第3想定 第10話

 生徒会長による開会宣言によって今年の文化祭が始まった。

 体育館の前方には全校生徒がパイプ椅子に座っている。後ろのほうのスペースは保護者や地域の人々といった外部の人々のための座席が敷き詰められている。といっても満席というわけではなく使用されているのは3、4割といったところだ。

 文化祭は2日間にわたって実施される。

 1日目は各部活動によるステージでの発表。その間は全校生徒が体育館に詰め込まれてそれを鑑賞する。

 2日目の午後2時までが各クラスの模擬店や有志によるステージ発表が行われる。この時間帯は自由行動であり、模擬店に行こうが体育館でバンド演奏を鑑賞しようが各クラスを回って展示物を見ようが自由だ。学校の敷地から出なければ何をしても問題ない。といっても俺はクラスの模擬店を手伝わなければならないから完全に自由というわけではないけどな。

 そして午後2時から撤収が始まり、それから30分後からは体育館に詰め込まれる。最後に3年生や教職員による出し物を鑑賞して文化祭は終了というプログラムになっている。

 ステージ発表は郷土芸能部による和太鼓演奏から始まり、続いて合唱部、ダンス部と続いて今は休憩時間。いくら椅子に座って出し物を見るだけといっても疲れがたまるからな。

 照明が灯された体育館は生徒たちの話し声で騒めいている。文化祭という非日常で気分が高揚するのは当然だろう。その騒めきを傍に、ステージでは吹奏楽部が座席のセッティングを行っている。クラスの吹奏楽部員は全員が開会宣言の直後に体育館を抜けて音楽室での準備に向かった。当然その中には舞香も含まれている。

 15分の休憩時間が終わると照明が落とされて周囲が暗くなる。

「これより、午前の部、後半のステージ発表を始めます」

 騒めきが収まるよりも前に司会者を務める生徒会役員によるアナウンスが入る。

 体育館が静かになると吹奏楽部は顧問の指示のもとにチューニングを行う。その最終調整はあっという間に終わり、マイクは吹奏楽部の代表者に渡されて自己紹介が行われる。

「吹奏楽部です。私たちは今年の九州吹奏楽コンクールで金賞を受賞することができました。残念ながら全国大会へと進むことはできませんでしたが、来年は全国に行けるように日々練習に励んでいます」

 この家鴨ヶ丘高校は吹奏楽が盛んで県内ではそれなりに有名な学校だ。高校側としても力を入れている部活動であり、毎年の文化祭でも吹奏楽部の発表時間は他の部活よりも多く設けられている。午前の部の後半はまるまる吹奏楽の持ち時間だ。

「まずはコンクールで演奏した楽曲を2曲続けて披露いたします。課題曲4、渡口公康作曲、『南風のマーチ』。自由曲、バッハ作曲、『パッカサリアとフーガ』。それではお聞きください」

 吹奏楽部顧問である柘植先生が一礼すると部員たちのもとへ振り返り、指揮棒を掲げる。

 その指揮棒が振り下ろされると同時にファンファーレが鳴り響く。

 クラリネットの軽やかな旋律。

 1歩1歩を刻んでいくチューバの音色。

 演奏は進み、中低音楽器によるメロディ。

 あの夏のコンクール会場で感じた記憶が蘇る。それは中学校でチューバを吹いていたときの記憶だ。あの図太い音色。管体の冷たさ。熱くなったマウスピース。予算がなくてリペアに出せず、オイルで誤魔化しながら使っていたロータリーの感覚。

 あの3年間のすべてが愛おしい。

 三度目の主題を終えたマーチは中間部に差し掛かる。

 サックスの子守歌。

 グロッケンシュピールのオルゴール。

 先日電話をかけてきた後輩の高砂の声が蘇ってきた。

 入部して楽器を決める会議でじゃんけんにすべて負け、まったく希望していなかったチューバに配属となった彼女。

 最初はまともな音が出せず、出たとしても最後まで吹き切ることができなかった彼女。

 そんな彼女も数か月後のコンクールの舞台に共に立つことができた。

 俺が育てたんだ。

 俺が育て上げた自慢の後輩だ。

 そんな彼女も俺の引退直前には独り立ちしていた。

 我が子が成長していく喜び。

 親元を離れていく寂しさ。

 終わりに向かって演奏が進んでいく『南風のマーチ』は俺の感情を正確に表していた。まるでこの作曲家が俺のことを知っていたかのようだ。

 先輩と共に演奏した『光と風の通り道』。

 独り立ちして一人でチューバを吹いた『ブライアンの休日』。

 そして初めての後輩と共に臨んだ最後のコンクールの『コミカル☆パレード』。

 それらのすべてが俺の大事な思い出だ。

 しかし中学3年間を1曲で表現するとすれば、この『南風のマーチ』の名前を挙げるだろう。演奏をしたことがなければ楽譜を見たことすらない。それでも不思議と懐かしさを覚えるのだ。

 まったく音楽の知識がなかった俺を1人の吹奏楽部員に育ててくれた稲葉先輩。その彼女が引退するときは心細くて仕方がなかった。俺が3年生になると高砂が後輩として配属されてきた。希望外の楽器ということで彼女は不本意だったかもしれない。それでも技術的に目も当てられない俺についてきてくれた。

