Wisteria─ウィステリア─<Oswald・過去編>

リオン

プロローグ

プロローグ

 俺達の国『ニコラシュ共和国』には、様々な民族が住んでいる。

 まだ魔術や魔術師が正しく周知されていなかった時代に、近隣の国々から迫害を受けた魔術師達が団結して、魔術と武力で建国した国であるからだ。

 それは凡そ二百五十年前の出来事である。彼らは自分達を追い出した者達を相手に命を賭して戦い、安寧の地を手に入れたのだ。

 新しく出来た国には、他国の君主に匹敵する血筋の者などいなかった。少しは貴族もいたが、何しろ元々住んでいた国も宗教も違うので、生まれで君主を選出するのは不可能だった。故に人々は身分制を廃止して、戦いで武勲を上げた者達に政治を委ねた。皆で元首を選出し、差別の無い公平で平等な国を理想に掲げ、国の名を初代の君主の名に因んで『ニコラシュ共和国』と定めた。

 政府は国を守る為にも必要である武力を第一に考え、武器を開発しては量産し続けた。それらを製造する資源に乏しい土地であった為、領土を広げようと周囲の国々と戦争を繰り返した。

 どの国よりも早く魔術の研究も始まり、統計と実験に基づいて学びのプログラムが確立されると、ニコラシュ共和国の魔術水準は飛躍的に向上していった。当然のことながら魔術を戦力へと組み込む方法も数多く考案され、その中で魔力を込めて使用する道具の開発が進み、今で言う『魔術具』の概念が生まれた。

 これらの我が国の取り組みは、他国で未だ不自由な暮らしをしていた者から見ても理想であったのだろう。理解されず迫害を受け続けていた魔術師やこれを助けたいと思う者、身分の低さによる貧困に苦しんでいる人々などが亡命を望み、我が国に次々にやって来た。建国から五十年も過ぎた頃には、『ニコラシュ共和国』は国土を七倍にも広げ、長い歴史のある隣国『ヴェスパー王国』とほぼ同じ面積と人口を誇るまでになっていた。


 ──というのが、ニコラシュ共和国では誰もが学ぶ国の歴史である。 


 けれども建国より二百五十年と少しが経過した今、十七歳の魔術師オズワルド・ミーティアは思うのだ。何が安寧の地だ、何が平等だ、大昔の理想など、とうに潰えているじゃないかと。

 確かに国の始まりには、大いなる理想があったのかもしれない。だが、元々何もかもが違う民族を一つにすれば、問題が起こらない筈がないのだ。武器で溢れた国内では民族間の紛争が絶えず起こり、国としての独立を目論む地区が出始め、それを制圧する度に軍部は力を持った。その蓄えた力で近隣国とも土地や権利をかけて争うものだから、安寧など見渡す限り何処にも無かった。今やニコラシュ共和国は、共和国とは名ばかりの軍事国家と成り果てている。

 おまけに戦争の繰り返しが神々の怒りにでも触れたのか、ニコラシュ共和国ではほんの僅かしか魔術師が生まれなくなった。世界的に見ても魔術師は減少していると言うが、中でもニコラシュ共和国は極度に少ないのだ。国がその数を改竄し、正確な数を公表していなくとも、オズワルドには分かる。魔術師の中でも稀有な存在、『独創者』であるオズワルドは、自身とその他の魔術師達の待遇や管理のされ方から事実を感じ取っている。

 信仰心の薄いオズワルドは神など信じていないが、本当いるならばこんな国など早く滅ぼして欲しいと思う。信仰ごとにいるらしい神々のどれでもいい、もしそうしてくれるならば、自分は初めて神に感謝するだろう。

 しかしそうはならないから、オズワルドは自身の力でこの世界から逃亡するのである。別に自由を求めて、などと大それた事を望んでいる訳ではない。戦争の道具にされるここでの生き方を終わらせる事が出来るならば、何だって構わなかった。



***


「オズワルド、皆の準備は完了だ」

「ああ。今行くよ」

 ベッドの下に隠しておいた一丁の銃を懐に入れて、オズワルドは自室を出る。深夜の暗い階段を共に下りた仲間は五人。少ないが、これ以上を連れて逃亡するのは不可能だ。

「……本当に、妹を連れて行って構わないのか」 

 仲間の一人であるユオが、計画の発案者であるオズワルドに真剣な眼差しで問う。四人は男ばかりでオズワルドと殆ど歳が違わないが、ユオの腕に抱かれた歳の離れた妹ネーベルだけは幼く、まだ五つだ。兄の魔術で眠らされているネーベルの柔らかな頬を軽くつついて深い眠りについている事を確認すると、オズワルドは軽く口角を上げた。

