04 告白

 私は養子だった。

 養父母は、とても優しい人達のように見えた。彼らが施設にやって来た時、私は八歳だった。

 そのような幼い子供でも、このチャンスを逃したら、一生負け犬として過ごすのだとわかっていた。どんなことをしても、彼等に気に入られなければならない。

 私は死にもの狂いだった。

 運よくハタケヤマ夫妻の養子となることができて、私は分不相応な暮らしを、最高の教育を与えてもらった。彼らの恩に報いようと、必死に努力をした。したつもりだった。

 それでも、手が届かなかった。所詮養子は養子だと、口さがない人々に言われたが、その通りだった。

 私の卑しい出自が、私を捨てて行った母親の呪われた血が、私をいつまでたっても私たらしめる。私は、ハタケヤマの家に相応しい人間ではなかった。


   *


 なんだこれは。

 危うく対向車線にはみ出しそうになり、俺は慌ててハンドルを切った。けたたましいクラクションが一瞬で背後に消えた。

 どこからともなく紛れ込んできたビジョン。

 ノボルの遺書だということが直感的にわかった。俺が連れていかれた豪奢なマンションの部屋、俺は入ったことがないはずの書斎のデスクにかがみこみ、ライトスタンドの明かりで最後の言葉をしたためているノボル。

 だがこれが本当に「遺書」だろうか。自ら命を絶ったと思われる遺体に添えられていれば、それらしく見えなくもないが、その実これから死ぬとは一言も述べていないし、何が自殺の原因なのかも定かではない。


「人は見かけじゃわからないんですよ、サカイさん」


 ノボルがあのマンションで俺に言った言葉だ。見かけと違っていたのは誰だ。傍から見れば誰もが羨むシンデレラボーイのノボルか、恵まれない捨て子を救出しに来た、天からの使いのようなハタケヤマ夫妻か。


 それとも、もっと別な誰かなのか。


 カーナビが大体この辺だからと勝手に案内を完了した。古いうえに安物だから、常に正確にその場所まで連れて行ってくれるとは限らないのだが、ユキに案内されて歩いた界隈として見覚えがあった。ここから一階がコインランドリーになっているみすぼらしいビルディングを見つけることは難しくなかった。

 近くのコインパーキングに車を停め、雑居ビルXXXX――エンジェルと読ませるらしいがどういう屁理屈でそうなるのかいまだにわかっていない――の入口に向かう。コインランドリーの方をチラ見した限りでは、特に異常はなかったし、勿論ユキの姿もない。

 狭く汚らしいホールにテナント案内があった。


 6F POLKAクリーニング店

 4F/5F レジデンス

 3F 冥途カフェ ポルカ

 2F ポノレノク ボクシングジム

 IF コインランドリー ポノレカ


 ボクシングジムは経営者が外国人ででもあるのだろうか。「ポノレノク」が人名なのかどうかも俺は知らなかったが、なんとなくポーランド語ぽい響きだと思った。しかしポーランド語なんてヤクシマシぐらいしか知らないのだからいい加減なもんだ。

 ルミと名乗った女の話では、失踪者はここで仕事をしていたという話だ。まさか三途の河原で白塗りメイドをしていたとも思えないから、まずボクシングジムを覗いてみることにした。


 階段で二階に上ると、ポノレノク ボクシングジムと書かれたドアは閉じていたが、すりガラス越しに中で蠢く人影が見て取れた。

「見学者歓迎。無料体験コースあり」という張り紙がしてあるドアを開けると、サンドバッグを叩く音、床を鳴らす足さばき、縄が回る単調なリズムが俺を通過していった。

 日当たりの良いジムの内部はしかし、閑散としていた。二面あるリング上に立つ者はなく、天井から吊り下がったサンドバッグの一つを素手で力なくぽこぽこ叩いている老人が一人いるだけだ。

 平日の昼間のジムならこんなものかもしれない、とワックスの光る床板を踏み鳴らしながら俺は思った。


「入会希望の方ですか」


 俺よりも腹の突き出た体形のくせに猫のように足音を立てないおやじが背後に立っていた。黒いジャージを着ているが、明らかにポーランド人ではなかった。

「日頃の運動不足を解消したいと思ってね。しかし、効果はあるのかい?」

 俺はおやじの薄くなった頭のてっぺんからつま先までを見下ろして言う。

「私が現役だったのはもう二十五年も前の話ですからね。減量の苦しみから解放された喜びに浸り続けているんですよ、今も」

 どうやらこのジムの会長らしい男は肩をすくめてそう言った。


「入会したら、どんな運動ができる? 俺は正直、殴り合いは好きじゃないんだ」

「ヘッドギアやグローブ、シューズはレンタルしますよ。スパーリングも試合もしたくなければ、サンドバッグと格闘していればいい。縄跳びもあります。マウスピースだけはシェアするもんじゃないから購入してもらいますが、打ち合いをしないなら不要かな。入会金一万、これは退会時に返金します。毎月三千円、半年分一括払いなら一万五千円、一年分一括なら二万五千円。装備を一式レンタルする場合は、一ヶ月千円プラスで」

