第1想定 第3話

俺がSST隊員になった次の日の水曜日。

 今は待ちに待った昼休み。そしてできれば来て欲しくなかった弁当の時間。

 朝、舞香に「今日は春巻きよ」と言われたのだ。

 俺は意味が分からず質問したんだけど、火曜日の「宗太郎のお弁当は、これから毎日私が作ってくるからね」というのはどうやら幻聴ではなかったらしい。ちくしょう。

 弁当を作ってくれることについては感謝している。

 だけど舞香には前科がある。

 舞香が壊したものは俺の腹。さしずめ蔵物損壊罪ってところだな。

 まぁそんなことを考える前に、やらなければならないことがある。

 実は今日の朝、靴箱に「昼休みに図書室に来て By鬼塚」という内容の手紙が入っていたのだ。

 はたし状ではない。

 丸っこい字で書かれたそれは、明らかに告白相手を呼び出すときの乙女の文字だった。そもそも図書館で果たし合いをしようと考えるバカはいないだろう。

 どんな女子なのかなぁ……。こんな可愛らしい文字を書くんだから、きっと可愛い女子に違いない。

 俺は差出人の外見を想像する。

 身長が低くてしかも三つ編みのおさげ髪。色白で丁寧な話し方。いつもは普通なんだけど、たまにサディストになって俺を困らせる感じの子だ。鬼塚というなんだかおっかない苗字とのギャップがあるほうがいいよな。

 そして胸はぺったんこ。

 これだけは外せない。舞香の胸はダメってわけじゃないけど、ちょっと余分なんだよね。

 どうしようかなぁ。

 舞香と想像上の鬼塚さんを比べてみる。

 どっちも捨てがたいタイプなんだよな。だけど今の彼女は舞香だから、鬼塚さんの気持ちを受け取るわけにはいかない。だけどせっかく俺を好きになってくれたんだ。その気持ちを無碍にはできない。

 いっそのこと二股をかけるか?

 そんなクズなことはだめだ。舞香がヤンデレ化して、また俺が殺されてしまう。いや俺はヤンデレを鎮圧するSSTの隊員だ。あれくらい対処できるはず……まぁヤンデレ化されないに越したことはないな。

 となると残る選択肢は鬼塚さんを……そんなことできない!

 目に迫った重大な選択肢。俺はそれを決めあぐねていると、いつの間にか指定されている図書室の前についていた。

 ここで決断できるまで迷っていても仕方ない。俺は腹をくくって扉に手をかけた。


 図書室の扉を通ると、そこには金髪ギャルが立っていた。

 校則を挑発するかのようにギラギラと輝く金髪。胸の脂肪を強調するピチピチのブラウス。

 彼女の名前は明奈。ここの学校でその名を知らない生徒はいない。

「よっ」

「……はぁ」

 なぜか声をかけられた。

 もちろん俺たちは知り合いというわけではない。

 きっと金づるか何かと間違えたんだろう。俺は会釈だけすると図書館の奥へと進む。

「っちょ、シカトかよ~」

「すいません明奈先輩、今小銭持ってないんです」

 残念だったな。

「三年の篠栗ってやつが今日、五千くらい持ってきてるっすよ」

「マジで!? ちょっとたかってくるわ!」

 善は急げだ。さっさと行っちまえ。

 俺は早く鬼塚さんのところに行かないといけないんだよ。

 ちなみに篠栗というのは野球部の先輩のことだ。

「って、そうじゃなくて」

 なんだよ、五千円じゃ足りないのか?

「ウチは宗太郎を待ってたっつぅの」

「すいません、ちょっと先約がありまして」

 今の俺にはとても重要な待ち合わせがある。こんなギャルの相手をしている暇はないのだ。

「それ、多分ウチ」

「いやいや、それはないでしょ」

 色白でサディストで胸がぺったんこなのが鬼塚さんなんだぞ。

 胸がDカップ以上、ましてやサイズの小さいブラウスでその脂肪を強調しているこの金髪ギャルとは正反対だ。

「予約があるのは鬼塚さんなんです。先輩は――」

 俺は明奈先輩のみっともない脂肪をチラリと見る。

 そこに付けられた名札には『鬼塚』と――え?

