第36話 捨てた夢

龍一にはその言葉の意味をあまり理解できなかったが、今の感情を言葉で表すなら『失望』『絶望』こんな言葉だろう…そう思いながら歩を進めた。この場合自転車なので歩みではなく、車輪と言うべきか。


恐ろしい程の方向音痴とは言え、知っている風景を見つけたら俄然強いのが龍一なので、その歩みには迷いが無かった。しかし冷静に考えるとそれは当たり前の事だ、知っているところなのだから。


かなりの距離を移動した1日、中学生のバイタリティーでも流石にきつかったので、自転車を降りて歩き出す龍一。精神的なダメージもあってその歩は重く、とても遅かった。


雨は上がったが太陽は出ておらず、そのまま夕方になったのでびしょ濡れになった服は冷えて冷たさを増してくる、濡れたシャツは肌に張り付き、ズボンは重くなり、靴は一歩踏み出すたびにぐちゃぐちゃと音を立てた、加えて心が傷付いたのだから不愉快で不快の極みだった。


もう足が痛くて一歩踏み出すたびに土踏まずにピキピキと電気が走り、踵に鈍痛を感じてアキレス腱が千切れそうだった、その度に小さく跳ね上がりぴょこぴょこと足を引きずる、跳ね上がる度にアキレス腱にかかる体重を緩和させているのだが、この痛みをかばう動きは片足に体重をかける運動になるので体力を異常に消耗させる、徐々にそのぴょこぴょこもぴょこっズルズルとテンポが変わり、靴擦れも手伝ってその重い足取りは一層速度を落とし、やがて小さな公園の前で止まってしまう。


『はぁ…』


深いため息をついた龍一はその小さな公園のベンチに座った。

濡れたズボンのお尻が肌に張り付き、お尻とベンチ押し付けられ、皮膚に触れる面積がゆっくり広がって冷たさがじんわりと伝わる、脳が冷たいぞ!と言う感覚を感じるまでのスピードがやけに遅かったのがとても気持ち悪いと感じた。


ぐーっと伸びをして一気に身体を縮めると、じっと自転車を見る龍一。その目には空っぽの自転車が映った。荷物を何も積んでいない、いや、自分で捨てたのだ、だから空っぽ、そして絵と一緒に夢も希望も捨てて来た、正真正銘空っぽな自転車なのだった。


『あ、この公園・・・』


龍一は小学生の頃、ここで男の子に絡まれていた女の子「靖子ちゃん」を助けていた、その事を思い出すと少し気持ちが楽になった。自分は中学生だと言うのに『懐かしいなぁ』なんてつぶやいてみるのだった。


『ふぅ~・・・・』


静かに息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がって家に向かった。

どれくらいの間ベンチにいたのだろう、気が付くと星空になっていた。星空を眺めるのが好きだった龍一は立ち止まっては星を眺める事を繰り返した。星には大小さまざまな輝きがあり、寄り添っていたり点滅していたりする、移動もする、だからどれだけ見ていても飽きなかった。感じ方は人それぞれだが、龍一には星空に希望を感じるから好きだったのだ、諦めなければ輝き続けるのが希望だと信じている龍一にとって、見上げればいつでもキラキラと輝いている星々は希望そのものだったからだ。