 吹奏楽部の『南風のマーチ』は終盤へと突入する。

 マーチとは前を向いて歩いていく音楽だ。

 しかしなぜだろう。

 この曲は後ろを向いているように聞こえる。なにか怨霊のようなものに掴まれて闇の中に引きずり込まれるかのような感覚さえ覚える。

 未来への希望。

 過去への未練。

 昔には戻れない切なさ。

 そんなさまざまな感情が湧いてくる最後のマーチだ。

 なぜだろう。

 序盤のマーチはあんなに希望にあふれていたのに。

 心の底から明るい未来を信じることができたのに。

 それなのになぜ暗い気持ちになるのだろう。

 いざ振り返ったら自分には何も残っていなかったかのようだ。

 楽しかったはずのあの時代を振り返ってもそこには何も残っていなかった。

 3年間の空き時間をすべて費やして、最後に残ったのは虚しさだけ。

 俺は稲葉先輩を超えることはできなかった。

 しかし高砂は俺を軽々と越えて行った。

 俺は先輩として高砂に教えられることは残っていない。

 いや違う。

 彼女は自信の力で成長していった。

 俺は育てたつもりになっているだけで、本当は何も教えることができなかった。

 あんなに大事だった後輩になにも残すことができなかったのだ。

「心技体。この中で他人から教わることができるのは技術だけ」

 第2次世界大戦から東西冷戦にかけて活躍したという設定を持つ架空の軍人の言葉だ。

 しかし唯一教えることができる技術でさえ、俺は高砂に伝えることができなかった。

 それだけじゃない。

 吹奏楽は一人のミスが致命的。

 一瞬のミスがコンクール12分間の結果を変える。

 1962年の夏。ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることを発見したアメリカはキューバを海上封鎖。いわゆるキューバ危機の発生だ。海上封鎖任務に就いていたアメリカ海軍駆逐艦は潜航しているソ連潜水艦を探知。演習用爆雷を投下して浮上を促す。この攻撃を回避するためにソ連潜水艦B59は深深度に潜航したためラジオを受信できなくなり、米ソが開戦したかどうか知る術を失った。しかし艦長は両国が開戦したと判断。核魚雷による攻撃を計画する。最終的に「浮上して本国からの指令を待つべき」と同乗していた潜水艦小艦隊司令アルヒーポフによって説得されて核攻撃は中止されたが、あと一歩のところで核魚雷が発射され、米ソは本当に全面核戦争に陥るところだった。

 世界の行方を変えるのは、いつだってごく数人の人物だ。

 俺は部活の未来を変えてしまった。

 たった1人ですべてを終わらせてしまった。

 全面核戦争に比べたら宮崎県の小さな市立中学校の部活なんて埃のようなものだろう。しかしその中にいる中学生たちは社会のことを知らない子供だ。部活こそが彼女たちの社会であり、それこそが世界のすべてだった。

 日向市立赤岩中学校、銅賞。

 そのアナウンスと同時に顔を覆って嗚咽する先輩や同級生。

 その姿を見て混乱する後輩たち。

 彼女たちの表情を今でも覚えている。

 すべて俺の仕業だ。

 彼女たちの夏を、青春を俺が終わらせてしまった。

 それだけ俺の罪は重い。

 銅賞のコールを聞いても、不思議と俺は悔しくはなかった。

 仲間たちと感情を共有することができなかった。

 書類上は仲間だ。

 しかし心は部外者だった。

 最後のコンクールになっても仲間になり切れてなかった。

 そんな大戦犯の俺が母校に顔を出せるわけがない。

 戻ることができない過去に思いを馳せ、心の奥底から込み上げてくる涙を必死に堪えていた。

 吹奏楽を通して多くの人に出会い、そして別れを告げてきた。知らなかった世界に触れ、その世界を荒らすだけ荒らして逃げてきた。

 俺は臆病者だ。

 故郷に帰る勇気はない。

 そんな資格なんて俺にはない。

 いや、故郷を懐かしむ資格さえないのかもしれない。

 気が付くと吹奏楽部の演奏は自由曲である『パッカサリアとフーガ』に移っていた。

 ヨハン・セバスティアン・バッハが作曲したオルガン曲の最高傑作。その吹奏楽版。その堅苦しくて難しい楽曲。あまりの難解さに周囲は退屈そうにしていた。

 もしもバーンズの『アパラチアン序曲』なんて演奏されていたら、俺は涙をこらえることができなかっただろう。それは最後のコンクールで演奏した自由曲だ。高砂と共にステージに上がったときの記憶がより鮮明に思い起こされていたかもしれない。

 俺は神なんて信じていない。

 神のために作曲されたバッハの音楽は俺が理解できる範囲を超えていた。

 英語のテストでわけのわからない長文問題が出たときのような感覚だ。脳みそが理解しようとする努力を本能的に放棄している。

 バッハは神に何かを伝えるためにこの曲を作曲したのだろう。しかし彼がこの曲に込めた意味を俺は理解することができなかった。

 ただのBGMだ。

 しかしそのおかげで俺はさっきの虚しい思い出に浸ることができる。

 理解の範疇を超えたことで俺の脳は本能的にその音楽を理解しようとしなかった。それによって余った集中力をすべてあの幻の余韻に向けることができる。

 そんなことを言っていたら、「俺の音楽を聴け!」と叫びながらバッハがあっちの世界から戻ってきて俺を塩見川あたりに沈めるかもしれない。

 ………………。

 塩見川と聞いてニヤリしたやつは日向市民だろう。

 そして俺が川に沈められると聞いてニヤリとしたやつは音楽に詳しいやつだろう。

 誰もが知っているクラシック界の最大重要人物ベートーヴェン。バッハの死後数十年後に大活躍した彼は「バッハは小川でなく大海だ」と評価した。バッハの名前は『Bach』と書き、それは小川という意味があるからだ。突っ込んだ話をすると小川という意味の現代ドイツ語のBachと大音楽家のBachは語源が違う。現代ドイツ語はゲルマン語から発展したものだが、大音楽家Bachはさらに古いゴート語までさかのぼることができ、各地を渡り歩く芸人に支払う給料である「ギャラ」という意味を持っていた。バッハの祖先がもともと各地を巡業する音楽家であったことからもそれが由来だろうと考える研究者もいる。たまたま読み方が一緒になってしまったというわけだな。日本でいうところの『佐藤』と『砂糖』の関係のようなものだろう。

