかないが、痩せた、貧相な男だと分かる。


「……さっきの男女は」


 ナタリの傷口に最低限の処置をしながらヴェルが尋ねると、少女は目を閉じて首を振る。


「一緒にいた女だけ、道で倒れているのを見つけた。気を失っていたの。ちょうど、あなたの組織の医療部隊が来ていたから、うまく理由をつけて引き渡しておいた」

「そうか。まだ聞きたいことは山ほどあるが……」


「ええ、彼女を早く運んであげて」


 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。ようやく応援が到着したらしい。ヴェルはナタリを抱えて、エントランスに向かって歩いていく。少女とすれ違う。


「教えてくれ。この怪物も、マキナスの暴走も、全てあの男が元凶なのか?」


 少女は言葉を選んでいるのか、少しの沈黙を挟んで、やがて口を開いた。


「……彼の名はアイザック」


 アイザック。怪物が現れる直前に彼が見せた、あの眼差しを思い出す。


「二百年前、人工生命体創造計画の渦中で〈カオティック・コード〉を持って生まれた、規格外のプロトタイプ・マキナス。その不確定性が、次の大戦の引き金となるのを恐れた当時の政府機関は、彼を危険個体に指定して、運用を凍結したの」

「あの怪物は?」


「あれは、人間に投与された〈カオティック・コード〉が暴走した果てに生まれる異形。二百年前にも、実験棟の最深部で見たことがある。生体カプセルの中で培養され、違法に、秘密裏に、研究されていた。……つまり、彼らはまだ実験を続けている。だから彼を、アイザックを見つけるの。このまま〈カオティック・コード〉がドーム中に拡大したら、大変なことになる」


 ヴェルは痩せた男の遺体に目を向ける。こんな男を、あれほどの力を持つ怪物に変貌させる〈カオティック・コード〉が、もしドーム中に拡散してしまったら……考えたくない未来を想像してため息をつくと、ナタリを抱え、ホールに出る。


 白い防護服を着たファントムの医療班が担架を持って駆けつけてくる。ナタリをそっと寝かせると、振り返って、少女に声をかける。


「お前の名前は?」

「ノア」


 ノアと名乗った少女も、ヴェルの方に振り返る。


「蒼井ヴェル。アイザックを追えば、きっとまたどこかで会う。それまで死なないで」

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