「へえ、安いな。そんなんで商売が成り立つのかい?」

「お陰様で、会員は百人を超えてますからね。週末だと、待ち時間三時間、行列がビルの外まで続くぐらいなんですよ。お客さんは、堅気には見えないね。平日通えるなら、この通りほぼ貸し切り状態だ。お得だよ」


 俺は男の手の動きに促されて再度ジムの内部を見回した。唯一の客の爺さんが、発狂したみたいにサンドバッグをぶん殴っていた。パンパン響く音は軽いのに、サンドバッグが大きく揺れていた。鶏ガラのようにやせ細った小柄な爺さんだ。あんな無茶をして骨折したり心臓発作を起こしたりしないのだろうかと不安になり、俺は慌てて目を逸らした。


「ボクシングがそんなに人気だとは知らなかった。密かにボクシングブームでも起きてるのかい?」

「さあね。うちのお客さんは、サラリーマンが多いよ。ストレス発散のためかな。次が若い女性。ホステスなんかも。この界隈は物騒だからね。追加料金で護身術も教えるよ。それから」

 男は唐突に言葉を切った。

「説明するより、やってみたらいい。無料体験コースがある」

「護身術をか?」

「ボクシングだよ。どうしても痴漢から身を守る方法を知りたいっていうなら別だけど。サンドバッグでもミット打ちでも。見ての通り暇だからね。ひと汗流していきなよ」


 その時、どん! と大きな音がして振り向くと、爺さんが滅多打ちにしていたサンドバッグに大穴が空き、中から勢いよく砂が零れ落ちていた。

「参ったなあ、またかよ」

 会長は慌てて爺さんの元に駆け寄ると、首にかけていたタオルを外してバッグの大穴に詰めた。 

「加減してやってくれって言ってるだろう。出入り禁止にするぞ」

 老人は入れ歯の入っていない口でもぐもぐ言っていたが、おやじに叱られて肩を落とし、おぼつかない足取りでロッカールームの中に消えた。


「クスリのせいなんだ」

 戻って来たおやじが首を振りながら言う。

「ああ、誤解しないで。そういうクスリじゃないよ。精神を穏やかに保つために病院で処方されてる合法的なやつなんだが、副作用のせいでやたら興奮状態になって夜中に脱走して近所を走り回ったりするらしくて、家族が困り果ててさ。それでここに通ってくるようになったんだ。体力発散のためにね」


 俺は爺さんよりへなちょこなパンチを披露するのは御免だと思い、体験コースを断った。


「ところで、俺はクリーニング屋の知り合いなんだが」

 と俺は意味ありげに会長に目配せしながら言った。しかし、会長はきょとんとしている。

「クリーニング屋?」

「ここの六階にあるだろう。色っぽい女の子がいる」

「そんなの、あったっけ? ここの一階はコインランドリーなんだが。とんだ商売敵だな」

「いや実は、クリーニング屋の姉妹店の肉屋のおやじに聞いたんだが、ここで仕事を世話してくれるって」

「肉屋ってまさか」

 おやじのたるんだ顔に緊張が走った。

「PORUKA精肉店。あんたそういえば、あそこで会ったことないかな」

 俺のかけたカマにおやじは見事にひっかかった。

「何の話だか」

 否定して見せても狼狽しているのは明らかだった。

「悪いが、あの爺さんを着替えさせて、家まで送り届けなきゃいけない。うちはそういう、地域に密接したサービスを提供している健全なジムだからね」


 ロッカールームの扉が勢いよく開いて、中から全裸の爺さんが飛び出して来た。爺さんは奇声をあげながら、老人とは思えないスピードで俺達の目の前を駆け抜け、ジムのドアを開け外に走り出て行った。


「おい待て」


 我に返った会長が慌てて後を追いかけて行った。

 俺はたった一人、人気のないジムに取り残された。

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