第4想定 第3話

 とうとうホールが開場され、俺たちはロビーへと足を踏み入れた。

 入場まで舞香に小言を言われてうんざりしていたが、ロビーに足を踏み入れると同時にその感情は消え去った。舞香も小言を言わなくなっていた。

 他の観客がロビーを左右に分かれてメインホールへと移動するなか、俺は舞香を連れて廊下脇の階段を登った。

 その先にあるのは2階席だ。

 1階席では両側のドアから中学生たちが入ってきて、それぞれが好みの座席を確保するべく動き回っている。

「どうだ、見晴らしがいいだろう」

「宗太郎と煙は高いところが好きっていうもんね」

「そうそう俺は高いところが好きなんだ」

 じゃないとヘリコプターからのラペリング降下とか輸送機からのパラシュート降下なんてやっていられない。

 俺たちは2階席で最も高い最後列の中央に陣取った。

 開演まで15分も時間がある。

 しかしこの時間は何もしない時間ではない。定期演奏会という非日常を堪能するためにリラックスする時間なのだ。

 まずはこのホール内の冷たく張り詰めた空気を堪能する。

 静寂に包まれていたホールに観客が入ってきて徐々に大きくなっていく物音に耳を傾ける。

 そして入り口で貰ったパンフレットに目を通す。

 表紙をめくった最初のページにはコンクールで演奏した楽曲が創部から現在まで一覧で記載されている。

 真っ先に目に入ったのは自分たちの世代の記録だ。

 そこには懐かしい曲名が並んでいる。


 【2007年】

   課題曲:コンサートマーチ「光と風の通り道」

   自由曲:管楽器と打楽器のためのセレブレーション

 【2008年】

   課題曲:ブライアンの休日

   自由曲:喜びの音楽を奏でて!

 【2009年】

   課題曲:コミカル☆パレード

   自由曲:アパラチアン序曲


「俺はコンクールでこれを吹いたんだぞ」

「へぇ~、宗太郎のところってブライアンだったんだ」

「舞香のところは?」

「晴天の風」

「あの曲か」

 高校2年生が作曲したということで話題になった課題曲だ。

 しかもあの曲には裏話がある。

その作曲者は2007年度課題曲の公募に応募するつもりで行進曲を作曲していたんだけど完成したのが締め切りの翌日だった。当時の吹奏楽コンクールの課題曲は2年ごとに行進曲を使用することになっていたから作品を応募できるのは2年後だと作曲者はがっかりしていた。しかし2008年からコンクールのルールが変わって課題曲のうち2曲で行進曲を採用することになった。作曲者は気を取り直して作品の修正に取り掛かかり、2008年課題曲の公募に応募。すると一次審査を突破してそのまま課題曲として採用されたという物語があるのだ。

 まったく、人生ってなにが起こるか分からないものだよな。

 俺だってこの年齢で特殊部隊に所属するなんて思わなかったしな。

 舞香がパンフレットを開いた。

 さて、俺も続きを読むとしよう。

「コロッケ、コロッケ、コロッケ~♪」

 隣で舞香は楽しそうに歌っていた。

 そのメロディは中学最後の課題曲、『コミカル☆パレード』のフレーズだった。作曲者がそう意図したのかどうかは知らないけども、合奏指導をしていた顧問はそのように歌って見せていた。

 そして県北の中学高校の吹奏楽部員が集められて実施されたクリニックでも大御所の先生がそう歌っていた。

 ……そう。客席にびっしりと詰められた宮崎県北部の吹奏楽関係者の前で俺が晒し上げられたあのクリニックでの出来事だ。

 舞香の中学校の顧問がどのような指導をしたのかは知らないけども、きっと中学時代の舞香は晒上げられる俺を見ているはずだ。その時は俺の彼女になるだなんて思ってもいなかっただろうけどな。

 俺は酸っぱい思い出を味わいながらページをめくる。

 そこには顧問からのメッセージが載っていた。

 俺がお世話になった顧問でもある。そういえば高砂さんが顧問はまだ転勤しそうにないって言っていたな。演奏会が終わったら顔ぐらいは出しに行こう。

 さらにページをめくる。

 そこからは各パートの紹介文が並んでいた。

 フルートパート。

 クラリネットパート。

 サックスパート。

 一緒に乗せられている写真には懐かしい人物たちが映っていた。俺はろくに話したことすらなかったがそれでも覚えている。入部したばかりでヒヨッ子だった彼女たちが今ではパートを率いる立派な先輩になっている。