 鬼塚って苗字だったの?

「ウチ、鬼塚」

 同じ苗字の別人でしょ?

 そうだよね。鬼塚って苗字、意外と多いもんね。

 明奈先輩は手紙の鬼塚さんとは違うでしょ? だってこっちの鬼塚さんは貧乳だもん。

「あっ」

 偶然の一致に動揺していると、胸ポケットに入れていた手紙を奪われた。

「…………ほら」

 返された手紙。

 もともと書いてあった差出人の署名の下に、同じ筆跡で鬼塚と書かれていた。

 差出人であることを証明するための簡易的な筆跡鑑定。

 認めたくないが同一人物だ。

「………………うわああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 想像していた鬼塚さんの絶壁が音をたてて崩れていく。

 俺のツルペタがぁ!

 図書委員らしい女子生徒にキッと睨まれた。「図書室では静かに」って思っているのだろう。

 だけどこっちはそんな規律とかを守っている場合ではない。世界中の男たちのロマンが崩落したんだぞ。


「落ち着いた?」

 俺たちは場所を移し図書室を追い出され、保健室へと来ていた。

 中には生徒どころか養護教諭すらいない。

 別にこんな無人の場所を選ばなくてもと思うが、「人に聞かれたらヤバい」ということでここに連れてこられたのだ。

「ええ……それで用事というのは?」

 どうせ告白なんだろ?

 だけど結果は決まっている。

 俺は舞香一筋の一途な男だからその気持ちは受け取れない。

 だけど告白するんだったらその脂肪を強調したブラウスはやめろよ。中身はまぁ仕方ないけど、本気で男を落とすんだったら相手の趣味に合わせて、着痩せするような工夫をしろよな。

「きのう、SSTに入隊したっしょ?」

「……?」

「ウチ、愛情保安官」

 これは想定外の告白だ。

「隊長が宗太郎と会えってさ」

 なんだそんなことか。

 今日の朝、愛情保安官が会いに行くから顔合わせしておくようにって姪乃浜から言われてたんだった。

 てっきり俺にモテ期が到来したと思ったぞ。

「よろしくお願いしま――」

「タメ語でいいから。年は近いし階級も一緒だから」

 ということは三等愛情保安士か。

 警察で言うところの巡査。海上保安庁だと……パクりだから説明する必要ないよね。

「機動隊所属だから、現場で一緒になるかも」

「機動隊?」

「一般隊員じゃ相手にできないレベルのヤンデレを相手する部隊。一応エリート。ヤバくね?」

「ヤバいね」

「っつってもSSTほどじゃないけどさ」

「いや、機動隊でしょ?」

 一応エリートだろ。

 どんな訓練してるか知らないけどさ。

「う~ん、生指部の永尾と戦うとするじゃん」

「あ~あいつ嫌いなんだよな」

 永尾とは生徒指導部に所属していて、空手部の顧問をしているクソ野郎だ。

「いっつも因縁つけてくるし。金髪はダメだとかスカートが短いとか」

「それはうぜぇ」

 この学校であいつが嫌いじゃないやつっていないんじゃないか?

「この前はスマホ没収されたし」

「だったらピストル持ってるところを見られた日には大変だな」

「そのときは始末するから大丈夫」

「……ははは」

 乾いた笑いしか出てこねぇ。

 公務執行妨害での『逮捕』なのか、敵対行動での『射殺』なのか。『始末』がどちらを指しているかは分からない。

 だけどこいつなら何の躊躇もなく殺りそうだ。

「それで永尾と戦ったらどうなるんだ?」

 誰だよ、話逸らしたやつ。

 危うく聞きそびれるところだったじゃねぇか。

「時間を稼ぐだけで精一杯。ウチの隊長だったら勝てるけど」

「それでもスゲェよ!」

 アイツはたしか空手五段だったぞ。

「SSTだったら瞬殺。特に二隊の上岡ってやつ」

「それ、多分俺の姉ちゃん」

 上岡なんて苗字はそんなに多くない。だから二隊に二人も上岡がいるとは考えられない。

 というか姉ちゃんって凄いんだな。

 しかし俺の表情とは真逆に、鬼塚の表情が暗くなる。

「ところで宗太郎はどの隊?」

「二隊」

 姉ちゃんと一緒なんだぜ。

 自慢げに答えると、とんでもない言葉がすぐに返ってきた。

「これから関わらないでくれる?」

「なんで!?」

「ろくな奴がいないっつーの、二隊には」

 姉ちゃんがいるのに?