 もしもバッハが現代日本に蘇ったら『小川』と名乗るのだろう。まぁその時は写譜ペンじゃなくてヘリの操縦桿を握っているかもしれないけどな。

 ちなみに『BACH』というトランペットで有名なブランドがあるが、こっちのほうは『バック』と読む。大手楽器メーカーの傘下にあるこのブランドはもともと金管楽器専門の製造会社だった。その会社創業者はドイツ出身のフィンツェント・シュローテンバッハという人物だが、のちにヴィンセント・バックに改名してアメリカに亡命。だから『BACH』と書いて『バック』と読むんだろうな。俺は英語が苦手だから本来の英語読みだとどうなるのかわからないけど。

 普通の学校が所有するトランペットであればYAM〇HAが主流だろう。俺の母校もそれで統一されていた。まぁ予算が少なくて国産のものしか調達できなかったというのもあるが、「安いのに高性能」というのがYAM〇HAの魅力だからな。日本がこんな吹奏楽大国に成長したのはメーカーのおかげとも言えるだろう。

 それで話は戻るが家鴨ヶ丘高校吹奏楽部のトランペットセクションは全てBACHで統一されているらしい。同じクラスの吹奏楽部員が楽器を個人持ちしているが、購入するときに柘植先生にできればそのメーカーを買ってくれと言われたそうだ。そいつの家庭は裕福な家だったからそのブランドでもかなり高いやつを買ってもらったらしいけど。

 別に国産のものが劣っているというわけではない。ここの楽団がBACHの音色を求めているからそれが使われているのだ。一撃の威力が欲しければ45ACP弾を使用し、より多い装弾数が欲しければ9ミリ弾を使用する。それと一緒で状況によって使い分けているだけだ。

 おっと、話が脱線したな。

 なんの話をしていたんだっけ。

 そうそう。バッハが現世に蘇ったら俺が塩見川に沈めて始末するという話から逸れていったんだったな。あんなドブ川で溺死させられるなんて同情するが、命のやりとりで一瞬の迷いは命とりだ。ゾンビの処理も俺に任せてくれ。

 閑話休題。

 だけど許してくれよ。アンタが言ったんだろハゲ野郎。「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない」って。

 俺はいま『南風のマーチ』の余韻に浸っている。

 後ろ向きの切ない行進曲によって呼び起こされた記憶を味わっている。

 それは「魂の浄化」とは少し違うが許してくれよ。それを許してくれるのであれば、アンタがカツラを被っているハゲ野郎だということは秘密にしておいてやる。男同士の交換条件だ。

 先日1年ぶりに聞いた高砂の声を思い出していた。

 彼女なら問題なく志望校である家鴨ヶ丘高校に進学できる。しかし彼女が入学できたとしても俺との接点はなくなる。校内でばったり会って軽く会話することもあるかもしれないが、それもほとんどないだろう。そして1年後には俺が卒業する。俺にとって妹のような存在の高砂の声を聞くことができるのは、先日のあの電話が最後になるかもしれない。

 別に死別するわけじゃない。

 俺が殉職しない限りどこかで会えるかもしれない。

 しかし卒業後に再会できるなんて限りなく奇跡に近い。

 あの電話の後に聞いたが、俺の姉ちゃんだって高校2年生のときに定期演奏会に里帰りしたのを最後に稲葉先輩とは会っていないらしい。俺も彼女と最後に会ったのは彼女が高校2年生のときに里帰りしてきたのが最後だった。

 会えなくてもどこかで元気にしているのならそれでいいと思うだろう。事実として稲葉先輩はきっとどこかで元気にしていると俺は信じている。しかしそれと同時に寂しさも感じる。

 先日の高砂との電話で彼女は「最後の定期演奏会だから一緒に吹いて欲しい」と言っていた。

俺はそれを断った。

 果たしてそれは正解だったのだろうか。

 俺は二度とチューバを吹かないと決めている。

 母校に帰る勇気はない。

 その資格もない。

 後輩たちに会わせる顔もないのだ。

 しかし俺と一緒に吹きたいというのが高砂の願いだった。

 信念を曲げてでも、恥を忍んででも、母校に戻って彼女の願いを叶えてあげるべきだったのだろうか。

 悶々とした俺の悩みは全校生徒の盛大な拍手で吹き飛ばされた。吹奏楽部による『パッカサリアとフーガ』の演奏が終わっていた。最初は退屈そうにしていた誰もが豊かな表情を浮かべている。風は見えなくても風車が回るように、音楽は見えなくても心に響いてくるのだ。心に囁きかけてくるのだ。

 ステージの奥から1人の女子生徒が出てきた。

 彼女はMCを担当する部員だった。彼女は拍手が鳴りやむと手にしていたマイクに声を吹き込んだ。

「さて、さきほど披露させて頂いた『パッカサリアとフーガ』ですが、これを作曲したのはあの有名なバッハ先生です。バッハと聞くと古臭いと感じるかもしれません。しかし彼の作品は現代の音楽の基礎にもなっています。例えばイングランドのハードロックバンド『ディープパープル』はクラシックの影響を強く受けていて、代表曲である『ハイウェイスター』や『紫の炎』の間奏部分はバッハの作品のコード進行を引用しているそうです」

 俺は音楽にはあまり詳しくないからその曲名は分からなかった。

 実際に中学の吹奏楽部で演奏したものであればわかったんだけどな。

「さて、バッハと言えば例の有名な話がありますね」

 もともとヴァイオリンを弾いていたことだろうか。

 契約先でトラブルを起こしまくっていた問題児だったことだろうか。

 それともP・D・Q・Bachピーター・シカリーのことか? 