 さらにページを読み進める。

 金管楽器群の最後に懐かしい名前が載っていた。

 低音パート。

 添えられた写真にはチューバを抱えた部員が2人。

 片方が俺の直属の後輩だった高砂さんだ。隣はそのまた後輩だろう。

 高砂さんが書いたであろう紹介文には2人の先輩の名前が記されていた。

 一人は俺。

 そしてユーフォニアムを担当していた同級生。

 高砂は俺たちに感謝していると紹介文の中に綴っていた。

 だけど俺はその気持ちを受け取ることができなかった。


 喧噪に包まれたホールの中にブザーの音が響き渡る。

 時刻は開演5分前。

 それが鳴りやむとアナウンサーが会場内での注意事項を読み上げる。

 聞きなれた文句を聞き流していると、舞香がそっと耳打ちしてきた。

 なにも2階席には他に観客がいないのだからもっと堂々と話してもいいのに。

「宗太郎、ここの緞帳どんちょうっておしゃれだね」

「そうだろ?」

 緞帳どんちょう

 ステージに立つ人間でないと使わない単語だ。

 簡単に言うと客席からステージが見えないようにするカーテンのことだ。

 ここ日向市民文化交流センターの緞帳には日が昇る太平洋に向かって航行する古代の船が色鮮やかに描かれている。

 日向市には美々津という地域があるが、そこは古くから港町として栄え、現在でも江戸時代の街並みが現存している。

 それとは別に『海軍発祥の地』という異名を持つ地域でもある。

 またの名を『神武天皇御船出の地』。

 初代天皇との説がある神武天皇が国を治めるために美々津の港から船で旅立ったという逸話が残されている。さらには神武天皇が腰を掛けて体を休めていたと言われている岩が美々津港近くの神社に祀られている。

 ここの緞帳はその『神武天皇の御船出』を描いたものなのだ。

 俺は軽くその逸話を舞香に教えてやった。

 日向市民ならば誰でも知っていることだけども舞香は延岡市民だ。彼女がこの逸話を知らなくても何もおかしくはない。

 軽く地元のことを自慢しているとあたりが暗くなった。

 そして再びブザーが鳴り響く。

 いよいよ開演だ。

 ブザーが鳴り終わって数秒後。

 客席の緊張が限界に達する。

 パーンパン、パッパパーン。

 トランペットの鋭いファンファーレが鳴り終わると同時に緞帳が上がり始める。

 赤岩中学校の校歌だ。

 俺の指は自然と動いていた。

 何度も演奏した曲だ。

 体が覚えている。

 ……いや。

 俺はもうチューバは吹かないと決めている。

 これでは体が楽器を求めているようじゃないか。

 勝手に動く右手を俺は固く握りしめ舞台を眺める。

 もちろん視線の先にあるのはチューバだった。俺が育て上げた高砂さんが立派に後輩を率いている雄姿を網膜へと焼き付けていた。

 現役部員たちは校歌の1番のみを奏でると演奏を終えた。

 そして指揮を振っていた顧問が客席へと振り返る。

 ひと呼吸置いて再び開場にアナウンスが流れる。

『本日はお忙しいなか、私たち日向市立赤岩中学校吹奏楽部の定期演奏会にお越しいただき、誠にありがとうございます』

 ホール全体に響き渡るアナウンスは聞き覚えのある声だった。

 俺のひとつ下の後輩のものだ。俺たちの世代が現役を引退した後に部長職で吹奏楽部を牽引した人物だ。彼女が実際に部活を率いているところを見たことはなかったが、現役引退から中学卒業までの数カ月の間に噂程度に聞いていた。それに受付で貰ったパンフレットの歴代部長のリストにも名前が記載されていた。

 後輩によるアナウンスは吹奏楽部の歴史、そして今年1年間の実績を紹介していく。そのほとんどが現役時代から何度も聞いている内容だったが、出演者ではなく観客として聴くのは新鮮だった。