「その質問は、朝になって妹が起きたらしてやれよ。きっと驚くだろうからな」

 自分達は自らの判断で国を出る気でいるが、計画を知らされてもいないネーベルがどう思うかは分からない。まだ『仕事』を持たないネーベルにとっては、魔力を持つ子供が集められるこの施設が、衣食住を約束された安寧の場所に見えているのかもしれないからだ。

 無事に逃げられて知らない場所で朝を迎えて、それで誰かがこの子に責められるならば、仕方がないので自分がその役を買ってやるかとオズワルドは考えている。


 目指すは我が国と戦争中の隣国、ヴェスパー王国。

 彼の国は、他国との貿易に巨大な飛行船を使用している。動力に魔術を併用しているので墜落の心配もなく、船の何倍も速度が出る代物だ。専門の魔術師による悪天候への備えも施して、大海を越えた砂漠の国との貿易にも使っているそうだ。

 狙いはその飛行船だ。海を越えられる空飛ぶ乗り物など、他の国には二つと無い。つまり陸を行く馬車や海を行く船と違って、追っ手がかからない乗り物なのだ。ヴェスパー王国と上手く交渉して飛行船に内密に乗せてもらう事が出来れば、誰にも知られず遠く離れた砂漠の国へと辿り着ける。

 国境付近を腕利きの魔術師達で固めて守護しているヴェスパー王国に入れたならば、こちら側の軍部でも容易には追って来れまい。それに、敵国の飛行船がニコラシュ共和国の上空を飛ぶ事は絶対に無い。だから好都合なのだ。敵国を経由するからこそ、この作戦には成功する望みがある。

 仲間に作戦を打ち明けた時には驚かれたが、オズワルドにはヴェスパー王国との交渉に活用出来る切り札を手に入れていた。相手が敵国であるからこそ有効なものだ。それに敵国とはいえ、ヴェスパー王国は歴史があり秩序を重んじる女王の国だ。国境付近の戦場にいる魔術師の中でも話の分かる奴と交渉して、敵意を示さず興味を持たせる事に成功したならば、まだ戦士ではない十代の自分達がその場で命まで取られる事はない筈である。

 どちらの国も、戦場へ正式に派遣されるのは成人を過ぎてからと定められている。成人する年齢はニコラシュ共和国が十八、ヴェスパー王国が二十歳。オズワルドは十七なので、来年ではもう遅い。今ならば年齢的にも、話を聞いて貰える可能性がある。楽観的な考え方かもしれないが、オズワルドはそれに賭けていた。


 伝え聞いた話によれば、ヴェスパー王国にはジェントルマンと呼ばれる、国の為に金を出す貴族層がいるらしい。富を持つ者が国の発展の為にそれを差し出す。この国では考えられない文化だが、そのおかげで蒸気機関と呼ばれる、新しい技術を用いた産業も発展しているそうだ。

 多くを持つ者が国を善意で支えるという構図があるということは、国民の富が搾取されているわけではなく、非道な扱いを受けていないことを意味する。逃亡計画を成功させたいオズワルド達にとって、ジェントルマンの話は希望の持てる逸話だった。

 しかしヴェスパー王国も、かつては魔術師への差別や虐殺があった国の一つであると学んでいる。自分達のような魔術師が、現在のヴェスパー王国ではどのような扱いを受けていのか。それに関しては情報が少なくて謎に包まれているのが、唯一の不安要素だった。


 行ってみなければ、確かな事は分からない。

 生まれた時から隣にありながらも遠い国だったそこへ、まずは必ず、全員無事で辿り着かなくては。


「……よし、始めよう」

 オズワルドが静かに宣言して慎重に指を鳴らせば、自分達がいる東棟とは逆の西棟──監視職員達が寝泊まりしている棟の奥から、大きな音と振動が二度に渡って響いた。魔術で起こした落雷だ。施設をぐるりと囲んでいる森に落ちた雷は火災を起こし、西棟の辺りにも黒い煙が漂い始めた。


「やった! いいぞオズワルド!」

「外の見張りが全員西棟の方に走って行くぞ。今なら広場を突っ切れそうだ」

「シエロは今のうちに馬車小屋に急げ。ユオも一緒に。そっちの手筈は頼むぜ」

「任せとけ!」

 

 オズワルドの左腕は、この日の為に密かに作っておいた機械で覆われている。

 自分達は昼間の『仕事』で魔力をほぼ使い切らされるので、本来なら夜の間は些細な魔術しか使えない。腕の機械は、僅かに残っている魔力を強制的に引き上げる為のものだった。