「やたらと脱ぎたがるマッチョはいるし、やたらと握力がつよいゴリラに、年下なのに生意気なやつ!」

 聞いた限りとても個性的な面々だ。

 だけど普通なのもいるだろ。俺の姉ちゃんとか。

「特に班長の上岡!」

 俺の姉ちゃんもか!?

「機動隊の入隊試験でアイツに半殺しにされたし!」

「半殺しとは穏やかじゃないな」

「おかげで同期は初日でリタイア!」

 つまり一人だけで試験をやり遂げたのか。

 やるな鬼塚。

「山に置き去りにされたと思えば海に投げ込まれるし! しかもタンデムでパラシュート降下! ヤバくね!?」

「ヤバいね!」

 というかなんで空挺降下してるんだよ。

 SSTの作戦地域はほとんどが市街地だ。空挺する必要なくね?

「格闘訓練じゃ有効な技を決めるまでずっと集団で――ちょっと待って」

 鬼塚は会話を中断すると、ポケットからワイヤレスタイプのイヤホンを取り出した。きのう姉ちゃんに貰ったものと全く同じ形だ。

 もしかして愛情保安庁から指令でも出たのかな?

《ビーッ、ビーッ、ビーッ》

 ……指令だね。

 俺もイヤホンを取り出して装着する。

『宗太郎、今、学校にいるな?』

「ああ」

『ヤンデレワールドを検知した。現場は宗太郎が今いる学校だ』

「じゃあ今週勤務しているSSTが向かっているのか」

 たしか一隊だっけ?

『いや、一隊の出動はキャンセルさせた。宗太郎が向かったほうが早い』

「まともな訓練受けてないんだぞ?」

 システムが組み込まれているとはいえ、それだけでは心もとない。

『大丈夫だ。宗太郎ならできる』

「……目の前に機動隊員がいるんだけど」

 ふと視線を向けると、鬼塚の手に拳銃があらわれた。

 それは9ミリ拳銃。装弾数は少ないがシングルカラムのおかげでグリップが細く、手の小さい日本人でも持ちやすい拳銃だ。

『鬼塚だろ? 彼女の今回の任務は宗太郎の後方支援だ』

「もっと前に出てきてくれないかな!?」

 できればヤンデレの目の前に。

『安心しろ。宗太郎だったらできる』

 意地でも俺にさせるつもりらしい。

 なにか裏があると疑ってしまう。

「一隊を投入したほうが確実なんじゃないか?」

『だから宗太郎を投入したほうが早い』

「……本音は?」

『一隊を出動させるとコストがかかる。ヘリの燃料代に隊員の出動手当とかでな』

「………………」

 おいおい、特殊部隊って優先的に予算を回されるものだろ?

 なのになんでケチってるんだよ。使い切らないと来年の予算をカットされるぞ。

「……で、任務というのは?」

 俺がしぶしぶ了解すると右手にUSPが、そして左手にはマガジンが五つ出現した。

 しかも今回はサプレッサーが装着されている。やっぱりサプレッサーがついた銃ってかっこいいよね。

『校内にいるヤンデレを探し出し、そいつを沈静化しろ』

「位置は?」

 マガジンをポケットにねじ込みながら質問する。

『正確な場所までは分からない。だがヤンデレワールドが殺気性ということは分かっている』

「殺気性?」

 俺は姪乃浜の説明を聞きながらコッキングして初弾を装填。念のためにプルチェックをしてからサムセイフティをかける。

『ヤンデレワールドは『殺気性』と『監禁性』の二つに分かれる』

 サプレッサーに妙ながたつきはない。サイトへの干渉もしていない。

『今回の殺気性というのは、ヤンデレが誰かを殺す意図を持っている状況で発生するヤンデレワールドのことだ。検知は簡単なぶん緊急性が高い。近くの愛情保安官や警察官が食い止めている間にSSTを投入するのがセオリーだが、今回は近くに宗太郎がいる。だから行け』