 もしかして名前を日本語訳すると『小川』という意味になる話じゃないだろうな。

 そんなの有名すぎてわざわざこんなところで話すような内容じゃない。

「深夜になると音楽室に飾っている音楽家の肖像画が勝手に動き回るという怪談。皆さんも小学生の時にきっと聞いたことがあると思います」

 なんだ、あの怪談か。

 その話で喜ぶのは小学校低学年までだ。

 それを話すぐらいであれば例の日本語訳の話をしたほうがまだ食いつきがよかっただろう。

 落胆したのは俺だけではなかった。

 周りの生徒も同じようにがっかりし、それは体育館全体に蔓延する。

 しかしマイクを持つ吹奏楽部員はそれを想定していたかのように話を続行する。

「実はこの怪談は作り話ではありません。深夜になると本当に動き回っているのです。しかも比べ物にならないほど恐ろしい続きの話があるのです」

 各所で笑い声が漏れる。

 なんの話をするのか持ち上げた直後に幼稚な怪談話だったのだ。

誰も続きを期待していない。

 しかし司会担当者はそれを全く気にしていない。全国大会のチケットを争うような強豪校になるとネタが滑っても気にしない鋼のメンタルを持っていないと続かないのだろうか。

 ステージのライトが消灯された。

 きっと演出なのだろう。

「なんと学校側はこの現象を把握しているのです。私たちが通っている家鴨ヶ丘高校だけではありません。小学校から高校まで。北海道から沖縄まで、すべての学校でこの現象が確認されているのです。しかし表向きには発表されていません。それはなぜでしょうか……」

 ネタが滑っても続行する姿に呆れるどころか、次はどんな滑り方を見せてくれるのか。むしろ観客たちは別の意味で期待している。

 吹奏楽部の部員たちは鋼のメンタルを持っているか、それか観客のリアクションに気づけない間抜けか。きっとそのどちらかだろう。

 体育館の騒めきが少し収まると、MC担当の部員が話の続きを口にした。

「学校の先生たちは、知らないふりをして音楽家の肖像画に警備の仕事をさせているのです。彼らたちが動いているのを知っていながら知らないふり。そして知らないから給料を払う必要がない。そう、タダ働きをさせられているのです」

 セリフの途中でシンバルが鳴り響いた。

 それに驚いて所々から悲鳴があがる。

 あのシンバルは誤って落下させてしまったのではない。意図して鳴らした時の音だった。きっと照明を消したのは恐怖を煽るためだけでなくシンバルを準備しているのを気づかせないための演出だったのだろう。

 ちょっとちびっちゃったぜ。

「生物室の人体模型が歩き回る。美術室のモナリザの目が動く。他にもさまざまな怖い話があります。しかし、実は私たち人間のほうがよっぽど恐ろしい存在なのかもしれません」

 ほうほう。

 働いているのを知っていながらそれを噂話として処理しているのか。

 死人に口なしとはよく言ったものだ。

 働いている本人たちから抗議を受けることもなければ訴訟を起こされることもない。それにあくまで噂話だから彼らに給料を支払わなくても世間からバッシングを受けることもない。

 働いていることを知っているのに知らんぷりで給料を払わないなんて、愛情保安庁が可愛くなるほどのブラックだ。

 ん?

 世間には愛情保安庁という行政機関があることは公表されていない。

 当然、噂話にすらなっていない。

 しかもうちは航空機を運用できているのが奇跡と思われても仕方がないほどに金欠だ。そのうち秘密機関ということをいいことに給料が支払われなくなるんじゃないか?

 バッハの話は他人事ではないのかもしれない。

 しかも俺の仕事は殉職する危険もあるんだぞ。命をかけてタダ働きなんて冗談じゃない。

 この怪談、めちゃくちゃ怖いじゃねぇか。

「バッハ先生たちのおかげで音楽はここまで進歩することができました。人知れず深夜の学校を守っているバッハ先生。そう、『深夜』と言えば数年前にこんな曲が大ヒットしましたね」

