20 お別れの時間がきて-琴葉-
三月十九日、遂にこの日がやってきてしまった。みんなと過ごす、最後の日。
ここ数日、ずっと今までに無いくらいの速さで鼓動がなっている。なにせ引っ越しのことを皆に言っていないのだ。ここまで何事もないように振る舞ってきたツケをここに来て払わされている。どんな顔をして伝えれば良いだろうか。皆はどんな顔をするだろうか。
鏡の前に立ち、いつもよりもしっかりと身なりを整えて気合いを入れる。
「よしっ」
一つ息を吐いて家を出る。
「いってきまーす!」
大きな声と共に飛び出すと、母親に呼び止められた。
「琴葉。最後、楽しんできなさいね」
「うん」
やばい。もう泣きそうだ。でも、私は今日、泣くわけにはいかないんだ。私が泣いてどうする。
いつも通りの道を歩く。いつも通り一果、朱莉と合流する。いつも通り少し前を歩いている陽向にちょっかいをかける。いつも通り校門を通る。
一週間ほど前から校門前の坂の両脇の桜が咲き始めている。音楽室の外の桜は既に満開だった。春、”出会いと別れの季節”だ。
最後のホームルームが行われる。先生の「来年はもう受験生なんだから、自覚をもって……」なんてテンプレートみたいな話を聞きつつ、最後列の自分の席から教室をぐるっと見回す。一年間過ごしたこの教室とも、二年間過ごしたこの校舎ともお別れだ。寂しくなる。
ホームルームが終わってからいつもの四人を呼び止める。
「ちょっとさ、みんな音楽室に行って待っててくれない?」
「うん、分かった。琴葉もすぐに来る?」
「えっと、十分くらいしたら行くと思う」
「了解。先に行ってるね」
思ったよりもみんながすんなり了解してくれたので拍子抜けしたが、まあ放課後あそこに行くのはいつものことなので不思議ではないか、と思い直す。大きな荷物を持って職員室にいる担任の先生に挨拶をしに行く。
先生と少し話をして、「俺は三年まで葵の面倒見れると思ってたから残念だけど、しょうがないもんな。これからも頑張れよ」なんて、優しいけれどもこれまたテンプレみたいな言葉を頂いてから職員室を後にした。
いよいよ、その
私が伝えるしかないんだ。覚悟を決めて、止まっていた足を前に進める。
重い扉を開けて、教室に入る。
「お待たせ〜」
教室の中には何故かギターやカホンが出ている。みんなで歌っていたりでもしたのだろうか。少し不思議に思いつつ、四人の元へと向かう。
「大丈夫、そんな待ってなかったよ」
「そう?なら良かった」
「うん」
沈黙が流れる。気まずい。私が勇気を出すしかないのだ。自分で自分の背中を押す。
「あの、さ。ちょっと話さなきゃいけないことがあるんだけど、いいかな?」
「うん、聞かせて」
陽向が小さく、そして優しく微笑む。少し肩の力が抜ける気がする。だけどまだやっぱり怖くて、俯きながら何とか言葉を吐き出す。
「実はね、私引っ越すんだ。横浜の方に。だから来年も一緒にいることはできない。今まで黙っててごめん」
顔を上げることができない。みんなの顔を見ることができない。今になって後悔する。やっぱりもっと早く話しておくべきだった。それか、どうせなら何も言わずに、去るという手もあったか。そんな考えが次々と頭に浮かんでは消えていく。
「琴葉、顔を上げてよ」
陽向の声に恐る恐る、顔を上げる。みんなの悲しい顔が視界に入る。——と思いきや、何故か四人とも頭を下げている。
「え、ちょっと待って。なんでみんなが——」
「——ごめん琴葉、俺たちみんな、琴葉が引っ越すこと知ってた」
一樹が放った言葉の意味がよく分からない。知っていた?なんで?私は言っていないのに。バレるような言動もしていなかったはずだ。
しかも、それを知った上であんなにも違和感なく一緒にいてくれたということか?今、起きている事実に頭が追いつかない。
「琴葉が私たちの事を思って隠してくれてたっていうのは分かってる。でも、もう知ってるからさ、そんな辛そうな顔しなくていいよ。私たちはみんな、笑顔でお別れする準備はできてるからさ」
朱莉の寂しげな笑顔が私の胸を突く。
別れを知った瞬間の、みんなの悲しい顔を見なくて済んだのは不幸中の幸いとも言えるかもしれないが、それでもやはり喜怒哀楽さまざまな感情が渦巻き、何を考えれば良いのか分からない。
「琴葉、ちょっとここ座って?」
一果が椅子を引く。この教室の、真ん中の椅子を。私は言われるがままに引かれた椅子に座る。もしかして、それでギターとカホンを?
