第14話 こいつから逃げる術などないと分かっていても、この現状は辛い


 無事に何事もなく仕事を終えて桂華は最寄り駅へと降りた。時間を確認しようとして不在着信が入っていることに気がつく、それは母親からの着信だった。


 また小言を言われるような気がして、桂華は後でかけ直そうと鞄にスマートフォンを仕舞った。


 ただでさえ、逃げられない男、いや化け物に捕まっているのだ。その相手だけで疲れているのに母の対応などしてられない。


 母親というのは面倒な生き物だなと桂華はげんなりしつつ、マンションまでの道を歩きながら今日の夕飯は何だろうかと考える。ニャルラトホテプの料理は本当に美味しいのでそれは楽しみであった。



「……リ、テ……リ……」



 ふと、公園を過ぎた辺りだった。


 かすかに耳に入った言葉に桂華は振り返る。けれどそこには誰もいなかった。周囲を見渡してみるも人気は感じない。公園も覗いてみたけれど人っ子一人いなかった。



「誰かいるの?」



 声を出してみるけれど返事はない。目を凝らしてみるも、寂れた遊具があるだけでやはり誰もいなかった。聞き耳を立てるが声もせず、ただ仄かに悪臭が鼻を掠めた。


 生ゴミのような、腐った肉のような、鼻にくる悪臭が風に乗って。側溝にヘドロでも溜まっているのかもしれないなと桂華は鼻を摘む。


 それから暫く様子を見ていたが変化はなくて、気のせいだったのかもしれないと桂華はまた歩き始めた。


          * 

 

「ほんっと、なんで美味しいの」



 桂華は夕飯を食べながら項垂れる。今日はラザニアとポトフにトマトと大根のサラダにバケットだった。チーズとミートソースが絶妙に絡み合っていて頬が落ちそうになる。


 もう何なの、この化け物。桂華はもぐもぐと咀嚼しながら思う、これで人間で性格がまともならばと。



「キミ。今、失礼なこと思っただろう」

「本心です」

「キミのそういう素直なところ好きだよ」



 黙れと桂華は返してラザニアを頬張る。あぁ、これが本当に美味しいのだから文句が言えないと桂華は食べ物に罪はないと料理を堪能する。それがまたニャルラトホテプには可笑しかったようだ。


 笑われている自覚はあるけれどそんなものは気にしない、美味しい料理を残すわけにはいかないのだ。もぐもぐとラザニアを食べていればスマートフォンが鳴った。何だと見てみると久しい名前だった。


 幼馴染の翔太からだ。翔太とは家が近所だったこともあり、幼い頃からの付き合いになる。いつぶりの連絡だろうか、久しぶりだなと桂華は電話に出た。



「何、どうしたの翔太」



 桂華が「久しぶりじゃん」笑えば、翔太は「久しぶりだな!」と元気良さそうに返してきた。彼は家業を継いで頑張っているらしい。農家というのは大変だと聞くけれど、何とかやっていけていると。


 それはよかったと桂華が「よくやってるね」と言うと、翔太は「いやさ」と困ったような声を出す。



「何、どうしたの?」

『桂華、聞いてないか? お前んとこの母さん、お見合い相手探してるの』


「はぁっ!」



 桂華が声を上げれば、翔太は「やっぱり知らなかったか」と呟く。知らないどころの話ではない、母はお節介焼きではあったけれど勝手なことはしないと思っていたので油断していた。


 どうやら翔太のところにも「桂華と仲良いでしょ、もらってくれない?」と頼みにきたらしい。なんてことをしてくれたのだ、お母さん。



「それ、断ったよね!」

『断ったよ。オレ恋人いるし』

「お前、恋人いたんかい!」



 そう突っ込めば、「お前より早く結婚してやるし」と笑われた。どこで張り合っているのだ、それは。桂華が「うるさい!」と返せば、げらげらと笑われる。



『なんか、お見合い写真送ったらしいよ』

「はぁぁっ!」



 桂華は頭を抱えた。勝手に話を進めないでくれ、頼む。桂華の唸り声に翔太は同情したのか「オレからも言っといてあげるよ」と慰められた。「断るなら早い方がいいぞ」と言われて電話は切れる。桂華はスマートフォンを投げそうになったけれど、ぐっと堪えた。



「ねぇ、私宛に手紙来てない?」

「速達で来ていた」



 ニャルラトホテプは大きめの封筒を桂華に差し出した。恐る恐る開けるとそこにはお見合い写真が入っていた。手紙には『素敵な男性だから一度会ってみなさい』と母の字で書かれている。


