第2話 こうして平穏な日常はなくなった②



 目が覚めるとそこは見知った天井だった。自身の寝室であるのを桂華は確認するとゆっくりと起き上がる。着古したジャージ姿でぼさぼさの栗色の長い髪を軽く整える。


 暫くぼーっとしていた。夢だったような、そうでないようなよく分からない感覚に桂華は頭が整理できていなかった。ぐらぐらとする感覚に頭を摩ってみるが、あまり効果はなかったので仕方なくベッドから出ることにした。


 服や雑貨で散らかった床をなんでもないように歩いて寝室のドアを開ける。まだ眠そうな眼でリビングを見て桂華は固まった。


 脱ぎ散らかしていたはずの服が無く、雑誌や新聞が無造作に床に落ちていたはずなのに綺麗に整頓されてテーブルに置いてある。リビングが掃除されたかのように綺麗だった。



「起きたかい?」



 その声に桂華は勢いよく顔を向けた。ダイニングキッチンからひょっこりと顔を出したのは、端正な顔立ちをした男だった。


 彼を自身は知っている。長身で襟足の長い黒髪に浅褐色の肌、服は黒いタートルネックにジーパン姿だった。冷めた青い瞳がよく映える容貌、この男は夢で見た覚えがある。


(あれ、確か化け物じゃなかったっけ)


 そこまで思い出して——痛む頭を桂華は摩った。男は爽やかな笑みを浮かべている。


(うん、化け物だったな)


 思い出した、あの悪魔的な姿を。そう思い出したというのに桂華はまたしても精神値の賽投げに勝利してしまった。そんな様子に男が笑う。



「キミ、ほんと幸運だね」

「いや、どうしているんですか」

「気に入ったからだけど?」



 男は「キミのその性格と幸運と強さと無知さを気に入ったからだけど」と言う。だからといって男がこの家にいる理由になるかと問われると、ならないというのが答えなのだが。それを伝えたところで聞いてくれそうにはないように見えた。



「困るんですけど」

「困らないだろう。と、いうかキミだらしないね?」



 部屋の散らかりようと洗濯物の溜まり具合はと指摘されて、うぐっと言葉を詰まらせた。桂華は部屋を多少、散らかしていた。


 多少だ、ゴミ溜めにはしていない。決して、そう決して汚部屋ではない、はずだ。そう桂華は思っているのだが、そんな考えを察してか男は「散らかっていることには変わりないよ」とばっさり切り捨てた。



「ボクが片付けておいたけど。洗濯物は今洗ってる途中」

「ちょ、ちょっと何を勝手なことを!」


「現在二十三歳、今年で二十四歳の会社事務員で未婚彼氏無し。掃除が苦手で面倒くさがりな性格……キミ、干物女子ってやつかい?」


「うっさいわ! 悪いか!」



 何処から知った情報かは分からないけれど本当のことを指摘されて桂華は恥ずかしさよりも苛立ちの方が勝った。


 出かけるのも面倒だし、友達付き合いも面倒、会社の飲み会も断りがち、部屋でごろごろしているだけ。化粧もお洒落も仕事と出かける時だけでいい。家にいてまで気にしたくないし、したくもない。干物女子と言われても否定はできなかった。



「いいから、さっさと出ていってください!」

「えー、嫌だよ。てか、キミにはどうしようもできないよ」



 桂華の反応に「キミはボクの正体を知っている。人間がもがいてもそんなものボクには通用しない」と男は話す。



「キミに逃げ場はないんだよ」



 例え、警察に連絡しようとも効果はないし、彼らが何事もなかったかのように帰らせることだってできる。人間にはどうにもできないのだと男は冷たく現実を突きつけた。


 淡々と語る男に桂華は理解した。この化け物に目をつけられてしまった以上は逃げ場がないことに。



「この人間の姿でいるのだからいいだろう? それに日本性も持っているよ」

「化け物なのに!」

「キミ、失礼だね」



 男は「やり方は企業秘密だけど簡単なことだよ」と笑う。どうせ、酷いやり方なのだろうことは分かりきっているので知りたいと桂華は思わなかった。ただ、化け物にしては手間のかかることをしているのだなと別の意味で感心した。