「じゃあ、一果・朱莉、よろしく!」
陽向がそう声を掛けると二人が教室の後ろへ行き勢いよく窓を開く。
春の暖かい風と共に桜の花弁が舞い降りてくる。まだ咲き始めの頃だからか、その数は少ない。だがその光景が、一年に満たないくらい前の出来事を彷彿とさせる。ちょうど陽向と出会った、あの春のことを。
前に向き直ると陽向と一樹が楽器を構えて座っている。一果と朱莉がそこへやってくる。四人がこちらを向いて凛とした表情をしている。
「お別れすることについての想いは全部この歌に詰まってるから。僕たちの歌を聴いてほしい」
「う、うん」
未だ状況をよく理解できていないが、今はただただ彼らのすることを受け入れるだけだ。
ワン、ツー、スリー、フォー
一樹がカウントすると、陽向がギターを優しくも力強いストロークで弾き始める。教室に響き渡る音が綺麗だ。以前の彼とは比べ物にならないくらいギターが上達している。
聴き覚えのあるコード進行。もしかして、と思う。
一果が陽向のギターに合わせてAメロを歌い始めたその瞬間、”もしかして”が、”やっぱり”に変わった。
『途中でやめた本の中に 挟んだままだった
空気を読むことに忙しくて今まで忘れてたよ
句読点がない君の嘘は とても可愛かった
後ろ前逆の優しさは すこしだけ本当だった』
——やっぱりだ。これは、私が初めて陽向のために歌った、クリープハイプの『栞』だ。ここにきてこの曲をチョイスするとは、やってくれるな。
一樹のリズミカルなカホンが入ると共に後半を歌ってくれた朱莉の悪戯っぽい歌声も心の奥に染み渡る。
『簡単なあらすじ なんかにまとまってたまるか
途中から読んでも 意味不明な二人の話』
陽向が歌い出すと共に、彼と出会ってからの、この一年間の思い出が、バケツをひっくり返したように溢れ出す。出会った頃の、絵を描くこと以外は一欠片の自信の持ち合わせていなかった陽向の姿が浮かぶ。
『桜散る桜散る ひらひら舞う文字が綺麗
「今ならまだやり直せるよ」が風に舞う
嘘だよ ごめんね 新しい街にいっても元気でね』
サビに入り四人が声を合わせて高らかに歌うと、後ろの開け放たれた窓から強い風が吹き込み、それと一緒に桜の花弁も舞い上がって彼らの歌を彩った。まるでそういう演出だったかのように美しい。
そして彼らの歌うメッセージが直に胸に飛び込んでくる。あまりの美しさと嬉しさ、悲しさ、幸福さなど数えきれないほどの感情で胸がいっぱいになって、思わず涙が溢れる。
今日は泣かないと決めていたのにと思いつつも、目の前の光景を一瞬たりとも見逃したくなくて涙を拭うことができない。
『桜散る桜散る お別れの時間がきて
「ちょっといたい もっといたい
ずっといたいのにな」
うつむいてるくらいがちょうどいい
地面に咲いてる』
感情と一緒に流れ出る涙をそのままに、ただただ固まって彼らの演奏を眺める。”うつむいてるくらいがちょうどいい”その歌詞が今になって自分に刺さってくる。
『初めて読んだ君の名前 振り向いたあの顔
それだけでなんか嬉しくて 急いで閉じ込めた』
一果が歌うその歌詞は、正に私と彼女の出会いを表しているかのようだった。
小学校低学年の頃、まだ吃音を持っていた私が初めて一果の名前を呼んだ時、何も気にする素振りを見せずに振り向いてくれたことが嬉しかった。今でも鮮明に覚えている。
『あのね本当はね あの時言えなかったことを
あとがきに書いても 意味不明な二人の話』