 深夜という単語に心当たりがあったようだ。

 あらゆるところ、特に女子が黄色い歓声で騒めきだした。

 深夜。

 夜中。

 丑三つ時。

 きっとあの曲だろう。

 硬派ロックバンドが歌った『月が見えるなんとやら』のほうではない。

 照明が勢いよく灯される。

 暗闇に慣れていた瞳にその光が刺さり、やがてステージの部員たち、彼女たちが持っている楽器のひとつひとつまで鮮明に把握することができる。

 先ほどの雰囲気が吹き飛ばされた。

「真夜中の~?」

 MCが叫び、続いて手にしていたマイクを観客へと向けた。

 音楽は演奏者と観客がお互いに作り上げるものだ。

 彼女たちの演奏で心が揺り動かされたとはいえ、そのセンチメンタルな気持ちをいつまでも引きずるのはかえって失礼になるだろう。

 確かに『南風のマーチ』は哀愁漂うマーチだ。

 人によっては全く別のように感じるかもしれないが、俺はそのように感じた。

 しかしこの演奏会でずっとそれを引きずってメソメソしてほしいだなんて、舞香もひなたも、吹奏楽部員の誰もが望んではいないはずだ。

 今日は年に1度の文化祭。

 せっかく吹奏楽部が楽しい曲を演奏してくれるというのに、さっきのセンチメンタルな感情を引きずったままだなんて彼女たちに対して失礼だ。

 先ほどの怪談とは正反対のキラキラとしたMC。

 彼女のテンションに応えるかのように、俺も周りの観客と一緒に曲名の続きを叫んだ。

「ミッドナーイ!」

 近くで「真夜中の真夜中じゃねぇか」というツッコミが入った。

 そうか、『真夜中のミッドナイト』って「真夜中の真夜中」という意味だったのか。

 このタイトルを付けたやつは英語すら分からない馬鹿野郎だったに違いない。

 ちゃんと勉強しておけよな。

 学校に通っていたんだろ?

 歓声のなか、ステージの吹奏楽部員たちは堂々と楽器を構える。

 1拍の予備拍の後に指揮者の手が振り下ろされた。

 それと同時に『真夜中のミッドナイト』とやらのイントロが始まり、ところどころで黄色い歓声があがる。

 これはちょうど俺が中学2年生だったころに放送されたドラマの主題歌だ。『鉄屑教師』というタイトルだったかな? 1年前に結成したばかりの人気男性アイドルグループのメンバーの多くが出演したことで話題を呼んだ番組だったらしい。人間の屑を自称する鉄人教師が彼なりのやり方で問題を起こしまくる教師や保護者に鉄槌を下していくという物語だった。

 アメリカ合衆国史上初の黒人大統領が誕生。

 海上自衛隊に護衛艦『ひゅうが』、潜水艦『そうりゅう』、砕氷艦2代目『しらせ』が就役。

 同じく海上自衛隊に海上警備行動が発令され、護衛艦2隻がソマリア沖アデン湾に向けて出発。

 そしてマイケルジャクソンキングオブポップの突然死。

 そんな世界的なニュースが飛び交った翌年。前年の冬に放送されたその番組で主人公の鉄人教師が作中で放ちまくった「俺は屑だ。しかしお前はもっと屑だ」というセリフは流行語大賞にノミネートされた。しかもその番組の主題歌を歌っていたのがこの人気男性アイドルグループだったそうで、そちらのファンも取り込んでの大騒ぎだった。

 え?

 なんで俺がそんなに詳しいかって?

 同級生にこのグループが好きなやつがいて耳にタコができるほど聞かされたんだよ。なんでもその出演したアイドルの一人が『上岡なんとか』って名前だったらしく、話を聞く限り俺に似たナイスガイなやつらしい。しかも俺より3歳年上ということで年齢もそう離れていないそうだ。もはや俺自身と言っても過言ではないな。

 イントロの終わりかけでステージの照明が落とされた。

 スポットライトが指揮者だけに照らされる。

 曲のイントロが終わってAメロが始まると同時に柘植先生が客席に振り返り、ダンスを踊り始めた。

 全校生徒が驚愕する。

 体育館の壁沿いで見ていた教師たちも驚いている。

 それは定年間際のジジイとは思えないキレッキレのダンスだった。

 柘植先生は生徒から愛されているようだ。ところどころから彼の名前を呼ぶ声があがる。

 スポットライトと声援を浴びながら柘植先生は踊り続けている。

 顧問が指揮をやめて踊りだしたとはいえ、その演奏は狂うことがなかった。

 すべての演奏者が第1クラリネット奏者コンサートミストレスに合わせて演奏する。

 照明が落とされた暗闇のなか、自身の聴覚だけを頼りに足並みを揃えている。

 コンサートミストレスの音を確実に捉えて演奏するなんて普通の吹奏楽部員にはできないだろう。少なくとも現役時代の俺にはできなかったはずだ。


 日は変わり文化祭2日目。

 文化祭の最終日でもあり、これまでに準備してきたものを披露する日でもある。

 模擬店グループは巨大な業務用の鍋を中庭のテントに搬入。別動隊が既に長机などを搬入していて食器類の準備が進んでいる。

 そして中庭の中央では生徒会の連中や動員された運動部員によって食事用のテーブルと椅子が配置されていく。それを取り囲むように配置された他のクラスのテントでも同じように開店準備が行われている。

「宗太郎、こぼさないでよ!」

「するわけねぇよ!」

 不安な表情で喚くリーダー、いや店長の目の前で運んできた鍋を長机に乗せた。俺のクラスが出品する模擬店はシチュー屋さん。この鍋の中には前日から仕込んでおいたシチューが入っている。クラスメイトや他のクラスの教師を動員して徹夜で準備したシチューだ。

 もしも俺がここでやらかそうものならば今日の模擬店は出店不能になってしまう。そしてクラスの女子たちから大顰蹙を買うことになるだろう。

 そうなったらそうなったでいいと思うけどな。

 深夜の学校でシチューを作るなんていい体験をしただろう。俺は昨日から一睡もせずに準備を手伝っていたから知っているけどみんな俺を残して遊んでいたじゃん。誰かが懐中電灯を持ってきて肝試しとかやっていたじゃん。