 そしてその部品には、特定の魔術師しか使えない魔術をオズワルドのものにする仕組みが組み込まれている。これこそが『独創者』であるオズワルドの特性、機械を利用して自身とは別の者の魔術理論を扱う才能である。落雷の魔術は元々、トニトルスという有名な独創者が持つものだ。


「いざ実践となると、結構堪えるな」

 大きく息を吐いて、オズワルドが膝をつく。練習不可の一発勝負なのだ。計算上では逃げ切るまでもつ筈の魔力残量も、底が見えたかのように心許ない。見兼ねたリュゼが、ポケットの中から飴をごっそり取り出した。非常食になればと、ありったけ持ってきたのだろう。

「大丈夫か? こんなもんしかねえけど、食えよ」

 差し出された飴を掴み取ると、オズワルドは包み紙を開いてバリバリと噛み砕いた。風味も何も無い、砂糖を煮詰めただけの安っぽい飴だ。

「全部食ってもいいぜ。お前が倒れたら、上手く交渉なんか出来る奴は他にいないんだからな」

 リュゼはそう言うが、実際はヴェスパー王国との交渉なんて、切り札さえあれば誰がやっても同じである気がする。元々オズワルドに一番大きく負担がかかる作戦であるのは全員承知の上だ、気遣われているのかと、オズワルドは苦笑した。

 だが、甘い物は元々好きだ。ほんの気休め程度でも、魔力を回復させるエネルギーにもなってくれる。仲間から手渡されたものならば、安い飴の味も悪くなかった。


「おい、馬車はまだか? 予想通りお前を探しに、いま上の階に職員が上がって行ったぞ。三人だ」

 廊下に隠れて見張りをしていたキアーヴェが戻ってきた。

 天候も悪くないのにこの施設に雷が落ちれば、監視職員達は誰かが魔術を使って落としたものだと判断する。彼らが真っ先に考えるのは、敵国からの攻撃だ。その証拠に、大半の職員が落雷のあった方へ集まって辺りを警戒している。

 しかし外からの攻撃ではない場合、騒ぎの嫌疑は真っ先にオズワルドにかけられる。理由は簡単、雷を落とせる可能性がある者など、見張りの職員を含めてもオズワルド以外にはいないからだ。職員三人はオズワルドの部屋へ向かった、これは想定通りだ。奴らが戻ってくるまでに、馬車の手筈が済めばいいのだが。


 ここまでの計画は滞りなく進んでいる。今のような真夜中でも、外の見張りは八人から十人程度。それを騒ぎで移動させて、広場を無人にすることが出来た。西側への警戒と森の消火作業が最優先となるせいで、東棟へオズワルドを探しにやって来る人数が少ないであろうことも、幸い的中した。

 馬車小屋へ向かったシエロは、動物と話せる独創者だ。この日の為に馬車を引く馬を手懐けていて、今夜は俺達の為に走ってくれると約束を取り付けている。動物との会話は魔力の使用量が少ないから、夜に残っている僅かな魔力量でも十分可能だ。

 ユオは妹のネーベルを抱えていては走れないから、一緒に先に行かせた。今頃ネーベルを馬車の中へと寝かせて、手綱を握っている筈だ。ユオは妹を連れて行くのを全員が承知してくれた事に感謝して、追っ手に狙われやすい御者役を、自ら買って出たのだった。


 オズワルドがもう二つ、飴を口に放り込んで噛み砕く。その時、漸く暗い馬小屋の中に、魔術による火の玉イグニス・ファトゥスが灯った。出発の合図だ。

 馬小屋から姿を現した馬車を引く馬が、正門に向かって静かに駆け始めた。鞭は使わない代わりに嘶かなように頼むと言っていたが、馬は大人しく聞き分けてくれたようだ。となれば、自分達も正門前まで全力で走って合流するのみ。オズワルド達はすぐさま順番に窓を飛び越えようとした。

「おい! そこで何をしている!」

「くそっ。あいつだ、さっき上に行った奴だ!」

 キアーヴェが窓から飛び下りる直前に、苦々しく舌打ちする。

 見つかった相手は一人きりだ。手分けしてオズワルドを探しているらしい。


 ここで逃げたら駄目だと、オズワルドは考える。こいつらは通信に使える魔術具を持っている。それを使って応援を呼ばれる前にどうにかしなければ、脱走が全ての職員に知られてしまう。

 今のタイミングでバレたなら、確実に逃亡する前に捕まるだろう。馬車組は正門に到着した後、馬から教わった十桁の鍵の番号を使って、手動で門を開かなければならないからだ。