「……了解」

 俺は呆れた口調で返答した。

 まったく、なんで訓練を受けていない新人を投入するんだよ。

 コストがかかってもいいじゃないか。そのための税金なんだぞ? ここで使わなくていつ使うんだ。


 USPを両手で握りしめ、警戒しながら階段を登っていく。

「あなたが悪いのよ。上岡先輩の悪口を言っていたあなたが」

 踊り場につくと、女子生徒の落ち着いた声が聞こえてきた。その声は落ち着いているように聞こえるが、怒気を孕んでいるようにも聞こえる。

 俺はさらに警戒しながら、階段をゆっくりと登っていく。

「!」

 仰向けに倒れて、首から血をどくどくと吹き出している女子高生の姿が俺の目に飛び込んできた。

 俺はフロアの一歩手前まで階段を登り、壁に張りつく。

 倒れた女子生徒の首には六ミリほどの穴が空いていて、そこから流れ出た血液が海を作っている。目は開いたままで、ときおり思い出したかのように体がピクピク動いている。

 うわぁ凄惨な現場……栗野じゃねぇか!

 痙攣していた女子生徒は中学時代の吹奏楽部で一つ後輩だったやつだ。

 ちなみに栗野はホルンがめちゃくちゃうまい。うちの高校に来たのは吹奏楽部の顧問にスカウトされたかららしい。うちの高校って吹奏楽の強豪だもんな。

 そういえば、たしかこのフロアには音楽室があったはずだ。

 俺は壁に隠れたまま耳を澄ます。

「あなただって同罪よ……」

 女子生徒の囁く声と息を飲む声が聞こえてくる。きっとこの現場で対処しなければならないヤンデレの声だろう。

 だが、その声の聞こえ方がおかしかった。

 ヤンデレは鋭利なもので栗野の首を刺したのは間違いない。しかし、ヤンデレの声は少し遠い場所から聞こえてくる。だいたい5メートルといったところだろう。

 俺だったら栗野を手にかけたあと、彼女に話しかけるならばすぐ近くで話しかける。なのになぜヤンデレはわざわざ離れてから話しけているんだ?

 疑問に思っている間もヤンデレの声が聞こえてくる。

「上岡先輩がどうしたって?」

 俺がどうしたって?

 状況は分からないが、ヤンデレが5m離れている場所にいるのは間違いない。

 俺は姉ちゃんに教わったカッティングパイで廊下を確認する。カッティングパイというのは壁の端っこに隠れながら死角の様子を少しずつスキャンしていくテクニックのことだ。上から見たときにパイを切り分けるような動きで確認していくためこう呼ばれている。

 少し横に移動しスキャン。

 もう一度移動してスキャン。

 さらにスキャン。

 四度目のスキャンで人影を確認した。

 ロングヘアーの女子生徒がこちらに背を向けて立っている。逆手に持った鉛筆を斜め上に振り上げていた。

「!」

 すぐさまUSPのサムセイフティを解除すると、サイトで彼女の胴体を捉え――いやダメだ。

 彼女の奥でメガネ女子が腰を抜かしている。撃ちたくないものが射線上にいるときは発砲してはならない。貫通力に優れた九ミリ弾ではなおさらだ。

 俺は照準を頭部に変える――いや、姪乃浜は鎮静効果がどうとか言っていたが本当にあるのか?