 しかも他のクラスや監督の教師たちを巻き込んで。

 調理に最も貢献したのは俺だからな。

 あと販売係のじゃんけんに負けて調理係に回ってきた舞香。

 こいつを調理係にして大丈夫か? とは思ったが俺が隣で見ていたから問題はないだろう。ちゃんと具材に触れるときは手を洗剤で洗っていたし、何か変なものを鍋に入れるということもなかったし。

 話が逸れたけども俺と舞香は遊びにも行かず、夜通しでずっとコンロの火を見守っていたわけだ。しかも他のクラスの分も。

 まぁ俺は肝試しなんてしようとは思わなかったけどさ。つまみ食いしたかったし。そしてなにより舞香が嫌がっていたからさ。俺は怖がっている彼女を無理やり肝試しに連れ出すようなロクデナシなんかじゃないのだ。

 あと念のために言っておくと俺は幽霊とか深夜の学校が怖いとかそういうわけじゃないからな。

 いや本当に。

 というか俺クラスになると深夜の学校程度では興奮しない。

 たまに潜入しているんだよ。

 SSTの任務という名の雑用でよその深夜の学校にな。

 装備は懐中電灯なんてチャチなもんじゃない。

 顔にはNVD暗視装置

 手にはサプレッサーを装着した拳銃USP

 幽霊よりも警備員のほうが怖いんだからな。だってあいつら俺を発見したら速攻で通報するんだもん。しかも宮崎県警にも知らされていない極秘任務だから連中も本気で捜索にやってくる。下手したら銃撃戦だ。

 別にまだ見つかったことはないけどさ。

「だって宗太郎、昨日寝てないんでしょう」

「他の連中が肝試しして遊んでいたからな」

 というかアンタも一緒になって肝試ししてたじゃねぇか。

「無理しないで休んでなよ」

「大丈夫だ」

 1徹なんて楽勝。

 しかもやっていたことなんてコンロの火を見ていただけだし。

 つまみ食いもできたしな。

 完全武装で山の中を不眠不休の飲まず食わずで4日間かけて歩くいつもの訓練よりもマシだ。

 というかアンタ気持ち悪いぞ。

 普段は俺を心配したことなんてないじゃないか。


 せわしなく動いていた生徒たちも大人しくなってきた。

 それはうちのクラスのテントだけじゃない。他のテントでも準備が終わったようで店員たちも大人しく開店時刻を待っている。

 やがて中庭の中央に生徒会長がやってくると手にしていた拡声器で注意事項を説明していく。あらかじめ聞いていた内容だが最後の確認というわけだ。

 しばらくすると空に3発の花火が打ち上げられる。青く晴れた空には同じ数の白煙が漂っていた。

 文化祭2日目の開催の合図だ。

 きっと各学級ではホームルームが終わり生徒たちが解き放たれているだろう。

 校門は開放され地域の人々がなだれ込んでいるはずだ。

 連中はあと1、2分でこの中庭に到達する。

 みんなが最初の客の襲来に備えてそわそわしている。

「せんぱ~~~い!」

 誰もが最初の客は外部からの訪問者だと思っていた。

 しかし開催の合図と同時に反対側のテントから店員がまっすぐと走ってきた。

 まるで映画から出てきた西部開拓時代の保安官のような恰好をしている彼女はよく知っている人物。

 俺の本妻を自称している後輩。

 前田ひなただった。

「悪い、俺の客だ」

 隣に立っていた店長役のクラスメイトにそう告げて俺はカウンターから出ると店先の前に出た。

「先輩、差し入れです」

「おう、悪いな」

 ひなたが持ってきた皿を受け取ると中身を確認する。

 中身はどこかで見たことがあるようなないような、そんな得体のしれないものだった。

 赤いスープの中に豆や挽肉が入っている。

「これは何だ?」

「チリコンカンです」

 それは初めて聞く名前だったが大丈夫だろう。

 大抵の食品は火を通せば安全だ。

 俺は受け取ったその皿をカウンター越しに店長へと渡した。

「ほら店長。後輩から差し入れ。トンチンカンだって」

「トンチンカンは宗太郎でしょうが」

 店長は意味が分からないことを言いながらも喜んで受け取っていたが、それと同時に得体の知れないスープに困惑していた。

「それでその恰好はどうしたんだ?」

「えへへっ……。私のクラスはコンセプトカフェをしているんです」

「ほう、テーマは西部開拓時代か」

「そうなんで。イベントで銃撃戦とかするんですよ」

 血の気の多いクラスだ。

 来年は極道喫茶とかって称して「免許持ってんのかコラァ!」とか言っているんだろうな。そして抗争と称して銃撃戦のイベントを実施するに違いない。今年大ヒットしたアニメ映画で主人公が黒塗りの高級車に体当たりして出てきた暴力団組員から拳銃を奪うシーンがあったからな。それの影響でそういうコンセプトカフェを出店してもおかしくはない。

