10 秘書

 要塞のようなマンションのエントランスで、境はインターホンを鳴らす。

 カフェのメイドか、ボクシングジムの老人、あるいはその両方を送迎してきた際は、いつもここで門前払いをくっていた。

 今回は間髪を入れずに返答があった。あたかも、探偵が来るのを待ち構えていたかのように。

「お待ちしておりました。お入りください」

 インターホン越しの声には聞き覚えがあった。

 自動ドアを通過すると、スーツ姿の女が現れた。傍家山登の秘書だ。傍家山会長からは「息子の秘書の逢阪」と紹介された。そういえば、こいつはそんな苗字であったなと境は思い出す。連続殺人鬼に長年監禁されていた被害者で唯一の生存者、逢阪二三おうさかふみ

 秘書の逢阪は硬い表情で、こちらへどうぞと先に立って歩き始めた。

 エントランス・ホールの高い天井を眺めながら、境は女の後についてエレベーターに乗り込んだ。秘書が押したのは十二階のボタン。ボタンは23まであった。登の部屋は、絨毯の敷き詰められた廊下の端だった。

「最上階じゃないのか、社長なのに」

「最上階は、会長のお部屋です」

「へえ二十三階か」

「いえ、その上です。会長用には、専用エレベーターがあるので」

 秘書が合鍵でドアを開けた。長く伸びる廊下の両脇に二つずつドアがあり、突き当りはリビングだろう。

 好きなように捜索をしてよいと、先日傍家山会長が探偵事務所を訪れた際に約束をとりつけていた。そうしなければ引き受けないと境がゴネたのだ。登の秘書が常時立ち会うという条件付きで会長は承諾した。

「どこから始めるかなあ」

 探偵はぶらぶら歩いて、リビングに向かった。

 正面は一面ガラス張りの窓で、パノラマ的景観が望める豪勢な部屋だった。左手の壁に額装された写真が飾ってある。右手奥にダイニング・キッチン。

「まるでモデル・ルームだな。元からこうなのか、探偵が嗅ぎ回りに来ると聞いて慌てて片付けたのか」

「社長は几帳面な方でしたから」

「ふーん。親しかったのかい」

「それは、どういう」

「秘書なら、社長の自宅に呼びつけられることもあったんじゃないかと思ってな」

「そんなことは、ありません。社長は良識ある方ですから」

「でも会長は違う、か?」

 秘書はむっつりと口をつぐんでいる。

「会長ってのは、名誉職じゃないのか。ハタケヤマ・グループを現在の一大事業グループに育て上げたのは、夫じゃなくむしろ嫁さんだって聞いたが、未だにあれこれ口を挟んでくるのか、あの歳で。ところで、旦那はどうした。死んだのか」

「前社長は……現在療養中です」

「へえ。ハタケヤマ総合病院で?」

 秘書は口をつぐんでそっぽを向いた。その顔をじっくり眺めて、境は言った。

「ここか。ここにいるのか。登の養父は」

「勝手に人の心の中を覗かないで!」

 感情を爆発させた秘書は、ようやく境の知る二三らしくなった。

「お前が単純だからだ。よくそれで社長秘書が務まるな」

「私は、会長に採用されたのよ」

「あ?」

「当時は、会長は第一線でグループの事業の指揮をとっていた。息子に仕える秘書も、会長のお眼鏡にかなわなければならなかった」

「それでお前は、甘んじて会長にも顎でこきつかわれるわけか。しかし、息子の秘書選びにまで口を挟むとはな。社長はマザコンなのか」

 秘書が鬼の形相で睨みつけたが、探偵は素知らぬ顔で、壁にかかった額に納められた古い写真を観察し始めていた。学校を思わせる鉄門が写っているが、これは学校ではない。もっと禍々しいものだ。門の前に整列した子供達と、大人数名。

「悪趣味だな。思い出して楽しい過去とは思えないが」

「知らないの」

「なにを」

「このマンションは、その養護施設の跡地に建てられたの」


 写真撮影があるからお前はここから出るな。丈志はそう申しつけられ懲罰房に放り込まれた。何もしていないのに理不尽だと思ったが、別に写真を撮られたいとは思わなかったので、平気だった。今日は、写真屋が帰れば出してもらえるはずだから、自らの糞尿にまみれたり、脱水症状で失神したりすることはないだろう。

 元は何のための部屋なのかわからない。一メートル四方の狭い小部屋だ。剥き出しのコンクリートの床は半ズボンを通して固く冷たく感じられるが、もう慣れてしまっている。今日のこれは、バツはつかないんだよな、と丈志は抱えた膝の上に右頬を載せて、痛みに顔をしかめて慌てて顔を持ち上げた。

 夕べ何度も殴られたので、どちらの頬も腫れ上がっていた。夕食に出された肉が食べられなかったせいだが、「そんな顔で人前に出せない」というのは自分のせいではないから、これはバツにはならないだろう、と思う。

 ×が三つ溜まると懲罰房(対外的には、『反省室』だ)に三日間、飲まず食わずで閉じ込められる。そして、それでも改心しないと、×が四つになり――

 丈志は気丈な子供であったが、これには恐怖を感じた。××××(バツ四つ)は、絶対に駄目だ……


「ねえ、聞いてる?」

 血の気が引いて今にも倒れそうな探偵の肩に手を載せて、二三は軽く揺さぶった。

「ああ」

 と答えたものの、まだ心ここにあらずの状態であるのは一目でわかった。

 何も覚えていない、などということが本当にあるのだろうか。

 二三は写真を凝視する境の横顔を観察しながら、思う。

 この人の場合は、そうなのかもしれない。養護施設で育ったということは特に隠すでもなく教えてくれた。しかし、そこでの暮らしや、なぜ施設に入ることになったのかといくら尋ねても「覚えていない」の一点張りだ。きっと、言いたくない・思い出したくない事なのだろうと思って、深く追及はしなかったが、まさか本当に忘れてしまったのか。

 辛い記憶を自ら封じ込め、忘れ去る者がいると聞いた時、随分器用なことができるものだ、自分もそうであればよかったのに、と二三は思った。彼女は、全て覚えているから。

 気を取り直した境は

「書斎、みたいな部屋はあるか。ああ、その前に寝室が見たいな」

と言った。

「それなら、こちらに」

 と先に立ってリビングを出ようとした二三の背中に、境は言う。

「社長の自宅に詳しいんだな」

 はっとして振り向いた二三に、境はにやりと笑うと、ポケットから抜き出した手を前に突き出した。

「忘れないうちに渡しておこう。忘れ物だ」

 上に向けた境の掌の上には、プラチナのリングが光っていた。

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