「二人共、先に行け!」

「なっ……! 何でだよオズワルド、お前も早く来いよ!」

「俺の足手まといになりたくなけりゃ、絶対に捕まるな!」

 オズワルドの言葉に弾かれたように、リュゼとキアーヴェが正門に向かって走り出す。オズワルドは窓を飛び越えなかった。窓の外よりも自分に注意を向けさせようと、走ってきた監視職員に掴みかかる。職員は憤慨した様子で、オズワルドの腕を捻りあげた。

「オズワルドだな!? 今そこに誰かいただろう! まさかお前達──!」

 職員には見えなかっただろうが、その時オズワルドの掌から、小さな機械の虫が飛び出した。それは職員の頭皮に潜り込んでいって、恫喝を終えないうちに、くたりとその身を倒れさせた。

「少しの間眠ってもらうだけだ、優しい虫だろ」

 言い残して、オズワルドも窓を飛び越える。正門は既に大きく開かれていて、仲間を全員乗せた馬車はオズワルドが辿り着くのを待っていた。


「おい、そこのお前! 止まりやがれ!!」

「オズワルドか?! 止まるんだ、撃つぞ!!」

 後ろから二人分の声がした。自分を探していた監視職員達だろう。

 だが、もう走るしかないんだ。門は開かれ、馬車は出発可能な状態にある。小屋に残っているに馬にはシエロがよく言い聞かせてあるから、無理に乗ろうとしても逃げ回るだけだ。もう通信で応援を呼ばれても、こいつらは俺達には追い付けない。なにがなんでも追っ手を振り切って走らなければ。

 オズワルドが馬車まであと数歩というところで、後方から銃声が二回響く。そのうちの一発が運悪く右足のアキレス腱の辺りに命中し、オズワルドは前のめりに倒れた。

 馬車の扉が瞬時に迷いなく開いて、先に辿り着いていたキアーヴェとリュゼが急いで下りてくる。発砲されているんだ、俺に構わず行けよ。そう声をかける暇もなく、オズワルドは二人に支えられて引きずり上げられた。二人はオズワルドの体を、先に馬車の中に押し込もうとする。オズワルドは怪我を負わなかった方の足を馬車にかけて座席に手を伸ばした。中にいたシエロが、その手をしっかりと掴む。

 馬車の中に、オズワルドの体の全てが収まった。もう大丈夫だ、逃げられる。そう思った時、乾いた銃声が六発鳴った。あの銃は立て続けに何発も撃てるものじゃない、通信を受けた他の奴らも加勢してきている。


「……あ、ぁ……!」

 馬車に転がり込んできた二人のうちの、リュゼが苦しそうに呻き、腹を押さえていた。負傷したのだ。空にある半月が齎す光は弱く、暗くてあまり見えないものの、血の匂いが一気に強まった。キアーヴェが御者席にいるユオに出せと一言がなり、同時に扉を閉める。森を抜ける唯一の道を、馬車は小石を跳ね飛ばしながら走り始めた。

「う……、ああ! いてぇ……!」

 リュゼが撃たれた傷の痛みに暴れる最中にも、馬は思いの外速い速度で、暗い森の中を駆け抜けていく。シエロが全力で駆けるように馬に頼んだのだろう。逃げているのだから有難かったが、そのぶん馬車は酷く揺れた。

 おまけにぐっすり眠らせてあるネーベルに加えて負傷したリュゼを寝かせているものだから、馬車は六人乗りのものであるのに身動きが取りにくい狭さとなってしまっていた。

「オズワルド! もうすぐ例のポイントだ!」

 御者席のユオが叫ぶ。

 施設から半径五十メートルの位置には、この森を勝手に抜けられないようにぐるりと魔術が施されている。それを解術して突破しなければ、森の中をぐるぐると回る羽目になるのだ。

 十分に魔力を備えた状態ならばユオでも解術は可能だが、現状ではこれもオズワルドが担うしかない。魔力と体力を極力抑える為に、オズワルドは自身が知る中でも最も古い魔術図形を宙に描き、詠唱をきっちりと唱えた。無事に突破出来たのを感じ取ったユオが、馬車の中に聞こえる声量で感謝を伝えてくる。


「リュゼ……あんまり暴れるなよ、出血が酷くなる。なあリュゼ、聞こえてるか? 今、止血をするからな」

 月の光が届かない森の中は、広場に馬車を停めていた時よりも更に暗い。

 リュゼに声をかけ、魔力で青白い火の玉イグニス・ファトゥスを灯したシエロが息を呑んだ。リュゼの出血は馬車の座席まで広がり、ぽたぽたと床にまで落ちている。彼がポケットに持っていた飴も、馬車に勢いよく乗り込んだせいで床に散らばっていた。

 その光景に不吉な言葉を誰もが連想しただろうが、誰も口を開かなかった。シエロが脱いだ下着を破って傷口をきつく縛ってやった甲斐もなく、出血は止まらない。下着の白い布がすぐに赤い血を吸いきって、また床に血だまりが増えていく。