 いや、イベントで銃撃戦をしようと考える過激なクラスだ。こいつらならやりかねない。

 まぁうちの学校は商業高校だ。ビジネスの種はどこに落ちているか分からないし、それを探し出す授業もやっている。新規開拓のいい勉強になっただろう。

 ひなたと話しながらも俺は彼女の腰に視線を送っていた。

 別にエロい意味はない。

 ただの職業病だ。

 無意識のうちに彼女の腰の兵装を確認していた。

 ナイロン製のヒップホルスターには撃鉄ハンマーが落とされた状態の拳銃が納められている。

 グリップセイフティに細長いハンマー。

 M1911だ。

 それに加えて後部に伸びたビーバーテイル。

 1927年以降に生産されるようになった改良型のM1911A1か。

 俺はひなたを抱きしめるかのような距離に接近し、その腰に納められた拳銃を引き抜いた。

 クラスからは黄色い叫び声があがった。

 目の前のひなたは顔を赤くして蕩けている。

 惚れた腫れたと言い合っている女子たちのことだ。きっと俺がひなたを抱きしめたと勘違いしたんだろう。俺に抱きしめられると思ってひなたも恥ずかしくなったのだろう。

 しかしそんな事をするわけがない。

 だって後ろのテントには舞香がいるんだぞ。

 彼女の目の前で他の女子生徒を抱きしめるだなんて、そんなのは馬鹿がすることだ。

 下手したら舞香がヤンデレ化して文化祭が血祭りになってしまうからな。

 キャーキャーと騒ぐクラスの女子たちは放置だ。

 まずは弾倉マガジンを引き抜いてスライドを後退させる。実銃にもエアガンにも共通する基本的な動作だ。

 多分そうだろうと思っていたが、案の定エジェクションポートからは弾丸が排出されなかった。つまり弾丸が装填されていなかったのだ。拳銃にマガジンを挿入したらスライドを引いて初弾を薬室チェンバーに装填しなければならない。その時にスライドに押されてハンマーが起き上がるのだ。普通はそのままサムセイフティをかけて安全状態にするわけだが、さっき確認したときはハンマーが落ちていた。

 M1911シリーズで撃鉄ハンマーを落とした状態にできないわけではない。撃鉄を押さえたまま引き金トリガーを引いてゆっくりと落とせばいい。しかし発砲可能状態で撃鉄を落とすわけだから下手をすれば暴発する可能性もある。

 さらに言えば映画などで敵の背後から銃を突き付けて、威嚇のためにハンマーを起こすシーンがある。敵からは拳銃が見えない。撃鉄を落とした状態での運用が基本のダブルアクション拳銃か起こした状態での運用が基本のシングルアクション拳銃かの判別はできないから威嚇としては有効だ。しかしダブルアクション方式ならば問題ないがシングルアクション方式のM1911で撃鉄を落とした状態での運用は緊急時の射撃で不利になる。

 これがTT33トカレフであれば初弾を装填せずにホルスターに収納し、発砲直前にスライドを引いて装填するというテクニックがある。TT33は第二次世界大戦から1950年代まで旧ソ連軍の制式拳銃として使われていた拳銃だ。この拳銃は暴発リスクが高いシングルアクション方式であるにも関わらず安全装置が装備されていない。そのため万が一暴発しても弾丸が飛び出ないようにあえて初弾を装填せずに運用されていたらしい。

 しかしM1911A1にはサムセイフティに加えてグリップセイフティも装備している。たしかに安全性はより高くなるけどもそのトカレフのテクニックを使ってまで運用するメリットを俺はあまり感じない。

 それに人間は思ってもいないミスをするものだ。

 発砲直前にスライドをコッキングするなんて癖がついていたら無意識のうちに戦闘中にやってしまうかもしれない。薬室に弾丸が入っている状況でそんなことをすれば銃弾を1発無駄にしてしまう。銃弾の1発は生死を分けるほどに重いものだ。

 さらに加えるならば、そもそもエジェクションポートは基本的に空薬莢を排出できるサイズで設計されている。できないわけではないけども弾頭が残ったままの弾丸は引っかかって排莢不良ストーブパイプを起こしてしまう危険がある。不発弾が出た場合はそんな事を言っている場合ではないけども、動作不良マルファンクションを発生させかねない行為は可能な限り避けておきたい。

 まぁきっとひなたはガンマニアというわけじゃないだろう。

 だから知らなくてもおかしい事ではない。

 ただ今回のコンセプトカフェの一環として保安官のコスプレをしているだけだろう。

 安全状態にしたM1911を舐めまわすように観察する。

 引き抜いた弾倉マガジンには45ACPの模擬弾が押し込まれている。本体は引きしろの短い引き金トリガー。それに指をかけやすいようにフレームが削られている。

 M1911は多くのバリエーションに発展している拳銃だ。

 これに特化したマニアに見せたらもっと詳しいことを教えてくれるかもしれないが、少なくとも俺が知っている知識だけで言えばM1911A1で間違いないだろう。

 ひと通り遊んだのちに、弾倉を挿入してスライドをコッキング。サムセイフティを掛けて今度は撃鉄が起き上がった状態のままひなたの手に握らせた。

「こっちのほうがリアリティが出る」

「………………」

「?」

 ダメだ。

 こいつまだ蕩けてやがる。

 ひなたのクラスメイトを呼んで彼女を回収してもらうか。

 俺は対面しているテントで手が空いてそうな店員を探す。

 お。

 ちょうどいいのがいた。

 目が合ったのは坂本だ。

 俺は彼女に向けて手招きをすると、彼女は怯えたように近くの栗野の背後に隠れた。

 まぁ栗野でもいいや。

 今度は栗野に手招きをすると彼女は不機嫌な表情でこっちへとやってきた。

 まぁその表情は照れ隠しなんだけどな。

 このツンデレさんめ。

 眉間に皺を寄せたまま栗野は坂本を背後に隠しながらやってきた。

 2人ともコテコテな原色のチャックのシャツをジーパンにイン。頭には白いテンガロンハット。その古めかしい恰好は官能的な懐かしささえ覚える。

「栗ちゃん、今日もエロいね」

「この野郎!」

 栗野は腰のガンベルトからリボルバーを引き抜いた。突き付けられる銃口にはモデルガンには必ず装着されているインサート――鉄の棒が埋め込まれていた。

 おいおい、そんなおもちゃでどうしようっていうんだ。

「ひなたがフリーズしたから連れて帰ってくれ」

 事情を説明しながらも俺は無意識のうちに栗野から拳銃を奪い取っていた。

 それにしても最近リボルバーに関わることが多いよな。

「シングルアクションアーミーか」

 ハンマーをハーフコックの位置まで起こしてローディングゲートを開ける。シリンダーを回してすべてのチェンバーを確認するとすべての薬室に模擬弾ダミーカートが装填されていた。