 ぺらりとめくってみるとスーツ姿の男性の写真だった。健康そうな顔立ちで清潔感のある印象を受ける。同封されていた別の便箋に外資系の仕事をしているらしいことが紹介されていた。桂華はそれらを眺めて顔を覆った。



「余計なお世話すぎる、お母さん……」

「本当にその通りだな」



 低い声に桂華は覆っていた手を外す。眉間に皺を寄せてニャルラトホテプはお見合い写真を睨んでいた。瞬時に理解する、「あ、ダメなやつだ」と。すかさずお見合い写真を封筒に戻す、念波でも送られたら相手が発狂しかねない。


 まだ不機嫌そうな彼をそっとしておいて桂華は母に電話をした。数コールで出た母は「どうしたのー」とノリノリである。こいつ、分かってやっているなと桂華はすっと息を吸ってから言った。



「余計なことしないで、お母さん!」



 怒鳴るように言えば、母は「どうしてよ」と悲しげに声のトーンを下げた。どうしたもこうしてもない、余計なお世話なのだ。


 誰と結婚しようと自身の自由である。頼んでもいないのに勝手なことをしないでほしい。私が誰とどう過ごそうか決めるのだから、母は介入しないでほしい。そう伝えると母は涙声になりながら酷いわと言った。



『お母さんはあなたが心配で……』


「だから、それが余計なお世話なんだってば! 誰と結婚しようと、一緒に居ようと、それを決めるのは私なの! お母さんは勝手なことしないで! お見合いも断ります!」


『でも……』

「でもじゃない! お断りです!」



 そうはっきりと言い切ってから桂華は母の話を聞かずに電話を切った。全くどうして母はこうもお節介なのか。お見合い相手には申し訳ないけれどお断りさせていだたく、受ければ相手が発狂しかねないのだ。


 ちらりと見遣ればニャルラトホテプが不機嫌そうにしていた。あぁ、余計なことをしてくれたなと桂華は考える、どうにかできないか。機嫌をとればいいのだろうか、そもそもどう機嫌とればいいのだ。ぐるぐると考えて桂華はとりあえず、ご飯を食べることにした。



「そんな、機嫌悪くしなくてもよくない? 私は逃げれないわけだし」



 と、言ってみる。ニャルラトホテプは頬杖をついて桂華をじっと見つめていた。やめろ、その冷めた瞳は怖いのだ。だって逃げられないのは本当じゃないか。桂華はそう思うのだが彼は何を考えているのか分からない。


 頭が痛くなる。どうして私がこんな目に遭わねばならぬのだ、被害者は私ではないのか。桂華ははぁと溜息をついた。



「断ったじゃん」

「そうだな」

「もーさー、何。何すれば機嫌なおしてくれるの?」

「キミの恐怖する姿だろうか?」

「今、めっちゃ怖いけど?」



 桂華にそう言われて、「それは感じているけれど」と物足りなさげに返された。何が足りないというのだ、この男は。桂華が面倒げにしてみせれば、ニャルラトホテプは少し考える素振りを見せて言った。



「あとはそうだな…。キミが抱き枕になってくれるなら」

「なんでそうなる」

「人間らしくないかい?」



 人を愛する行為の中に触れ合うというのが存在する。それは手を繋いだり、くっ付いたり、抱き合ったりとさまざまだ。ニャルラトホテプは「愛情表現の一つなのだから、やってみたいだろう」と言う。


 この化け物は一応は愛情を持っている、歪んでいるものではあるのだが。人間らしいことでそれを表したいのかもしれない。桂華はそう解釈するも、微妙な表情を見せた。


 恐怖がないわけではないのだが、抱き枕にされるだけで機嫌が良くなるのならば安いとも思ってしまう。暫く考えてから桂華は折れた。



「分かった。でも、お見合い相手に選ばれた男性はある意味被害者だから、変なことしないようにね?」



 洒落にならないので本当にやめていただきたい。精神病棟に運ばれましたなどと聞きたくはないのだ。そんな桂華の表情を見てかニャルラトホテプは不敵に笑む。


 それがまた愉快そうだったので思わず眉を寄せてしまった。



「なかなかに良い表情だ」

「そうですか、はい」

「多少、腹は立っているがまぁいいだろう」



 ニャルラトホテプはいつもの表情へと戻った。桂華の困った、少し恐れる表情に気を良くしたのかもしれない。こいつは面倒くさい化け物だと桂華は思いながらラザニアを口に頬張った。



「抱き枕にできるというのは良い」

「本当にやるのね」

「もちろん」



 にこっと微笑まれて、桂華は了承しなければよかったかもしれないと少しだけ後悔した。

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