 ひと通りの紹介が終わり、とうとう演奏曲が紹介される。

『それでは演奏いたします。吹奏楽コンクール課題曲『南風のマーチ』。自由曲、スウェアリンジェン作曲『インヴィクタ序曲』。それではお聴きください』

 そのアナウンスが終わると指揮者は客席に向かって一礼。そして指揮者台に上がって演奏者たちを見回した。

 俺はそのアナウンスに懐かしさを覚えていた。

 あの顧問、本当にスウェアリンジェンが好きだよな。俺の最後のコンクールだけはバーンズだったが、それ以外はずっとスウェアリンジェン作曲のものを自由曲に選択しているらしい。

 指揮者がタクトを掲げた。

 それが鋭く揺れたかと思うとトランペットの尖ったファンファーレが鳴り響く。

 パーン、パパパーン、パパパン。

 俺は中学を卒業してから吹奏楽の世界を離れた。

 しかしこのフレーズだけはなぜか耳に残っている。

 今年の吹奏楽コンクール課題曲のひとつ。

 南風のマーチ。

 チューバとホルンが伴奏を刻み、その上にクラリネットが旋律を奏でていく。

 まるで入学したばかりの新入生が明るい未来に胸を膨らませるかのような。この先にどのような試練が待ち受けていたとしても自分なら乗り越えられるという自信を持っている。そのような明るさに満ち溢れた行進曲だ。

 吹奏楽を離れた人間ならばその年の課題曲なんて微塵も興味がないだろう。

 俺だって去年の課題曲なんてタイトルすら知らない。

 しかしこの曲は不思議と記憶に刻まれている。

 SSTの特別休暇を使って鑑賞に行った舞香の県大会。

 そして文化祭での吹奏楽部の演奏。

 単純に2回も演奏を聞いたからというのもあるかもしれないが、毎日の死にかけるような訓練の合間に県大会を聴きにいったことが大きいのだろう。

 演奏は進み、低音パートが輝くシーンがやってきた。

 課題曲のマーチには必ず設けられている低音楽器による旋律。

 ステージの上では後輩の高砂が全身全霊でチューバを吹き鳴らしている。彼女が入部したばかりでまともに音をだせなかったヒヨコ時代からは考えられないほど立派になっている。これが親心というものだろうか。俺は彼女の姿に心を動かされていた。

 俺の心を揺さぶったのは高砂だけじゃない。

 南風のマーチは中間部に突入。

 曲想ががらりと変わり、ゆったりとした中間部。

 しかし俺は寂しさを覚えていた。

 俺が育てていたと思っていた高砂は立派になるどころか俺を超えていった。彼女は俺の高校を受験すると言っていた。彼女の学力ならば問題なく入学できるだろうけども、高校生となった高砂とは話す機会はないだろう。

 別に死別するわけではない。

 彼女がどこかで元気にしていればそれで充分だ。

 だけども寂しいと感じないわけではない。

 南風のマーチは終わりに向けて最後のマーチ部分に突入した。

 そこには明るい未来に胸を膨らませるような雰囲気は残っていなかった。

 これはなんて不思議な行進曲なのだろう。

 マーチは前に向いて歩いていくための元気な音楽だ。しかしこのマーチはまるで後ろ髪を引かれるような悲しさがあふれてくる。

 この作曲者は俺の心を覗いているのだろうか。最初で最後の後輩である高砂と会えるのは今日の定期演奏会が最後だ。彼女は吹奏楽人生で最も長い時間を共にした唯一の後輩だ。この演奏会が終わったら高砂は高砂の人生を、俺は俺の人生を歩いて行かないといけない。その人生は二度と交わることはない。それでも俺たちは自分の人生を歩き続けなければならない。ステージの上で高砂たちが奏でている南風のマーチは、高砂との別れを惜しむ俺の心情を描いているかのようだった。

 いつの間にか俺は自然にまぶたを閉じていた。

 懐かしい現役時代を思い返すかのように。

 溢れてきた涙が零れ落ちないように。


 瞳を閉じて哀愁漂う『南風のマーチ』に浸っていると、いつの間にか次の『インヴィクタ序曲』の演奏も終わっていた。

 作曲者のスウェアリンジェンさん、ごめんね?

 別に俺たちの作者が手を抜いたわけじゃないからね?

