第36話 ほんと、化け物には言葉が通用しないな!②



「あー、遅くなってしまった……」



 桂華はスマートフォンで時間を確認しながら呟く。千歌と占いの館に行った後にカラオケに誘われて遊んでいたこともあってか、すっかりと夜になっていた。駅に着いた頃にはもう二十時を過ぎていて、これは遅くなったなと桂華でも思う。


 遅くまで出かけているとニャルラトホテプに小言を言われることがある。女性の一人歩きは危険なのだというのは理解しているけれど、彼の心配はそこだけではない。「勝手に死なないでくれよ」とニャルラトホテプが面白くない死に方をしてほしくないだけなのだ。


 それはそれで嫌なのだが面倒な絡み方をされるのも嫌なので帰るのが少しばかり憂鬱だった。どうして家に帰るだけでこんなことを考えなければならないのだ。桂華はぶつぶつと文句を言いながら歩く。


 いつものように公園の前を通り抜けようとして、桂華は立ち止まった。ふっと誰かが背後に立った気がしたのだ。慌てて振り返るとそこには綺麗に仕立てられた淡い色の着物を着た女性がいた。



「えっと……巳蛇先生?」



 桂華には見覚えがあった。今日、占いの館で会った占い師の巳蛇がそこにいた。彼女はにこにこと笑みを浮かべている。その笑みに屋敷の部屋から出た時に感じた寒気を思い出す。


 何故、彼女がここにいるのだろうかと桂華は警戒しながら巳蛇に声をかけた。



「ど、どうかしましたか?」

「いやね、やっぱりそのネックレス。預からせてもらえないかしらと思って」



 巳蛇は言う、うちは心配なのよと。そのネックレスから嫌な気を感じるから早いうちに対処するべきだと。


 桂華は話を聞きながら彼女への違和感がどんどん強くなっていくことに気づく。そう、何かがおかしいのだ、巳蛇は。なんだろうか、ゆっくりと這ってくる恐怖に桂華はネックレスを握った。


 その途端だ、巳蛇の姿がぐにゃりと歪んだ。ぼやけていた影がゆっくりと形を作っていく。



「え……」



 桂華の目に映ったのは人間ではなかった。蛇の頭に身体を覆う鱗はぎらりと光って、するりと長い尾が地面を這う。二本の腕には鋭い爪が伸びて、二本の脚で立った化け物がそこにはいた。


 巳蛇の姿が変わったことに驚いて声も出なかった桂華だったが、化け物と遭遇したということは理解できて一歩、下がる。彼女はまた賽投げに勝利してしまっていたので、精神を持っていかれることはなかった。



「化け物……」

「おや、術が効いていないねぇ……やはりそのアーティファクトのせいか」



 この化け物はネックレスがアーティファクトであることに気づいている。桂華はまた一歩、下がりながら「なんですか」と問う。言葉は一応、通じるので対話を試みることにした。



「そのアーティファクトを寄越しな。人間には勿体無いものだ」

「いや、これ渡せなくて……」


「それがどれだけ凄いものなのかお前には分からないだろう。利用できないような奴が持っている必要はない」


「そう言われても手放すなって言われてるんですけど……」



 とは言うけれど、蛇の化け物は「いいから渡すんだよ」としか言わない。全くと言っていいほど、言葉が通じていなかった。化け物には言葉が通じないなと桂華は改めて思う。



「ぐだぐだ言うんじゃない! さっさと寄越せ!」



 痺れを切らした蛇の化け物はそう叫ぶと飛ぶように桂華の前までやってきた。そのあまりの速さに桂華は逃げることもできずに腕を掴まれる。振り払おうとするも力強く握られてそれもできない。


 声を出そうとするのだが思うようにできなくて、動揺していると「無駄だよ」と目を細められてしまう。ふと、周囲が歪んでいるような気がした。もしかしたらここだけ別の空間にいるのかもしれない。


 これはまずいと桂華は焦る、叫んだとしても声は誰にも届かないのだ。そんな桂華をニマニマと見つめながら蛇の化け物は彼女の首を絞めた。ぐっと力が込められて息ができない。



「姿を見られては生かしておけないからね。アーティファクトをさっさと渡してくれればよかったものを」


「あ、あ……」

「そうだ、お前もイグ様を崇拝してみるかい? そうするというのなら生かしてもいいねぇ」



 締め付けられる首に桂華はだんだんと意識が薄れていく、もう駄目かなと思った時だった。


 目の前に立って首を絞めていた蛇の化け物が吹き飛んだ。桂華の首を絞めていた手はぼとりと地面に落ちている。解放された桂華は尻餅をついたような姿勢で咳き込む。


 息を整えようと呼吸をしながら顔を上げれば、見知った背が目に入る。黒いパンツに紺のジャケット姿の彼――ニャルラトホテプだ。桂華が名を呼ぼうとして固まる、彼の眼が冷め切っていた。