陽向に言えなかったことは沢山ある。逆に、陽向が私に合わなかったことも沢山あるのだろう。それを分かった上で、私たちは時間を共有してきたのだ。
今更、「あのときは」なんて事は言いたくても言う意味がないし、今のままで良いのだ。
『ありがちで退屈な どこにでもある続きが
開いたら落ちて ひらひらと風に舞う
迷っても 止まっても
いつも今を教えてくれた栞』
一樹とは小学校の時はそこまで親しくしてこなかった。この一年弱で急激に仲良くなったが、どこか不思議で優しさを感じさせる人柄は本当に魅力的だ。私がいなくなった後、陽向のそばにずっといてくれたら良いなと心から思う。これからは、この四人が強い絆を持ったままいてくれたら。
サビの続きで皆が声を合わせて歌うのを見て、今まだの思い出がフラッシュバックする。陽向だけではなくて、五人で過ごしてきた、短くも長い日々。それがアルバムを
もう、五人で会う事はできても”日常”としてそんな時間を過ごす事はできないんだということを改めて認識して、この上なく悲しくなる。もう二度と当たり前だった日々はやってこないのだ。
『この気持ちもいつか
手軽に持ち運べる文庫になって
懐かしくなるから
それまでは待って地面に水をやる』
一果が歌ったこの歌詞で、今のこの気持ちも一緒に思い出として大切に仕舞っておけば良いんだ、と気付かされる。救われたような気持ちになる。
ふと、頬を水滴が垂れるのを感じて自分が泣いていることを自覚する。ああ、泣かないと決めていたのに。気づいた頃には既に遅く、一度堰を切った涙は止まる事なく流れ出す。
『桜散る桜散る ひらひら舞う文字が綺麗
「今ならまだやり直せるよ」が風に舞う
嘘だよ ごめんね 新しい街に行っても元気でね』
ラスサビの一回目、朱莉がギリギリのところで涙を堪えながら歌ってくれる。半分、何を言っているか分からない程にボロボロになりながら。
私も泣いているのか笑っているのか分からないような嗚咽が止まらない。いや、朱莉が泣いているのは私のせいだ。
『桜散る桜散る お別れの時間がきて
「ちょっといたい もっといたい
ずっといたいのにな」
うつむいてるくらいがちょうどいい
地面に咲いてる』
陽向が一番激しく泣いている。私よりも泣いてどうする。辛うじてギターは弾き続けているが、最早何と歌っているのか全く分からない。私もそれを見て更に涙を流す。彼とここまでの関係になれたことは、奇跡みたいな事だと思う。比喩とかではなく、本当に。
歌が終わると、アウトロを陽向と一樹が視線を合わせ、息を合わせてなんとかと言った風に最後まで演奏し切る。最後はギターをジャッと短く弾き、音に余韻を残さなかった。
演奏が終わると、私は既に俯いてボロボロに泣き崩れている四人の元に前のめりで寄っていく。
五人で向かい合って、輪のような状態になったまま暫く泣き続けていた。
「私、みんなと一緒にいられて良かった。本当に、みんな大好きだから、離れてても、よろしくね」
普段はこんな事、気恥ずかしいから絶対に言いたくないのに何故か今は口から出てしまった。
「うん、勿論だよ。絶対、この一年は忘れない」
四人がそのようなことを言ってくれたことに少し安心して涙を拭う。
「あ、そうだ。私たち、まだ琴葉に渡すものがあるんだ」
私が少しの間天を仰いでいると朱莉がそんなことを口にした。
すると、四人が鞄を何やらガサゴソと漁り、何かを取り出す。
「まずは、これ。三人それぞれから手紙ね。本当に今までありがとう」
朱莉がそう言うと共に一果と一樹も手紙を差し出してくれる。