 狭いスペースに収まるように膝を折り曲げて床に座っていたオズワルドは、手の届く範囲にあった飴を幾つか拾い上げた。血の付いた包み紙を次々に開くと、赤く染まっている飴を一気に口の中に放って咀嚼する。二人が何をしているんだと言いたげな目で、オズワルドを見ている。

「治癒魔法だ。俺達全員の魔力を合わせて、リュゼの傷を治すんだ」

 オズワルドが、傷口を守るように押さえているリュゼの手を強引に払い除けて、左手全体で押さえ込んだ。

 リュゼは痛みに暴れて叫び声を上げる。

「オズワルド……お前は平気なのか? お前もさっき足を撃たれただろう。魔力だって、一番消耗してるんじゃないのか」

 キアーヴェがオズワルドの足の具合を確認しようとする。しかし馬車の中は狭く、濃い影になっている床の方は上手く覗き込めず、足元に広がっている血がリュゼのものなのかオズワルドのものなのかさえ、判別がつかなかった。顔色の良し悪しすら、火の玉イグニス・ファトゥスの青みのある炎に照らされていてはまるで分からない。

 オズワルドはキアーヴェの問いには答えず、これからする事だけを淡々と説明し始める。

「左手を覆っているこの機械は、俺の魔力を底上げする。だから直接リュゼに魔力を流すんじゃなくて、二人の魔力を俺に寄越してくれ。僅かでも多く、その火の玉イグニス・ファトゥスも消して、全部の魔力を、俺に……」

「……あ、ああ。分かったよ」

 シエロが火の玉イグニス・ファトゥスを消すと、オズワルドの虹色に輝く魔力が勢い良く傷口へ浸透していく様子がよく見えた。治癒はもう始まっている。キアーヴェとシエロもその上に手を重ね合わせて、ほんの少ししか残っていない魔力をオズワルドへ懸命に注いだ。キアーヴェが、思いついた疑問を口にする。

「なあオズワルド。俺達が魔力を空っぽにしても、町を通る時は安全なのか。国境を抜ける時だって、何があるか分からないんだぜ」

「平気だ。職員の通信は施設内だけのもので、遠距離じゃ使えない。俺達が脱走したと外部に知れ渡るのは、俺達が町を抜けたずっと後だ。それに、これは軍部の馬車だから、夜中に国境の方向に走っていたって不審がられることはないだろう。どんなに馬が速度を緩めようと、夜明けまでには国境に行ける筈だ。警備が薄い抜け道は、昨日ユオに伝えてある……そう、ユオが眠くならないように、時々、声を掛けてやってくれ」

「そうだな、御者席に一人じゃ眠くもなるよな。そういやユオの奴、寒くないのかな。あいつ、ネーベルにばかり上着や毛布をかけてやってるんだ。夜の御者席は風が冷たいだろうに」

「……ああ……。そうだ、寒い……。寒いんだよ……」

 キアーヴェの言葉に今にも消え入りそうな震える声で答えたのは、オズワルドでもシエロでもない。傷の治癒を受けているリュゼだ。

 見ればオズワルドが注ぎ続けていた魔力は輝きが淡くなっていて、今にも止まってしまいそうだった。まだ、リュゼの血は止まっていないというのに。キアーヴェが震えるリュゼの背中を温めようと、さすってやりながら訴える。


「これ、やばいんじゃないのか。リュゼ、凄い震えてるぞ! おい、オズワルド。おいってば!」

「……キアーヴェ、やめろよ。オズワルドだって無理やり魔力を底上げしてただけで、もう限界なんだ。触っても動かない、もう殆ど意識を失ってる。頼むから、そっとしておいてやってくれよ……二人とも、もしかしたら……」


 ──ひゅっ、とキアーヴェの喉が、細い息を吸い込む。考えたくもなかった。二人とも、子供の頃からずっと一緒にいた仲間だ。魔術師ではない親から離されてあの施設に入って、訓練をして、戦争の為の仕事をさせられて。ニコラシュ共和国の魔術師である自分達には、生き方を決める自由など無かった。でも、そんな閉塞感も悲しみも、時には楽しい事だって、ここにいる皆で兄弟みたいに分かち合ってきた。

 俺達はこれからなんだ。これから、こことは違う国で幸せになるんだ。その為にこうして脱走したんじゃないのか。嫌だこんなの、リュゼが息をしていない。嘘だ。こんなのは受け入れられない。