 ほう、見えない場所にまでこだわるとはさすがだ。

 ちなみにこいつが主流だったときには暴発を防ぐために銃身と一直線になる薬室は空にしていたらしい。構造的に初弾は次の銃弾が回ってくるから。

 それでも全部の薬室チェンバーに装填するというのも悪くはない。

 戦場ではたった1発の有無が生死を分けるからな。

 経験者の俺が言うんだ。

 説得力として文句はないだろう。

 撃鉄を押さえながらトリガーを引いて元の位置にハンマーを戻す。デコッキングというものだ。シングルアクションアーミーの動作方式はその名の通りシングルアクション方式。トリガーを引いてもハンマーが落ちるだけ。ダブルアクションのように次の弾を撃つために再度ハンマーが持ち上がる機能は持っていない。さらにはマニュアルセイフティのような便利なものもないため、持ち運ぶときにはハンマーを元の位置に戻さないといけないのだ。

 よくこんな面倒なものが今でも生き残っているよな。

 俺は右手でガンスピンを披露する。

 リバーススピンからのフォワードスピン。

 ひなたが蕩けた目で見とれている。

 サービスだ。

 さらに水平にスピンして空に放り投げる。

 空中でリボルバーが数回転。そして落ちてきたそいつを受け取る。

 ガチャン!

「………………」

「………………」

「………………」

 三人の視線が痛い。

 クラスメイトたちの視線も背中に刺さっている。

 銃身の付け根からぽっきりと折れたモデルガンを俺は拾って栗野に渡した。

「……リボルバーは趣味じゃないんだ」

 それじゃあ、と手を掲げて俺は持ち場へと戻ろうとした。

「ちょっと! 弁償してよ!」

「戦場での銃の破損は死につながる。ここで壊れてよかったじゃないか。もしかしたらこいつを持って戦場に行くところだったかもしれないんだぞ」

 拠点の近くならば補給ができるかもしれないが、もしこれが敵勢力下での隠密作戦中に発生したら敵から奪うしか方法はない。

「モデルガンを持って戦争に行くわけないでしょうが!」

「人生はなにが起こるか分からないぞ?」

 俺は突然普通の高校生から特殊部隊の隊員になったからな。

 しかも愛情保安庁なんてわけがわからない秘密組織の。

「御託はいいから弁償してよ!」

「やかましい!」

「アンタが壊したんでしょうが!」

「それなら俺の大口径ピストルをくれてやるよ」

「ふざけんな!」

 栗野は顔を赤らめて俺の頬を引っぱたいた。

 何と勘違いしているんだよ。

「M1911だM1911。アメリカのオートマチックピストルだ。ち〇このことじゃねぇし俺のはもっと太いぞ」

 ムスコ大佐を舐めるんじゃねぇよ。

 ち〇こだけに。

 しかも近くに舞香がいるんだぞ。

 彼女の目の前で他の女子にセクハラするわけがない。

「これを機会にリボルバーからオートマチックに乗り換えるといい。M1911ガバメントなら装弾数が一発多い。薬室チェンバーにあらかじめ装填していれば2発も有利なんだぞ」

 自身のとんでもない勘違いにいたたまれなくなったのか、栗野は俺の脚をガシガシと蹴りまくる。しかし全くのノーダメージ。いつも姉ちゃんの蹴りを受け止めているからな。

 それにしても栗ちゃん。

 名前だけじゃなくて頭の中もエロいんだね。

「45ACP弾は45コルト弾に比べると弾頭エネルギーで劣っているがそれを差し引いても1発多く装弾できるというのは大きい。それに45ACPは亜音速弾だからサプレッサーとの相性も抜群だ。そもそもリボルバーにはサプレッサーは装着できないし、改造して装着できるようにしたとしてもシリンダーギャップからガスが漏れるから効果は――」

「うっさい!」

 もっと語らせろよ。

 M1911の魅力はまだまだそんなものじゃねぇよ。

「ともかく俺のオートマチックをやるからそれで手を打ってくれ」

 わざわざモデルガンで遊ばなくても本物を仕事で使っているからな。


 それから店長が間に入って事なきを得た。

 返礼品のシチューを受け取った栗野たちは自分たちのクラスに戻っていった。

 まさか最初に売れるのが物々交換になるとはな。

 やがて中庭はさまざまな人間でごった返すようになった。

 15時以降まで出番がない3年生。

 展示物担当で今日はすることがない1、2年生やシフトに入っていない店員たち。

 それに近所の人々や他校の生徒。

 教員たちも交替しながらいろいろな模擬店で買い物している。

「いらっしゃいませ~」

 ……この人さっき来ていなかったか?

「シチューを2杯ちょうだい」

「……柘植先生、さっき買っていきましたよね?」

「美味しかったからおかわり」

 食べすぎは体に障ると言おうとしたがやめておいた。

 食品は売れるときに売っておかないとな。

 ただ無心で皿にシチューを注ぐ。

 その間に柘植先生は近くのレジ担当の女子生徒に2杯分のコインを渡していた。

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