 もし鎮静効果なんてものがなかったら彼女は死んでしまう。

 だけど撃たなければ奥にいる女子生徒が殺されてしまう。

 今度は照準で腕を捉えると、俺はトリガーを二回絞った。

 もし鎮静効果がなくても腕だったら命に別状はない。それに銃弾も貫通するだろうから人体への被害も最小限に抑えられるはずだ。

 銃弾が発射されるとスライドが勢いよく後退し、役目を終えた薬莢が吐き出される。

「あ、上岡先輩だ!」

 薬莢が床を打つ音で気づいたのか、それとも撃たれたことで気づいたのだろうか。メガネ女子を襲っていた彼女がくるりと振りかえった。

 俺は彼女の腕をチラリと確認する。銃創はできていない。

 でも外したわけでもない。彼女の腕は細いけれどもあの距離ならば確実に命中させられる距離だ。なにより手応えがあった。

 どうやら鎮静弾の鎮静効果は本当だったらしい。よし、次からは胴体を狙うことにしよう。

 注意をヤンデレのほうへ戻す。

 どうやら彼女は俺のことを知っている様子だ。

 だけど俺は知らない。

「どちらさんで?」

 俺はサイトから目を離してする。だが念のため銃口は女子生徒に向けたままだし、腰を落として臨戦態勢での誰何すいかだ。

「もぅ~、忘れちゃったんですか?」

 俺を誰かと間違えているのだろうか。

 いや、もしかしたら俺が忘れているだけかもしれない。

「上岡先輩の最後の定期演奏会に行ったじゃないですか」

「……どうだったかな?」

「前から十一列目でステージから見て左から四番目のとこで聴いていましたよ」

「わかるわけねぇだろ!」

 演奏に精一杯で指揮者と楽譜しか見てなかったぞ。

「楽器別講習会でも会ったじゃないですか」

「え?」

「当時一年生だった私が、ピストンが動かなくなって泣いているところを助けてくれましたよね? 先輩が二年生だったとき……」

「あ~、あったなそういうこと」

 思い出した。

 あの時の映像が頭の中にモノクロでフラッシュバックする。

 ピストンゲートというパーツがずれていただけだったあれか。

 俺は射撃姿勢を解いて、思いもしなかった再会を喜んだ。

「私のこと思い出してくれました?」

「もちろんだ。……というか自己紹介しなかったよな?」

 あのときは少し話したけど、自己紹介はしていない。

「よく考えたらそうですね」

 よく考えなくてもわかるだろ。それに俺の名前をどうやって知ったんだ。

「私は前田ひなた。好きなチューバ奏者は上岡宗太郎先輩です!」

「やめて! 恥ずかしいからやめて!」

 何でだよ。俺、めちゃくちゃへたくそだったぞ。

 どうせなら誰でも知っているようなプロの名前を挙げろよ。ロジャーボボとかさぁ。

「え~、恥ずかしくありませんよ。クラスの自己紹介でも言いましたし」

「俺が恥ずかしいって言ってんの! というかクラスの自己紹介でも言ったのかよ!」

 だから一年生が俺を見に来ていたのか。

 てっきり俺にモテ期が到来したと思ったんだぞ。それに舞香に浮気を疑われて大変だったんだからな。

「俺は――」

「上岡宗太郎先輩です。得意科目は社会科系で、苦手科目はそれ以外。このまえ英語の先生に呼び出されてました」

「何で知ってんだ! そして自己紹介になってねぇ!」

 どうして紹介を受ける側が紹介してんだよ。

「そして、私の未来の彼氏さんです」

「違うわ! そして質問に答えろ!」

「未来の旦那さんです」

「そういう問題じゃねぇ! 余計に遠くなってんじゃねぇか!」

『……宗太郎、その調子だ。そのまま本題に入れ』

 世間話をしていると、姪乃浜が指示を出してきた。

 前田に鎮静弾を撃ち込んでから既に二秒以上経過している。

 おそらく俺との会話が前田の落ち着きを保っているのだろう。

 だがこのままでは何も解決しない。姪乃浜の指示通り、本題に入らなければならないのだ。

 できれば触れたくない話題けど。

 ……よし。

「ところで前田さん?」

「もぅ、ひなたって呼んでくださいよ」

 せっかく勇気を出して本題に入ろうとしたのに、あっさりと話の腰を折ってくれやがった。

 前田は不満そうにほほを膨らませている。

 苗字で呼ばれたのがそんなに不服なのか?