「ありがとう、嬉しい。あれ、陽向は?」
「僕はね〜これ!」
今度は彼が鞄から取り出したのは、丸められた画用紙のような——
「えっ、もしかして、絵だったりする?」
「開けてみて?」
半信半疑のまま紙を広げる。
「うわぁ」
思わず声が零れる。それは彼が私に最初に描いてくれた絵よりも更に進化した、桜と私と思われる少女の絵だった。
「待ってよ、絵、描けなくなってたんじゃないの?」
「実はね、それを描いてからまた描けるようになってたんだ。今日驚かせるために隠してたけど」
「そんなことを」
「どう?僕が久しぶりに描いた絵は」
「めちゃくちゃ良いよ。まず、バイバイする前に陽向の新しい絵を見れたことに感動してる。もう見られないと思ってたから」
「ふふふ、隠してた甲斐があったな」
「はー、サプライズも成功した事だし、そろそろ帰る?」
「ちょっと待って、スマホ持ってきたから、最後に写真だけ撮らない?」
「いいよ。ちゃんとスマホ持ってくるあたり琴葉は最後まで琴葉だったね」
朱莉が皮肉っぽからニヤニヤしながら言う。
「私も今日は、みんなとはもうお別れだからって突き放して別れようと思ってたから必要ないとは思いつつも、万が一のためにって持ってきたから、持ってきて本当に良かったと思ってる」
「私は悪いとは言ってないよ?」
ニヤニヤを抑えられない朱莉を見られるのも最後かと思うと淋しいような気がしなくもないな、そんなことを思いながらスマホのカメラを準備する。
「自撮りでいいよね?」
「うん、俺が持つから、琴葉は真ん中に入ってよ」
「一樹ってこう言う時は意外と頼りになるよね」
「なにそれ?普段は頼りにならないって事?」
「ふふふっ、今日くらい許してよ。置き土産だと思って」
「それだけはいらないなあ」
そんなことをいって一樹が長い腕でスマホを持ち、内カメラを向ける。
陽向はギターを持ち、私は手紙と絵を持って一果・朱莉を両隣に画面の枠の中に入る。
「いくよー、はい、チーズ」
カシャリ、という電子のシャッター音が教室内に何度か響く。
皆で額を寄せ合って写りを確認する。
うん、後悔のない、良い一枚だ。
「じゃあ、今度こそ帰るか」
陽向の声を合図にそれぞれが支度をする。今日が本当の本当に最後のみんなとの下校だと思うと泣きそうになるが、出るだけの涙は先ほど出し尽くしたのでもう泣かない。
四人に続いて教室を出る。
出る直前にふと思い立ってお世話になった音楽室をカメラに収めた。今までありがと、と小さな声で呟き、音楽室、そして校舎を後にする。
最後は他愛もない話をしながら通学路を歩く。今日行う全てのことが最後のことだと思い、内心ではしっかりと噛み締めている。
そして遂にみんなと別れなければならないT字路に差し掛かった。
「じゃーね!本当にありがとう」
私がそう言うと陽向が「またね、を忘れちゃダメだよ、琴葉。バイバイ、またね」と言った。
ああ、そうかと思い私も四人に「またね!」と返す。すると「またね!」と四人の声がハモって返ってきた。皆で笑って顔を見合わせる。
「じゃあ、今度こそ、バイバイ。またね」
そう言って手を振り、別れた道を一人で歩き出す。背中には、バイバイ、またね、元気でね、そんな声がいつまでも届いていた。
【お別れの時間がきて】
Inspired by クリープハイプ『栞』
(作詞:尾崎世界観)
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