08 脱出

 胎内巡りのような真の闇に包まれ、俺の後ろでコートの裾を握っているユキも不安を覚えたようだった。

「ねえこれ、どこに出るの?」

 不安そうな声を出すユキの存在がありがたく思えた。認めよう。俺は可能であればエレベーターも避ける程度に閉所が嫌いだ。

「さあな。お前のロッカーの中に隠されていた通路だ。お前の方が詳しいだろう」

「バイト先で勝手に割り振られたロッカーだよ。私が知るわけないじゃん」


 ユキが俺のコートの裾から手を離したのが感じられた。通路は相変わらず両手を真横に広げられない狭さ、二人並んで歩くこともできない幅だ。まさか迷子になることはないだろうが、自分の手を目の前にかざしても見えない暗闇の中で不安になり、俺は足を止めた。すぐ後ろを歩いているはずのユキに衝突されて文句を言われると身構えていたが、何も起こらなかった。どうやら、向こうも足を止めているらしい。

「おい、悪かったよ。とにかくここを抜けよう。まだ少し歩かないといけないと思う。先を急ごう。裸に剥かれてサンドバッグに詰め込まれるなんざ、俺は御免だぞ」


 突然明かりが灯り、俺はその暴力的眩しさに目を覆った。数メートル離れたところで、ユキが携帯電話を片手に掲げていた。

「鞄の中に適当に突っ込んであったから、なかなか見つからなくて」

 ユキが周囲を照らしながらこちらに近づいてきた。明かりが届く範囲は、壁も床も天井も剥き出しのコンクリートだった。

「なんなの、ここ」

 大人がジャンプしたら頭をぶつけそうなほど低い天井を照らしながら、ユキが訊く。

「さあな。しかし、お前のロッカーに入っていた死体は、ここを通ったことがあるはずだ」

「殺されて運ばれたってこと?」

「いや、こんな狭いところで死体を運ぶのはなかなか手間だ。生きていた時にここを通って冥途カフェに出入りしていた――店長の話では、あいつはやばい仕事を請け負っていたそうだから」


 俺は息苦しさを感じ始め、ユキを促して歩き出した。実際の酸素の濃度にかかわらず、俺はこんなところに長居したくなかった。携帯電話の明かりで限定的に照らされた光景が真っ暗闇よりましということは全然なく、光の届かない場所に何か潜んでいそうだった。

「ふーん」


 ユキの気のない返事に、俺はもう少し揺さぶりをかけてみることにする。

「奴の扱う商品は、女だった。それも、若ければ若いほどいいらしい。若い女っていうのは商品価値が高いんだ。なにしろ、男ってやつは馬鹿だからな。自分のことは棚にあげて、処女を祀りあげたりする。経験に乏しい未熟な相手になら優位に立てると思うからだ。例えば、お前のアルバイト先の一つ、ポノレカ鷹羽の金持ちの爺さんみたいな連中。ああいう連中を相手にしていたそうだ」


 ユキは答えなかった。

 俺達はしばらく無言で行進したが、突然明かりが消えた。思わず「あっ」と叫び声をあげた俺に、ユキは「バッテリーが切れた」と背後の暗闇の中から言った。暗闇がのしかかってきて叫び声を上げようとした口を通って体内に押し入ってくるような気がして、俺は歯を食いしばって両側の壁に手を這わせながら足を速めた。

「ちょっと待ってよ」

 背後のユキの声が思ったより遠くから聞こえたが、一旦恐怖に呑まれると、自分の意思ではどうにもならないものだ。どうせ一本道なのだし、と言いわけしながら、俺はなるべく口を開けないようにしているため余計酸素不足に陥り鼻息荒く大股で歩き続けた。

「待ってったら」

 ユキの小走りな足音が、甲高い悲鳴の後、どさりと何かが倒れる音に次いで、静かになった。

「なんだ、どうした?」

 足を止めた途端、額からどっと汗がしたたり落ちるのが感じられた。俺は片手で壁につき、もう片方でコートや上着のポケットをまさぐりながら、慎重にユキの方に近づいて行った。

「どこだ。声を出さないと踏みつけるぞ」

「ヒールが折れた」と低い位置から声がした。

俺はポケットの中で指先に触れた小さな紙の箱を取り出した。マッチ箱だ。手探りで一本取り出して、箱のざらざらした側面に棒のヘッドをこすりつけた。燃え上がるリンの臭いと共に、床に座り込み左足首を手で押さえているユキの姿が浮かび上がった。冥途カフェの制服である虎柄のショートパンツにマッチした膝まである虎柄のロングブーツの頑丈そうなヒール――五センチはあるだろう――が、根元から折れていた。

「足をくじいたのか」

 指を焦がし始めたマッチを遠くに投げ捨てると、ユキは暗闇の中で俺の脛を掴んだ。そこから手探りでコートの腰を掴むと、ぐいと引っ張って体を持ちあげた。

「歩けそうか」


 無言で数歩試してみたらしいユキが悲鳴をあげた。


「無理みたい」

「仕方ないな」

 俺は溜息をついて、両側の壁を頼りに進行方向に向き直り、しゃがんだ。

「おぶってやるから乗れ」

 文句を言うと待ち構えていたが、ユキは素直に手探りで俺の肩と背中を探り当てると腕を首に回し、体を預けてきた。俺はゆっくり立ち上がった。

「できるだけ右側に体を寄せていこう。左足が壁にぶつからないように、なるべく俺の体の前に突き出しておくんだ」

「わかった」


 狭い通路は、ユキを背中におぶった状態では幅がほぼいっぱいいっぱいだった。

 小柄とはいえ肉付きの良いユキの体は重かったが、それについては触れないことにした。背中があたたかく、こんな子供でも密着していることで恐怖が薄れた。


「あとどれくらい?」耳元でユキがささやいた。

「もうじきだと思う」

「ここ、通ったことあるの?」

「これじゃないが、似たような通路を通った」

「どこに通じてるか知ってる?」

「さあな」

「こういうサービスは、タダじゃやらないんだけど」

「おい、この状況じゃ、お前が俺に運び賃を払うべきだろう」

「若ければ若いほどいいんだよ。おじさんじゃ、お金にならない」

「狂った世の中だ。おっさんに背負われたがる若い女が殺到する時代が来るかもしれないじゃないか」

「気持ち悪い」

「おい」

「おじさんはどうして暗闇が怖いの?」

 俺は答えなかった。怖いわけじゃない。ただ好きではないというだけだ。

 しばらく無言で歩いていると、ユキの体が急に重くなった。


 おい、嘘だろう。


 白粉の匂いが鼻をついた。ユキは静かに寝息を立てていた。俺はずり落ちそうになるユキの体を背負い直した。俺の直観通りに程なく目的地に到着しないと、俺も一緒にぶっ倒れることになる。


 背中のお姫様がいつの間にか鬼になっていたりしませんように、そう祈りながら俺は闇の中を歩き続けた。

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