だが今夜の星空に輝きはない。


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金属のドアノブを回すと玄関の扉を静かに開けた龍一。

その右足が入るか否かと同時に父親の康平の声がした。

『龍一っ・・・ちょっと来なさい』


『ちっまたかよ』そう心でつぶやくと、ゆっくりと、それでいてドスドスと、自分も戦闘態勢なんだと言うアピールをしてみせながら居間に入った。


『座りなさい』


康平がそういう時は正座と決まっていた桜坂家だが、この日龍一はその伝統を壊して見せた。正座せず胡坐をかいて座ったのだ。


『ちゃんと座りなさい』


『脚がいてぇんだよ』

疲れ果ててうんざりな龍一はもうどうにでもなれと最初から喧嘩腰だった。


『龍一ッ!』

母親の喜美が短く、そして強く言い放つ。


『うるせぇな!どう座ったって話を聞けばイイんじゃねぇの!?』


『あんたなにそのクチの』


『いいんだ、龍一の言う通りだ、話しをしたいだけだ、どう座ってもイイ』

珍しく康平は喜美を止め、龍一の言動を受け入れ、お茶を一度すすり上げると湯呑を置き、一呼吸してからゆっくりと話し出した。


『お前、今日母ちゃんに留守番頼まれなかったか』


『知らねぇ』


『嘘つくんじゃない!トシおじさん来るから留守番してって言ったでしょう!』


『返事はしてない』


『龍一、トシおじさんは用事があって来たんだ、なんで居なかったんだ?』


『俺だって用事はある、断ったけど母ちゃんは聞いてもくれなかったじゃないか』


『何が用事だって!どうせ遊ぶ約束でしょ!』


『違う!俺だって!!!!俺だって大事な用事はあるんだ!ふざけるな!』


『はぁ?誰にもの言ってんのあんた!』


『うるせぇこのやろう!!!!!』


その瞬間龍一は座っている位置から50cmほど左の扉に叩きつけられた。康平の左ビンタに吹き飛ばされたのだ、首が捻じれたかと思う程の痛みと衝撃に驚いたが、父親の打撃には慣れたものだ、インパクトの瞬間龍一は自分の腕でガードをしていたのだ。


『少しは家の事に協力しろ!遊んでばっかりだろ!』


『遊んでねーよ!何見てたんだよ!部屋でずっと絵を描いてたんだ!』


『それが遊びだって言ってんだ!留守番しながらでも描けるだろ!』


『今日は俺にとって大事な日なんだよ!!!!』


『生意気な事いってるんじゃない!!!!』


『やれと言ったらやれ!子供なんだから!!!』


『親であることは権利じゃねぇ!命令すんな!』


『ちがう!権利だ!』


『だったら俺にも断る権利があるだろ!あぁコラ!』


『コラだとこのやろう!』


『文句あんのかクソ親父がよぉ!』


『あんた親父さんに向かって何言ってるの!!!』


『うるせぇババァぶっ飛ばすぞこのやろう!』


『龍一ぃいいいいいいいいいいいいいいい!!!!』


康平にシャツを掴まれてムリヤリ立たされ至近距離でビンタをされた龍一、だが今回の龍一は怒りが収まらず康平の身体にタックルして居間の入り口のドアに康平を叩きつけた。康平はドアノブで腰を打ったらしく『う!』と一度言ったものの、しがみつく龍一の背中に拳骨を何度も叩きつけた。『やめて!』と金切声をあげる喜美、痛さなんか感じないアドレナリン全開の龍一は殴られながらタックルして掴んだ康平の腰に思いっきり爪を立てて脇腹に噛みついた。龍一に眠る多数のタイプから『犬』が目を覚ましたのだった、我を忘れて康平の脇腹の肉を食いちぎらんとする勢いで噛む力をあげてゆく。我慢できなくなった康平は両手で龍一の髪の毛を鷲掴みにして引きはがし神棚のある両親の寝室へ投げ飛ばす、龍一はそのまま転がって箪笥に頭を打ち付けて脳震盪を起こし、立てなくなった。


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ゆっくりと目を覚ますとベッドの上で部屋は真っ暗だった。

恐らく康平が運んだのだろう。


起き上がって電気をつけると後頭部に激痛を感じて何があったのかを思い出した。時計を見ると午前1時を回っていた、眠れなくなったのでベッドに座り、隠しているマルボロに火をつけた、吐き出す煙が形を変えて部屋の中を自由に漂い消えてゆく姿を見届けると、次の煙をまた吐いた。


机に目をやると絵を描くためのペンやインクがそのまま置いてある。


煙草を消して静かに立ち上がると、一つ一つの道具を確認するように見つめながら机の一番下の大きな引き出しにしまって鍵をした。


そして自分に言うようにつぶやいた龍一。


『明日からやることなんにもないや』






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