 ステージでは指揮者が客席に向き直っていた。

 そして司会者が次の楽曲と吹奏楽部の歴史を紹介していた。

「続きまして『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』をお送りいたします。日向市立赤岩中学校吹奏楽部は1998年に行われた第46回全日本吹奏楽コンクールに出場し、初出場ながら金賞を獲得することができました」

 スピーカーからアナウンスが流れている中、ステージでは舞台袖から楽器を持った演奏者たちが入ってきた。彼女たちは全員が異なった制服を着ている。吹奏楽部の卒業生たちだ。彼女たちはそれぞれの持ち場に着くと、隣の現役部員たちと視線を交わして椅子に座る。

 ホルンを抱いて雛壇に登る栗野の姿を見つけた。

 司会者はまだアナウンスを続けている。

「『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』は全日本吹奏楽コンクール初出場を記念して、日向市出身の作曲家、三浦健太郎に委託して作曲されました。定期演奏会では毎年必ず演奏しており、先輩から受け継がれてきた楽曲です。今年も先輩との繋がりに感謝するとともに、この伝統を後輩へと繋いでいきます」

 気が付くと卒業生たちの入場は終わり、演奏の準備が整っていた。

 その準備完了を確認するかのように司会者は沈黙すると、再びマイクにアナウンスを吹き込んだ。

 俺が現役時代に本番や練習で何度も聞いたセリフだ。

「卒業した先輩たちとともに演奏します。三浦健太郎作曲、『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』」