 彼は「死ぬまで一緒にいてあげるから安心するといいよ」と言う。怖い、それはそれで怖い。逃げ場がないので余計に怖い。そもそも、そんなことを桂華は望んではいないのだ。



「化け物……」


「そう呼ぶのやめてくれるかい? ニャルラトホテプっていう立派な名前があるのだけれど。あぁ、擬態している時の名前は東堂司だ」


「うっわ、地味にかっこいい名前だし」

「キミ、本当に失礼だね。まぁ、いいだろう。キミには逃げ場はないことだし」



 男に「ボクからは逃げられないからね」と念を押されて桂華は諦めた。化け物に何を言っても無駄なのだ。深い、それは深い溜息をついて諦めたようにダイニングテーブルに座る。



「で、何勝手にやってたの」

「朝食を作っていた」



 食べるだろうとニャルラトホテプは皿を並べる。スクランブルエッグに焼かれたウィンナー、サラダにオニオンスープ、トースト。それらを見て桂華は眉を寄せる。朝食メニューにはぴったりではある、あるのだけれど。



「どうやって材料揃えたの」



 自身の冷蔵庫には卵と食パンはあったけれど、それ以外はなかったはずだ。そんな疑問にニャルラトホテプは答える。



「スーパーで買ったが?」

「お金は?」

「何度も言うけれど、ボクは擬態しているからね、この日本で」



 職ぐらいついていると言われて、桂華はこの化け物はなんなのだと意味が分からなかった。だって、化け物が人間の振りをして平然と暮らしているのだから理解ができない。


 どうして擬態してるのだと言いたげな表情を見せるも彼は教えてはくれなかった。ただ不敵に笑うだけなのだ。



「どこで働いてるの」

「駅前の喫茶店」

「え、ちっか」



 そこは桂華も何度か行ったことのある喫茶店だった。そういえば顔の良い男が店主をしていた気がする。桂華が記憶を辿っていると、ニャルラトホテプは「思い出したかい?」と笑む。



「そこで面白そうな人間探して怪異に巻き込んでたからね」

「酷い」



 ニャルラトホテプは「なかなか面白い人間って見つからなかったのだけれど、キミは大当たりだった」と嬉しそうに言う。どうやら喫茶店に入った時に目をつけられたようだ。こっちからしたら被害者なので桂華は全くもって嬉しくなかった。


 とりあえず、出された料理には手を伸ばした。食べ物に罪はないのでもぐもぐと咀嚼していると、ニャルラトホテプが隣に座ってきた。彼はコーヒーを渡してきたのでそれを受け取る。



「うーん、キミ。可愛らしいのだからもう少し身だしなみ整えなよ」



 そう言ってニャルラトホテプは桂華の髪を梳いた。それそれは爽やかに微笑みながら。顔が良い、化け物だけど顔が良かった。だが、桂華は渋面になった。



「その顔で何人の女を地の底に落としたの」

「はっはっは、数えてないなぁ」



 ニャルラトホテプが「キミはなかなかに強いね」と大袈裟に笑って見せる。泣かせたではなく、地に落としたと言うあたり怪異に巻き込んだ意味も含むのだろうと彼は捉えたらしい。


 桂華もそのつもりだったので数えてないという回答に、だろうなと納得した。こういう奴は泣かせた人間のことなど覚えていないのだ。



「キミのことは覚えていてあげるから安心してくれ」

「安心したくないのでどっかいってください」

「嫌だね」



 即答。分かっていたけれど逃げられるわけもなくて、本日何度目かの溜息を桂華は吐いた。


 どうしてこんな目に遭ったのだ。勝手に目をつけられて、怖いめに遭わされて、起きれたと思ったらその原因が「気に入ったから」という理由で一緒に暮らすというのだ。理不尽にも程がある。


 けれど、自身にはどうしようもできなかった。この化け物を倒す力も、追い払う能力も持ち合わせていない。無駄なことをして折角、生き残ったこの幸運を逃したくはないので、桂華は受け入れるしかなかった。


 こうして、桂華は化け物、ニャルラトホテプと同居することになった。

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