十.放浪中なる昆虫種

第24話 誕生日だけど期待はしていなかった①


 桂華の誕生日は七月二十四日だ。夏生まれであるけれど暑さは苦手で、虫も苦手である。故にこの季節は彼女にとって最悪な時期なのだ。


 桂華は嫌だというのにニャルラトホテプの背に張り付いていた。それもこれ目の前にいる〝やつ〟のせいだ。



「桂華、邪魔なのだが」

「無理無理ムリリィぃぃ」



 女子に嫌われている虫No. 1の名前も出したくない〝黒くててかっているやつ〟が部屋に出た。俗にいうゴキブリだ。


 ゴキブリというのはどんなに部屋を綺麗にしていても排水溝から登ってきたり、窓から入ってきたりする厄介な虫だ。周囲が草木に覆われているエリアに住んでいた場合には間違いなく入ってくる。


 桂華は「此処、三階なんだけど!」と主張するが、「排水溝をつたってきたのなら無意味だ」とニャルラトホテプに言い切られてしまった。


 桂華はこの虫が一番嫌いだ。その次に蜘蛛が苦手でとにかく気持ち悪いものは駄目だった。猫を飼っていると虫を狩ってくれるよと聞いたことがある。


 しかし、猫は狩った獲物を自慢する傾向があり、咥えて持ってくるとも聞いたのでありがたくはなかった。一瞬だけでも猫が欲しいとか思ったけど、死体を見せてくるのは勘弁願いたい。


 ゴキブリが動くたびに桂華はギャーギャー叫ぶ。ニャルラトホテプは笑うのを堪えながらさっさと虫の駆除に動いた。


 殺虫剤も今は便利で強力なものがあるため、すぐに仕留めることができた。ティッシュに包んでゴミ箱に捨てられた。奴がいなくなったことを確認してから桂華はソファに倒れる。



「無理、しんどい……」

「そこまで苦手か」



 テンションの下がった桂華の様子にニャルラトホテプは笑っていた。虫だぞ、このやろう。あいつの気持ち悪さを舐めるなよと桂華はじとりと彼を見るも、相手は口元を手で覆ってくすくす笑っている。苦手なものを知られて桂華は弱みを掴まれたと項垂れた。



「虫全般が駄目なのか?」

「無理、この時期に大量発生するセミも無理……」



 セミは何をとち狂ったのか人にぶつかってくることもあるし、死んだかと思って通り過ぎようとした瞬間に鳴いて暴れる通称〝セミファイナル〟をやってくるのが嫌いだ。見た目もグロテスクなのでさらに減点される。



「外に出て、街路樹の近くを、歩きたくない……」

「止まっているからな、セミ」



 夏場とか本当に嫌だ、これだから夏は大っ嫌いなのだ。桂華はしくしくと泣き真似をする。


 泣きたいぐらいにはテンションは下がっていた。それだけで余程、嫌いなのだというのは誰でもわかることだった。



「夏生まれとか関係なく、夏は嫌い……」

「桂華は夏に生まれたのか」

「今月、誕生日」



 ニャルラトホテプに「いつだ」と問われて、桂華は「二十四日」と答えた。カレンダーを確認する彼の様子をちらりと窺う。何を考えているのかわからないけれど、なんとなく嫌な予感がした。聞くと面倒なことになりそうなので聞かないことにする。


 ニャルラトホテプに苦手なものというのは特にないらしい。嫌いな神や馬鹿にしている神はいるけれど、虫ぐらいは平気なのだという。



「これよりも気持ち悪い虫をボクは知っているからね」

「あ、やめてよ。話さないで、話すな!」



 桂華の言葉にニャルラトホテプは残念そうに眉を下げた。そんな顔をしても駄目なものは駄目だ。話題にするだけでやってきそうではないか、虫などには会いたくもない。


 桂華の様子を楽しんでいるニャルラトホテプは分かったと頷くけれど信用できなかった。もう嫌だ、こいつと桂華はソファの背もたれに寄りかかった。



「でも、気をつけることだ」

「何に?」

「虫のさざめきを聴いたらその場からすぐに離れなさい」



 桂華は何でと顔を上げてみたら、珍しく真剣な表情をニャルラトホテプはしていた。彼がそんなふうに忠告するのだからきっと厄介なモノなのだ。だから、桂華は「気をつける」と返事をした。


 

          ***


 

 茹だるような暑さに桂華は疲れ切っていた。昼休憩にランチを食べようと千歌に誘われて、紗江莉と共に会社近くのレストランに来ていた。


 店内は冷房も効いていて涼しく快適なのだが、此処を出ると地獄なのを経験しているので出ていきたくない。ランチを食べ終えてデザートを堪能していると千歌が話す。



「桂華さんの彼氏さんって料理上手なんですよね?」

「え? あぁ、上手いよ」



 ニャルラトホテプが作る料理はどれも美味しい。腕に自信があるだけあって料理が上手いのだ。そう答えれば千歌は「いいなー」と目を輝かせた。


 千歌は「毎日彼氏にご飯作ってもらえるとか幸せじゃないか」と言う。彼氏ではない、断じて違う。けれど、桂華は料理に関しては不満がなかった、あの性格と化け物であるというのを除けば。「家事までしてくれるとか最高じゃないですか」と千歌は羨ましげに喋る。



「おまけにイケメンだしね」

「さと姉さんは見たんですよね!」

「そこまで興味持たなくても……」



 桂華の不思議そうな顔に千歌は「気になるじゃないですか!」と指をさした。


 桂華の何処が好きで惹かれたのか、どうしてそこまで甲斐甲斐しく世話を焼けるのか。確かに普通の人間ならば気になることかもしれないなと桂華は思う。


 どうしてそこまでできるのかと質問はしたくなるかもしれない。ただ、ニャルラトホテプは桂華が自分に落ちて狂っていく姿が見たいがためにやっているのだ。


 自分無しでは生きていけないようにして、そうやって堕落させて恐怖し、狂気に染まる姿を眺めて愛でる。桂華はそれを知っているけれど、周囲の人間は知らないわけで。


 話したところで信用してもらえるわけもなく、だから「大した理由はないんじゃない」と誤魔化すしかなかった。



「いいなー、羨ましいなぁ」

「意外と苦労もあるものだよ」

「あー、あんまり甲斐甲斐しく世話されるのもねぇ」



 紗江莉が「何もできなくなりそうで怖いもんね」と言う。本当にその通りなので頷いた。


 ジジジジジーー。


 耳を掠めた虫のさざめきに桂華は周囲を見渡してみると、ウェイターが通りすぎる瞬間に聞こえた。けれど、虫らしいものは付いていない。


 耳に残るさざめきに桂華は首を傾げながらも、千歌に「話聞いてますか!」と言われて意識をそちらに向けた。



 

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