2.ろっくなへどばん


 妹の首には骨が通っていない。

 頭と胴体は肉と皮だけでつながっている。


 血管や神経、気管や食道なんかも普通に通ってはいて、全部が自在に伸び縮みするということ以外は生物として何ら問題なくできている(妖怪としてはどうなのだろう……)――のだが、一つだけ弱点がある。


 首が据わらないのだ。


「いい? すえちゃん」


 うら若き乙女がトイレのドアを開けっぱなしにして用を足すことの罪深さをひとしきり講釈し終えたのち、わたしは頭の内側がまだくわんくわんしているだろう妹をダイニングの椅子に座らせ、特製のマフラーを巻いてやっていた。


 このマフラーは、首に巻いているうちは普通のマフラーにしか見えないが、特別固く編んであり、中にワイヤーも通してある。実質マフラーの形をしているだけの、妹専用のコルセットだ。


 妹が首を実際に据わらせられないわけではない。わたしたちが意識して背筋を伸ばすように、ほんの少し首の筋肉を緊張させつづければ、鼻柱が正中線からズレることも、肩の間からはずれて落ちることもない。だいいち首を伸ばしているときだって、重たい頭を筋肉だけで支えているのだ。木登りが得意なヘビと同じだ。

 ただ、普通はそのためのエネルギーというのは、首の骨がまるごと肩代わりしている。朝に体を起こしてから夜に枕へ突っ伏すまでずっとだ。立っているときの足腰よりも少ない消費カロリーだそうだけれど、補助する道具をつけて過ごすのとでは雲泥の差というわけだ。


 なにより、むしろ微々たる力で支えているからこそ、はずみや気のゆるみでバランスを崩すことがよくあった。そういうときの制動装置としての役割の方が、妹の『マフラー』には大きい。


「わたし昨日言ったよね? 今日だけは一日中、首を伸ばさないつもりでいなさいって」


 含めるように言いながら、ひと巻きしたマフラーの両端を少し引っ張る。妹は頷く代わりに「ぐえ」と声を漏らした。

 別に八つ当たりをしたわけではない。一度きつめに締めてやらないと、中のワイヤーにちょうどいいクセがつかない。


 小さい頃は本当にコルセットをした上から、それを隠すだけの意図でマフラーを巻かせていた。が、それは彼女がまだ自力で首を据わらせるのが下手だったからこそのこと。成長した今は、こんなゆるい補助具でもこと足りる。


「けほっ。断ればよかったのに」

「断りきれませんでした。ごめんなさい」


 妹は少し涙を溜めた目で恨めしそうにこっちを見た。わたしは真正面のそれを見ないように努める。


 昨晩もう充分謝り尽くした自信はあるものの、蒸し返されるとやはり耳が痛かった。押しに負けたとはいえ、家族に相談なしに決めてしまったことの非はわたしにしかなかったからだ。気持ち的には、ママがわたしの敵に回らなかったせいで、姉妹そろってモヤモヤしているとも言いたいのだけど。


「何人くらい来るの?」

「ふたりだけだよ。心配しなくても、片方はいい子。もう片方は、なんかよくわかんないけど、とりあえず無害」


 元は前者の一人だけの予定だった、とは言わないでおいた。率先して恥を上塗りする趣味はないものだ。


「ふたりとも、すえちゃんにプレゼント用意したってさ。好きな料理も聞かれたから、ちゃんと答えといた」

「何て言ったの?」

「秘密。ほら、もううれしそう」


 目の輝きが劇的に変わったことを指摘してあげると、妹はまた耳を赤くして少し俯いた。そうして引かれた丸いあごの上へ、マフラーの両端の、ワイヤーの入っていない部分を重ねるように巻いてやる。


「平気そう?」

「わかんない」

「うーん、もうちょっときつめでもいいか」

「マフラーじゃないよ」


 編み目の端をつまんでいたわたしの手に、妹が自分の手をそえてきた。両手で温めるように包んで、じっとそれを見つづける。


 間違いなく、不安なのだろう。


 自宅でも気を抜くなと、厳しく教えられてはいても、やはり妹にとってここは絶対安全の世界なのだ。外になくてはいけないはずのものがそこへ入り込んでくるということは、妹の世界が崩れることでもある。それは、彼女を守護してきた檻のもろさが明らかにされてしまうのと同じだ。

 妹からしてみれば、何の前触れもなく、他でもない肉親によって、その機会がもたらされてしまったわけだ。無情と思わずにはいられない。いつかは必要になる、彼女のための仕打ちだなどと、思ってはいても口にしていい道理は、わたしに限ってはありえなかった。


 わたしに許されているのは、お念仏の代わりに気休めを唱えることと――姉として彼女に共感し、いっしょに腹をくくることだけ。


「だいじょうぶ」


 わたしは余っている方の手で、妹の髪をくように撫でた。


「どんなことがあっても、お姉ちゃんがすえちゃんを守り抜くから。なにがあっても」

「うん……」

「もう。泣くほどのことなんてきっと起こらないんだよ。難しく考えないで。なんとかなる、なんとかなる」


 目じりの涙を指先で払ってあげてから、テーブルの上のティッシュペーパーを取って渡す。それで妹が鼻をかもうとすると、くうを風が通るだけの気の抜けた音がして、作り笑顔から本当に失笑してしまった。


 何のことはない。

 結局わたしは、この妹がかわいくてしょうがないのだ。


 わたしの姉馬鹿ぶりには際限がない。人からよくイジられるが、自分でもたまに呆れてしまう。

 すえちゃんに会ってみたいと言った友人の頼みを断り切れなかったのも、わたしの側に、妹の愛くるしさを知ってほしい気持ちがあったからなのかもしれない。


 だとしたら、笑ってないでもっと反省の色を見せるべきだと、どうにかして失笑を噛み殺そうと四苦八苦しているうちに――鼻を拭き終わった妹が、口を半開きにして妙なしかめっ面をし始めた。

 息を大きく吐こうとして吐けないでいるかのような変な呼吸をしている。それはどうやら鼻の奥がおかしなことになっているんだと気づいた瞬間、わたしは目を剥いて「ストップ!」と叫びかけた。


 実際には、「スト」までしか発音できなかったのだけれど。

 「プ」を言う前に、妹がくしゃみをした。


 間違いなく、妹はくしゃみをした――のだけれど、それを視覚で認めるより先に、妹のつむじがわたしの眉間を襲った。一瞬視界が真っ暗になり、かと思いきや全体が白くひらめいて、気づいたときにはダイニングの天井を見あげていた。


 一つしかないダイニングの丸い電灯が、四つに増えて万華鏡のように周遊している。

 そのかたわらに、天井近くまで伸びあがった妹の頭。


 ぐおんぐおんと揺れつづける意識の中、妹のくしゃみと石頭がもたらしてきた数々の破壊の歴史が走馬灯のように思い起こされる。先行きの不安とそれらとを照らし合わせ、わたしの辟易へきえきは改めて濃度を増した。

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