「……あ、あああああああ──!!」


 馬車の中でキアーヴェの発した悲痛な叫びは、御者席で手綱を掴むユオの耳にもしっかり届いていた。

 ユオには今、自身の背後で、良くない事が起こったという予感がある。それでも馬車は止められなかった。最悪の出来事が起こったというなら、妹のネーベルにはとても見せられない。彼女が目を覚ます朝になる前に、国境へ辿り着かなくては。


 俺は泣けない。泣いたら前が見えくなる。町で泣き腫らした顔を役人にでも見られたら、きっと不審がられて馬車を止められてしまう。だからまだ、今は泣いてはいけないんだ。

 ユオは風に吹かれて冷たくなっている唇を、ぐっと強く噛み締めた。



***


 オズワルドが目を覚ましたのは馬車の中ではなく、見慣れない丸太作りの簡素な家だった。静かで、物音一つ聞こえない。窓からは朝焼けか夕暮れか、赤みを帯びた日が差し込んでいる。

 丁寧に毛布のかけられた清潔なベッドは暖かく心地が良くて、オズワルドは一瞬、自分はもう死んでいてここは天国なのではないかと思った程だ。

 何処だ、ここは。何か、悲しい夢を見ていたような気がする。仲間が、リュゼが自分のせいで撃たれて、俺は手遅れだと思いながらも、血に濡れた飴を噛んで治癒しようとして──

「……!」

 起き上がったオズワルドは真っ先に撃たれた足を確認した。あれだけ痛んでいた傷が無い。誰かに魔術で治癒されたのか。見れば左腕に取り付けていた機械も失っている。思い出して懐を探し、部屋の中も見回してみたけれど、持ち出してきた大事な銃も近くには無かった。

 ここはヴェスパー王国なのだろうか。交渉は仲間が成功させたのか。リュゼはどうなった。どうして誰もいないんだ。

 すぐに仲間を探して状況を聞かなければと、オズワルドはベッドの横に揃えてあった靴を履いて立ち上がった。しかしそのタイミングで出て行こうとしていた扉がノックされて、見知らぬ老人が姿を見せる。


「ほう。目が覚めたかね。なんとまあ、起きてみれば見事な新緑の瞳じゃのう。その珍しい虹のような髪色といい、間違いはない。お主は独創者なのじゃな」


 老人の話す言葉は問題なく通じているが、少し聞き慣れない抑揚だ。片手に持っている湯気の立つ器からは、馴染みのない香りがしている。

 確信した。ここはもう、ニコラシュ共和国の外だ。

 オズワルドは咄嗟に、攻撃されたらどちらへも動けるよう身を構える。老人に虹のようだと指摘された、顎下で切り揃えられた髪が微かに揺れる。鮮やかなピンクから、晴れた日の空のような淡いブルーを経て、毛先の方は瞳と同じ新緑の色へ。グラデーションのかかる髪は、魔術師について熟知している者には一目で独創者だと知られてしまうものだ。独自の魔術を使える独創者は、一般的な魔術師以上に見た目に珍しい特徴が現れる場合が多い。

「そっちこそ、魔術師なんだろう。何者だ、お前も独創者なのか? ここは何処で、俺の仲間は何処にいるんだ」

 老人は大きな杖を携えている。それも古い書物でしかみかけないような、恐らくトネリコの木で出来ている古風なものだ。紺のローブを纏い、白髪を上品に撫で付けて整え、同じ色の立派な髭を蓄えて、瞳は濃いアメジスト色。魔術師というよりも、昔語りに登場する魔法使いという呼び名が良く似合う出で立ちだった。


 どうやら今、ドアには鍵がかけられていなかった。自身の怪我が治癒されていて拘束もされていないのだから、仲間も心配はいらない状況であろうと予想はつく。だがそれでもこの老人の持つ、歴戦の戦士にも似た油断ならない雰囲気が気にかかる。

 睨むオズワルドを他所に、穏やかな表情を浮かべた老人は器を置いた。テーブルに置かれたそれは、まだ十分に温かそうなスープだ。


「そういっぺんに聞くものではない、若者とはせっかちなものよのう。だが随分と警戒されておるようだから、全てに答えよう。儂の名はメセチナ・ブランシュ。このヴェスパー王国の『秘密情報部』に属しておる独創者じゃ。本来なら仕事は国の外にあるのじゃが、お主らの国ニコラシュ共和国がなかなか戦争をやめてくれないのでな。持ち回りで、かれこれ儂はもう二年程、国境近くの守りを固める指揮を取らされておる」

「メセチナ・ブランシュ……。国境を守る隊の、責任者はお前なのか」

「如何にも。お主達の境遇と目的については、既に友人達から聞いておる。リーダーはオズワルド、今朝方出会った折には意識を失っておった、お主なのだということも。彼らも今は夕食の最中じゃ、お主もまずは栄養を取ると良い」