 そのアナウンスが終わると指揮者は客席に一礼。

 そして指揮者台に上がって部員たちを見回した。

 指揮者の体がゆったりと揺れた。

 悲しくハスキーな旋律を奏でるアルトサックス。

 力強く唸るバリトンサックス。

 フルートやクラリネットが深海を思わせるかのような重厚な和音を奏でる。

 2拍だけの短いソロをテナーサックスが奏で、予拍から金管楽器が一斉に入ってきた。それは金管楽器とは思えないピッツィカートかのような優しい音色だ。

 楽器が増えたことによってますます期待感が高まってくる。それはこの先に明るい未来が待っていることを予言しているかのようだ。

 しかし楽曲はその期待を見事に裏切った。晴天の空に暗雲が立ちこめて、空はあっという間に闇に染まる。

 中低音楽器の咆哮。

 雷を思わせるティンパニーの轟音。

 しかし雷雨に包まれた空もポンと跳ねた金管楽器によって振り払われた。

 楽曲はとうとう主題へと突入。

 クラリネットを筆頭とした木管群が主旋律を奏でる。それが終わりに差し掛かるとトランペットが主題を引き継いで鋭い音色を奏でる。

 そして出番を待ちきれなかったかのように中低音楽器が入ってきた。息の揃った重厚な伴奏はまるでオーケストラの弦楽器たちの一糸乱れぬボゥイングを連想させる。

 主題を奏でる楽器が変わりながら演奏は進んでいく。

 この先の展開を知っている俺は心の底からゾクゾクと何かがこみ上げてくる。

 それはステージ上の高砂も同じだった。

 高砂が奏でるチューバが獣のように唸る。

 57小節目。

 練習番号8番。

 中低音楽器の獣たちはとうとう獲物に飛び掛かった。

 二分音符でA、B♭、D、Aと勇ましく跳躍する。

 そして切なく舞い上がる。

 俺の指は無意識のうちにチューバの運指の通りに動いていた。

 スポットライトを中低音楽器が浴びながら楽曲は進行していく。

 まるで雷神がハンマーを振り下ろしているかのような轟音だ。

 そして再び楽器が跳ねた。

 曲想が変わり再び木管楽器が主題を繊細に奏でる。

 チューバの出番がやってくるまで時間はかからなかった。

 90小節目。

 練習番号12番。

 D、E♭、G、Dと再び跳躍。

 当然のように俺の指は無意識のうちに動いていた。

 管楽器の轟音が轟いている。

 その中でスンスンと鼻をすすりながら嗚咽する音が聞こえた。

 きっと誰かが演奏に感動しているのだろう。

 定期演奏会には学校の生徒だけではなく、当然部員の親も聴きに来ているのだ。きっと愛しい子供のステージに感動し涙を流しているのだろう。

 まぁ俺のラストステージに両親は来なかったけどな。

 父親は日向灘をパトロール。

 母親は太平洋で実弾射撃訓練。

 唯一演奏を聴きに来てくれたのは姉ちゃんだけだった。

 俺にとって家に両親がいないのは普通の事だったから何とも思わなかった。しかしこうやって第三者視点で見ると、家族って良いものだよなと思う。

 ふと隣の舞香に視線を送った。

 この先何があるか分からないけども、破局しなければこのまま彼女と家族になるわけだからな。

「!」

 俺の隣で舞香は嗚咽していた。

 てっきりどこかの親が子供の成長に感動しているかと思ったら、まさかの舞香だった。

 こんな状況は初めてだ。

 どうすれば良いのか戸惑いながら、俺は舞香の頭部を抱き寄せた。

 ステージでは演奏が進んでいた。

 主題の掛け合いは終わり、終演に向けてトランペットのファンファーレが響き渡る。

 曲想ががらりと変わった。

 飛び跳ねる打楽器。

 腕を振り回す指揮者。

 金管楽器が唸り、木管楽器は躍動する。

 ティンパニーが轟き、再びトランペットのファンファーレ。

 それが終わると指揮者の激しい動きに合わせて全楽器の最後の咆哮。激しい響きで『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』は終わりを遂げた。

 ホール全体に重厚な残響が残る。

 その残響が収まると盛大な拍手が客席から巻き起こる。

 指揮者が演奏者全員を立たせた。

『以上をもちまして、定期演奏会の第1部を終了いたします』

 アナウンスが終わり、神武天皇の御船出を描いた緞帳が降りてきた。

 緞帳が降りきった後も続いていた拍手は収まり、第2部を心待ちにする観客たちのざわめきが戻ってきた。ところどころで観客が席を立ち、休憩するためにロビーやトイレへと出て行った。

 しかし俺はどこかに行くわけにはいかなかった。

 嗚咽する舞香を抱き寄せ、彼女の背中を摩り続けた。

「舞香、どうしたんだ?」

「……ねぇ、宗太郎……あのね?」

「なんだ?」

「……ううん、やっぱりいい」

「そうか」

 舞香が何も言いたくないのであれば無理に話を聞く必要もない。

 俺がやるべき事はただ彼女に寄り添っていることだけだ。

 いや、俺にできる事はそれしかない。

 それにしてもこの座席を選んでいて良かった。

 見晴らしが良いからという理由でここを選んだが、周囲には他の観客がいない。舞香の泣き顔を見ず知らずの誰かに見られずに済んだ。

 ぐすんぐすん、と声を押し込めるかのように嗚咽する舞香の背中を俺はただ摩り続けた。

 そこはただ2人だけの世界だった。

 しかし時間が経過するととんでもない邪魔者がやってきた。

「やっぱりここにいた」

「……なんだよ」

 ぶっきらぼうに声を掛けてきたのは栗野だった。

 彼女の唇は円形に赤くなっている。

 ホルンのマウスピースの後だ。

「バカと煙は高いところが好きっていうから」

「それじゃあ俺がバカみたいじゃないか」

「バカだから言っているのよ」

「先にバカって言ったやつのほうがバカなんだよ。バ~カ」

「赤点を取って野球部の顧問に説教されていたやつに言われても悔しくないわね」

 ちくしょう。

 アレを見ていたのかよ。

「というか宗太郎、こんなところでも舞香先輩とイチャついて……って舞香先輩!?」

 ツンとお高くとまっていた栗野は舞香の様子に気づいて取り乱しはじめた。

「舞香先輩、どうしたんですか!?」

「……栗ちゃん」

「宗太郎に何かされたんですか!?」

 おい栗野。

 俺が何か変なことをするような人間に見えるのか?

「……あのね、宗太郎がね」

「ですよね! 宗太郎が変なことをしたんですよね!」

「違う! 俺は何もやってない!」

「うるさい!」

「舞香からも説明してくれ! 俺は何もやってないって!」

 事情を説明するよう舞香に求めたが、彼女は嗚咽するばかりで続きを話してはくれなかった。

「宗太郎! 舞香先輩に何をしたの!」

「違う! 俺はただ――」

 栗野が俺の弁明を聞いてくれることはなく、ただ彼女のビンタが炸裂しただけだった。

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