「前田さ――」

「ひなた」

 下の名前で呼べと言っているのだろう。

 舞香以外の女子を下の名前で呼ぶのは抵抗があるが、前田はヤンデレだ。ここは言われたとおりにしておいたほうがいいかもしれない。

「ひなたさん?」

「ひ・な・た」

 下の名前で呼ぶのはともかく、それを呼び捨てにするのはかなり恥ずかしい。舞香の名前でさえちょっと恥ずかしいというのに。

「……ひ……なた」

「もう一度」

「ひなた!」

「はい、なんですか?」

 まずは第一関門を突破。

 あとはこのまま本題を切り出すだけ。

「ひなたの後ろで腰を抜かしてる女子と、俺の後ろで首から血を吹き出して倒れている奴がいるけど、二人はどうしてこんなことに?」

 カオスな状況だが、平静を装って聞いてみる。

「はい。こっちが坂本さんで、そこで倒れているのが栗野さんです。栗野さんのことは先輩も知ってるでしょ?」

 ひなたが坂本とやらの隣に移動して紹介する。その動きは友人を紹介するように見えなくもない。

 しかし、現実はそんなに微笑ましいものではない。その挙動のすべてが、坂本に対するひなたの怒りが滲み出ている。

 坂本は小さな悲鳴をあげて逃げ出そうとする。だけど、それは坂本の肩に置かれた手のひらで押さえ込まれた。

 決して力を入れているわけではなさそうだが、その仕草にはかなりの威圧感がある。

 動きを止められてしまった坂本は、泣きそうな表情を俺に向けるので精一杯みたいだ。

「その二人はどうしてこんな状況に?」

 ひとりは首から血を吹き出して倒れ、もう一人は腰を抜かしているなんてシチュエーションは学校にあるわけがない。

「この二人は上岡先輩の悪口を言っていたんです」

 明るかったひなたの声が突然低くなる。その低い声で説明しながら坂本をチラッと見る。

 坂本は俺に向かって「そんなことはしてない」とでも言うように頭を横に振りまくった。

 俺は坂本に「分かったから落ち着け」という意味を込めて頷いてみせたが、坂本は全く落ち着いてくれない。

「下手すぎて笑えるとか言ってたんですよ」

「ちが……わたしは……」

「嘘つくなっ!」

 ひなたが突然声を荒らげ、坂本の横っ面に膝蹴りを食らわす。そして彼女の手に鉛筆が現れた。

「先輩をバカにしていたのが栗野さんでも、それを聞いていたあなただって同罪よ」

 ああ、そういうことなんだな。

 坂本は人の悪口を言いそうには見えない。きっと栗野に付き合わされていたのだろう。

「上岡先輩」

「なんだ?」

「上岡先輩をバカにするやつらなんて、死んでしまったほうがいいですよね?」

 ひなたの瞳からハイライトが消えた。

 舞香が俺を殺した時の瞳と一緒だ。

「そんなことはないだろ」

「殺したって誰も文句は言いませんよ」

 俺が何を言っても聞いてくれない気がする。

「上岡先輩は何をしなくてもいいんですよ。この女は私が責任を持ってちゃんと始末しますからね」

 ひなたは坂本の髪を掴み、手にしていた鉛筆を首筋に近づける。

 坂本は呆然としていた。自分がこれからどうなるのかを理解していない様子、いや理解したくないのだろう。

「よせ!」

 俺は再びUSPを構え、ひなたの胴体にダブルタップ、そして頭部に照準を変えてもう一発。

 合計三発の発砲だ。もちろん全弾命中。

「えっ? きゃっ!」

 すぐさま彼女へ突進し、ひなたを突き飛ばした。

「こっちに来い!」

 ひなたが体勢を崩したのを確認すると坂本の腕を掴み、逆の方へ引きずっていく。

 彼女を沈静化できるのは六秒間。既に半分は経過している。その効果が切れるまでにできるだけ坂本をひなたから引き離す。いくら女子ともいえども、腰を抜かした人を引っ張るのは大変だ。

