13 堕天使

「待ってろ、今出してやるから」

 俺はそう叫んで、ユキが豚の頭部とともにぐるぐる回り続ける大型乾燥機を停止させようと駆け寄った。

「やめて! 触らないで!」

 ガタガタ揺れながら回転するマシンの中から、ユキの厳しい声が飛んだ。

 俺は絶望的な気持で乾燥機の窓を見つめた。幸い、乾燥の残り時間は二分、えらく長く感じられるその時間を、ボクシングジムの会長が戻って来ないか表通りを監視しつつ、嬉しそうに乾燥機の中のユキに突進しようとする、全裸の上に俺のコートを羽織った老人を押しとどめなだめすかしながら待った。

 ようやく機械が停止した。ゆっくりと回転が止まり、ユキの体がくるりと最後の一回転をして、円形ドラムの底部に背中から落ちて停止した。

 ぐったりしたユキの体(ほかほかだ)を引きずり出すと、豚の頭がいくつか一緒に転げ落ちてきた。彼女を抱き抱え、肉付きのよい上気した頬をぺしぺしと叩きながら「一体、誰がこんなことを」と問うと、ユキは薄目を開けた。

「食いついて離れないから、離れさせようと思って」

 そう言うなりユキは顔を背けて、嘔吐した。

「自分で入ったのか?」

 俺は呆れてポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して渡した。さっき涙と鼻水を拭いたものだし諸々の染みがついていたが、贅沢を言っていられる状況ではないだろう。

「あの女のひとは、何」

 ユキはどうにか自分の足で立ち、口元や顔中に噴き出した汗を拭ったハンカチを差し戻してきたので片手で拒否しながら、

「そんな呑気な話をしている場合じゃない。この爺さんを家まで送らなきゃならないんだ」

 俺は爺さんの腕を掴んで、歩き出した。

「姉ちゃん、一緒に来るんだろ? なあ? 久しぶりに、頼むよ。他の子じゃ、やっぱり駄目だんだよ」

 爺さんは首を曲げてユキに懇願する。

「知り合いか?」と尋ねる俺に

「知らない」とユキはそっけなく答えたが、俺と爺さんの後をついて来る。

 コインランドリーを出て、周囲を確認し、素早く通りを横切った。車を停めたパーキングまで歩く間に、幸いボクシングジムの会長には出くわさなかった。

「爺さんが逃げないか後ろで見張っててくれ」

 爺さんを後部座席に押し込みシートベルトを装着させ、自分は運転席に乗り込みながらユキにそう伝えると、彼女は素直に反対側のドアから後部座席に乗り込んだ。

 姉ちゃん、姉ちゃんと嬉しそうに破顔しながらユキに抱きつこうとする老人の姿は、正直正視に堪えない醜悪さだった。

「爺さん、お楽しみは家に帰ってからだ。いつもそう言ってるだろう?」

 試しにそう言ってみると、老人は大人しくなった。

 車を発進させると、ユキが口を開いた。

「このお爺ちゃんがどこに住んでるか、知ってるの?」

 バックミラー越しに見える彼女は、爺さんとは反対方向を向き、窓の景色を眺めている。

「ああ。お前が素っ裸でサンドバッグの中から出てきた時に着せた服、あれな、この爺さんから拝借したんだ。そのシャツの裏にマジックで連絡先が書いてあった。俺は記憶力がよくってね。ポノレカ鷹羽だ。鷹羽ってことは、ここからそう遠くないよな。俺はそこに行くのは初めてなんだ。道案内をしてもらえると助かる」

 ユキは返事をせず押し黙っていた。まあいい。そういえば、あの服はどこへやったんだっけ、と考えていると、ユキがぽつりと言った。

「行っちゃだめ」

「ああ?」

「あんなところに、健全なおじさんは行っちゃだめ」

「馬鹿にするなよ。浮気調査が専門だってことはな、人間のありとあらゆる恥部を目撃することになるんだ。血が流れるのも珍しくない。乱痴気騒ぎや修羅場には慣れてる」

 ユキは暗い顔で窓の外を眺めている。俺は溜息をついた。

「なあ、お前は別について来なくていいんだ。お前みたいな子供がサンドバッグに詰め込まれたり、豚の頭に食い殺されそうになったりするようなヤバい世界に、お前が居る必要はない。俺は依頼人から金をもらっているから仕方なく動いているだけだ。お前がさっき言ってた『あの女のひと』だ。あの女がどんな事情でこんな世界にかかわるようになったのか、俺は知らないし、知りたいとも思わない。お互い大人だからな。だか、お前はまだ十年ちょっとしか生きていないガキンチョだ。どこでもいい。帰れるところがあるうちに帰るんだ。あの冥途カフェの店長の家でもいい。今居る糞みたいな世界より少しでもマシなら、そっちに戻れ」

 喋りながら俺は、涙を流していた。ユキも、爺さんまでもが鼻をすすりあげ、泣いていた。

「糞っ」

 俺は毒づいた。とめどなく涙が溢れてくる。

「薬局に寄って行こう。目薬と、水がほしい」と言いながら、俺は四つの窓を全開にした。

 ペッパースプレーの残滓の付着したピストルを上着の内ポケットに入れているだけでこのざまだ。さりとて、残弾は二発、俺の唯一の武器だ。捨てるわけにもいかない。

 俺は夜間も営業している薬局を求め、車を走らせた。

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