 メセチナはスープを勧めてくる。しかしオズワルドは席に座らず、メセチナとの距離を保ったまま質問を続ける。

「それで、交渉には応じてくれるのか? 俺の仲間が銃を持っていた筈だ、あれは見たのか。銀で出来た、宝石を嵌めていない状態の銃だ」

「うむ。我が国への手土産じゃという、魔術銃の事じゃな。見たとも。呪われた魔術具の代名詞たる、ニコラシュ共和国の品よの。あれについては、明日にでも城に参って判断を仰ぐつもりじゃ。お主らも連れて行くつもりであるから、飛行船の交渉は女王陛下へ直接申し出るが良い。難儀な亡命じゃが、将来ある若き者達の頼みじゃ。無下にはされまいよ」

「……城へ行く? 女王陛下だって?」


 あの魔術銃はニコラシュ共和国のエリート魔術師が捨て身の覚悟で使う、呪われた必殺の銃だ。ヴェスパー王国側はその仕組みを知りたい筈だと考え、飛行船に乗るのと交換条件で提供しようと持ち出してきた。

 魔術銃の扱いと俺達への判断を、女王陛下へ仰ぐのは分かる。だが何故メセチナ自身が、指揮をする国境から離れてまで城へ直参する必要がある。どうして敵国から来た俺達を、わざわざ護るべき君主の前へ連れて行こうとするんだ。女王陛下と他国の者との面会など、普通はそう簡単に出来るものじゃないだろうに。

「……ふむ。お主は他の者よりも、少しばかり疑り深い性格のようじゃな。では、正直に言っておこう。儂は、尊き友の犠牲を悲しむお主らを不憫に思うておる。情報の見返りなど無くとも、協力してやりたいと考えておる。じゃが、お主らをどう判断するかは、最終的に儂ではなく城の──」

「……尊き犠牲だって。まさか、そんな……」

「お主も、知っておるものと思っていたのじゃが」

「俺の仲間は何処にいるんだ」

「その角を曲がった所にある、広場におる」


 オズワルドはメセチナとの話を途中にして、外へ飛び出した。

 どうやらここは、小さな田舎町らしい。角を曲がると切り株が適当に置かれた小さな広場があり、ユオとその妹のネーベル、シエロ、キアーヴェは、そこへ思い思いに腰掛けて具の挟まれたパンを齧っていた。だが、リュゼはいない。

「オズワルド! 良かった、もう歩いて大丈夫なのか」

 こっちを向いて座っていたユオが、真っ先に立ち上がって手を振ってくる。兄の隣にいたネーベルが、笑顔でこちらへ走ってきた。オズワルドは、しゃがんでその小さな女の子を受け止める。

「良かったあ。元気になったのね、オズワルド……」

「ああ。心配してくれたのか。ありがとうネーベル」

 ネーベルは泣き虫だ。嬉しくても悲しくてもすぐ泣いてしまう。オズワルドは小さな背中をとんとんと軽く叩いて、ちゃんと自分はここにいるぞと落ち着かせてやる。

 数歩近づいてきたキアーヴェが、通りの先の方を指で示して合図してきた。何か話があるのだろう。オズワルドは頷いて、抱き上げたネーベルをユオに預けた。

「どこへ行くの、オズワルド」

「キアーヴェと一緒に、少しここの人達の手伝いをしてくるよ。ネーベルは綺麗な花を探しておいて、後で俺に教えてくれ」

「うん、わかった! オズワルドが元気になったお祝いね!」

 ネーベルがにこりと笑う。下手に散歩だとか言うと付いてきてしまうので、咄嗟に考えた嘘だ。ユオがお見事だとばかりに、目で合図してくる。


 オズワルドは広場を離れ、先に歩き始めていたキアーヴェを追う。日暮れ前の朱色の太陽が落とす影は長く伸びていて、オズワルドは夕日の眩しさと日陰の暗さを交互に感じながらキアーヴェに追い付いた。隣に並ぶと、キアーヴェは懐から取り出した魔術銃を渡してくる。

「ここの責任者との交渉は、俺達でやっておいた。飛行船に乗れるかは女王陛下の采配次第らしいけど、あの人の助力は得られそうだぜ」

「あの、メセチナって奴だろ。少し話を聞いた。交渉の本番は、城へ行ってからになりそうだな」

「なんだ、お前もあの人に会ったのか。そうだ、お前の左腕の機械も俺達が預かってるんだ。戻ったら返すからな」

「ああ」

 二人共、ネーベルに気を遣って張り付かせていた作り笑顔はもう消えている。国境を越えた事すら理解していないあの子の前では、計画の詳細は話せない。ちょっと特別な遠出をしているだけという態度で接して、不安にさせないよう気を配っているのだ。