 怒っている、この邪神は。途端に桂華の身体は震えた、これから何が起こるのだろうかと。


 腕を切り落とされた蛇の化け物は痛みからか地面でのたうち回っている。そんな化け物にニャルラトホテプはゆっくりと近寄っていく。



「先祖返りの蛇人間で此処まで馬鹿な者がいるとは思わなかったな」



 ニャルラトホテプは低い声でそう言いながら蛇の化け物の頭を思いっきり踏みつけた。ぐえっと鳴く蛇の化け物を踏みつけながらニャルラトホテプは「あれがアーティファクトだと気づく脳があるというのにこのボクの気配を感じられぬか」と怒りを含めながら言う。


 力を込めながら何度も頭を踏みつけるニャルラトホテプに蛇の化け物は「やめてくれ」と命乞いを始めた。彼もまた気づいたのだろう、この邪神に。



「イグの寵愛を受けているだけの役立たずが調子に乗るな」

「ま、待ってくれっ、ど、どうし……」

「黙れ、喋るな」



 低く呻るように言ってニャルラトホテプは蛇の化け物の頭を掴むと地面に叩きつけた。アスファルトが液体で染まっていく、蛇の化け物の頭から流れるそれに桂華はうっと口元を覆った。



「ゆ、ゆるし……」

「何を言っているんだ」



 ニャルラトホテプは冷めた眼を細めると蛇の化け物の目を一つ潰した。ぶちゅっと嫌な音を鳴らして、蛇の化け物は悲鳴を上げる。



「ボクのモノに手を出したのだから許すわけがないだろう」



 そうニャルラトホテプが言うと、蛇の化け物を蹴飛ばしてからぱんぱんっと手を叩いた。ぐにゃりと空間が歪んで真っ暗な穴が開く。蛇の化け物をゴミを捨てるようにその穴に放るとしゅんっと空間は閉じて消えてしまう。


 汚いものを触ったように手を払うとニャルラトホテプは振り返った。何も無かったかのようにいつもの表情を見せて桂華に近寄ってくる。


 桂華は一連の流れに困惑していた。胸を締め付けられるような感覚に上手く息が吸えない。



「桂華」



 ニャルラトホテプは桂華の前までくると視線を合わせるようにしゃがみこむ。じっと見つめる瞳はいつもと変わらない。先ほどの冷めきったものではなかった。



「怖かったみたいだね」

「……な、何したの……」

「捨ててきただけだが?」



 別の世界に捨ててきただけだとニャルラトホテプは言った。あんな状態で捨てられてあの化け物はどうなるのだろうかと桂華は考えようとしてやめる。これ以上は理解しない方が身のためだと脳が警告していた。


 だから、桂華は「そう……」とそれ以上を問うことはしなかった。そんな様子にニャルラトホテプは目を細めてから彼女の頭を撫でた。



「もう大丈夫だ、心配はない」

「……うん、それはあんたがいるからわかってる」

「そうかい。じゃあ、立てるか?」

「……おぶって」



 とてもじゃないが立てる気がしなくて桂華は手を広げる。ニャルラトホテプは小さく笑うと背中を向けた。彼の背におぶさると桂華は顔をうずめる。桂華は怖かった、蛇の化け物よりもこの邪神が怒った姿が。


 不機嫌そうにしている姿は見たけれど怒った姿といういうのは見たことがない。新鮮だったのもあるのだろうが、ひやりと胸が冷えた。



「少し怖がらせ過ぎたか」

「……自覚あるならやめてよ」

「すまない、あまりにも苛立ったものでな」



 桂華をおんぶしながら歩くニャルラトホテプは言った。彼にも怒りというのはあるのだろうというのを間近で体感するとは思わなかった桂華は「心臓がもたない」と吐く。


 あんな光景を見ることになるなど思ってもいなかったのだ。これを何度も見るなどとてもじゃないが御免だと桂華は愚痴った。流石の彼女でも賽投げに勝利したといっても精神を削ってしまう。



「遅れてすまなかった」

「……素直に謝るのがもっと怖い」

「キミ、ほんと失礼だね」



 それでも大分、桂華の心が落ち着いてきているのを察したようでニャルラトホテプは「もうすぐ着くから安心しろ」と優しく言う。いつもと変わらない声に桂華は安心している自分が居て、「あぁ落ちているのだな」と実感してしまった。



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