 ネーベルは少しも悲しんでいなかった。多分、リュゼが一緒に来ていた事もあの子は知らないのだろう。


「何処まで行くんだよ」

「もう少し……この先だ」

 歩いているうちに気付いたが、この町にはネーベルのような子供の姿がない。数人とすれ違ったが、どれも成人した大人ばかりだ。その中の一人にキアーヴェが軽く挨拶をしたので知っているのかと尋ねると、彼もまたメセチナと同じ、国境を守る魔術師の一人なのだと教えられた。

 オズワルドは知らなかったが、この町は国境を守り敵と戦う彼らの拠点なのだ。元々住んでいた住人は、とっくの昔に避難しているらしかった。


 暫くの間キアーヴェに任せて歩みを進めていったオズワルドは、大きな勘違いをしていた事に気付いて言葉を失った。どんな状態でも──もう彼は息をしていないのだと薄々気付いてはいても、リュゼの顔をもう一度見られると思っていたからだ。到着した先は、大きな共同墓地だった。

 墓地をゆっくりと奥の方に進み、真新しい墓標の前まで来ると、キアーヴェの足は止まった。


「……メセチナさんがな。ヴェスパー王国の魔術師と同じ形式でもいいならって、弔ってくれたんだ。あいつ……リュゼは、別に信心深い訳でもなかっただろ。だから、あいつの為に祈ってくれる人がいるなら有難いって、俺達で決めたんだ。お前の意見は、聞かないままになっちまったけど……」

 夕闇に染まっていくリュゼの名が刻まれた墓を、キアーヴェと並んで見詰める。オズワルドは説明された内容に対して何か言わなければと唇を動かしたが、出た声はいつになく細いものになった。

「……いや。いいんだ。どうせ俺達はみんな、神様なんか信じてないじゃないか」

「……ああ。ああそうだよな。神様なんかいるもんか……」


 本当に神様がいたなら、リュゼは死んだりしなかった。キアーヴェは言外にそう伝えてくる。辿り着いたリュゼの墓の前で座り込んだオズワルドも、同じ思いだった。

 リュゼはいい奴だったんだ。あいつとの最後の思い出が、砂糖と血の味しかしない安い飴の味になってしまったのが、許せないくらいに。

 リュゼの墓は他の物と全く同じもので、出身国の違いによる差別などまるでこの国には無いみたいに思えた。同じ国に住んでいながら、民族同士で争っている俺達の国とは全然違う。せっかくそういう場所に辿り着けたのに、リュゼだけが冷たい土の中にいるなんて、全く信じられない。撃たれた俺を助けようとして、リュゼは死んでしまった。俺のせいだ。


「……あのな、オズワルド。俺とリュゼは、お前を助けたかったからそうしただけだ。仲間の誰が撃たれたってそうした。お前だって、そうするだろ?」

「何が、言いたいんだよ」

「だって……お前が、」

 ──苦しそうに、泣くからだ。

 キアーヴェはそう言った。俺は泣いていたのか。でもこれは悲しいんじゃない。悔しくて、リュゼを飛行船へ乗せると約束したのに、それが出来なかった事が悔しくて、自分が許せなかった。

 俺を庇ったから俺のせいだと思ったんじゃない。リュゼは俺の立てた計画が甘かったから死んだんだ。どんなに悔やんでもリュゼの姿はもう戻って来なくて、誰が何と言おうと、リュゼは俺が殺したようなものなんだ。

「あ……! ああ……、ああ……っ!」

「オ……オズワルド。いっつも顔色一つ変えないお前が、そんな風に泣くなよ。誰もお前を責めたりしない。悪いのは戦争だ、つまらない争いに魔術を利用してる奴らなんだ。なあ、お前がそんな風に泣いたら、俺も悲しくなっちまうだろうが。もう散々、泣いたっていうのによお……!」

 慟哭を止められない俺の隣で、キアーヴェも莫迦みたいに泣いた。飾ってやる花も無い代わりに涙の粒が土の上にぽたぽたと模様を作っていって、それを目にしたら馬車の中で血を失っていくリュゼの苦しそうな様子を思い出して、また涙が溢れた。

 こんなに泣いたら、ネーベルと顔を合わせられなくなる。あの子は俺に探した花を教えようと待っているだろうに。


 結局、俺とキアーヴェは日が沈みきるまでその場で過ごした。泣くのをやめて立ち上がったのは、気持ちに折り合いが付けられたからでも何でもない。生きている者には、寒くなってきた夜の墓地は居心地が悪かったからだ。

 この世界には神様なんていない。



 

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