「どうして……」

 ある程度坂本を引っ張ったところでひなたが立ち上がる。瞳からは再び光が消えていた。

 盾になるように俺は坂本の前に立ちふさがる。怯えきった坂本は俺の開襟シャツの裾をぎゅっと握りしめる。

「私よりその女の方がいいって言うの?」

「そういうわけじゃない」

「嘘つき! 私を突き飛ばしてその女を守ったじゃない!」

「そうでもしなければこいつを殺ってただろ!」

「ええ、殺してたわ」

「だったら……」

「でも私はその女を殺さなきゃいけないの。その女は生きてちゃいけないの。……分かるでしょ? だからその女を渡して」

 ヒステリックにひなたが叫ぶ。その声を聞いて、坂本は俺の腕にしがみつき直す。

 俺のことをこんなに頼ってくれている。何があってもひなたに渡すわけにはいかない。

「早く渡してよ!」

 この場から坂本を逃がして、俺とひなたの二人きりになるのがいいだろう。

 さて、どうやってここから坂本を逃がそうか。

「さぁ! 早く!」

「ダメだ!」

 一番確実なのは俺がひなたの足止めをしている間に坂本を逃すことだ。だが坂本は今、腰が抜けて一人では動けない。俺が連れていかなければ坂本は逃げられないだろう。

 だからといって俺が坂本を担いで逃げれば、ひなたの足止めができない。俺は野球部で一応鍛えてある。だけど女子を一人担いで走ったとしても、さすがにひなたを振り切れはしない。絶対に追いつかれて坂本は殺される。

「……先輩、その女の味方をするんだね」

「そういうわけじゃない」

 ひなたが殺そうとするから守っているだけだ。

「ふーん……」

「どうした?」

「だったら先輩も殺さないと」

「おい、何を言ってんだ」

「だって、先輩はその女が大事なんでしょ」

「だからそういうんじゃ――」

「私を裏切った先輩にはオシオキしなきゃね」

 ひなたの手には鉛筆が現れた。

 坂本を逃がすことは後回しだ。まずはひなたを沈静化しなければならない。

 俺はUSPを構えようとする。しかし腕が動かなかった。

「!」

 いつの間にか坂本が俺の右手首をつかんで震えていた。

 掴んでいるのが上腕だったら腰だめで発砲できたかもしれない。持ち替えて左手で発砲できたかもしれない。

 だけど掴まれているのはUSPを持ったほうの手首。しかもUSPまで掴んでいやがる。銃口をひなたに向けることさえままならない。

 こうしている間にもひなたは徐々に迫ってくる。

「おい! 離せ! 殺されるぞ!」

 坂本を怒鳴りつけるが、USPを放してはくれない。

 彼女の手は恐怖で完全に硬直していた。

「頼むか――」

 俺の胸に熱い痛みが奥へと広がっていく。ひなたが俺の胸に体重をかけるようにして鉛筆を突き刺したのだ。

 めまいが襲ってくる。体を支えきれなくなった俺は床にへたり込む。

 俺がダメージを受けたことに気づいた坂本は小さな悲鳴を上げ、つかんでいた俺の手首を放り出した。離すの遅いよ。

『宗太郎。大丈夫か!?』

「あぁ……」

 意識の方は問題ない。

 ただ、力が抜けて体がうまく動かない。

 俺は胸に刺さった鉛筆に手をかける。

 そういえば胸に刺さった編み棒を抜かなかったことで助かった、という話を聞いたことがある。編み棒が出血を抑えていたんだっけ。鉛筆を抜くなんてバカなマネはよそう。

「逃げろ、坂本!」

 俺は坂本に逃げるように命じる。彼女まで流血させるわけにはいかない。血を流すのは俺と栗野だけで十分だ。

 だけどその心配はない。床を這いながらであるが、坂本はとっくに逃亡を始めていた。

 いつもの俺だったら「薄情なやつ」とか思っていたところだろう。だけど今回は別だ。よく勝手に逃げてくれた。

 床を這いずりながら逃げる坂本を見送ると、俺はひなたの方へと向き直る。彼女は失望や怒りをはらんだ瞳で坂本を見ていた。

「あの様子じゃ、そう遠くまでは逃げられないでしょうね」

 そうだろうな。

 だから時間を稼ぐんだ。

 俺はUSPをひなたに指向する。

 坂本が殺されてしまえばヤンデレワールドは崩壊し、この作戦は失敗してしまう。そしてひなたは俺をめぐって二人を殺した殺人鬼として全国に放送されてしまう。

 そんなニュースなんて見たくない。

 それに坂本が血を流すところなんて見たくない。

 血を流すのは俺と栗野だけで十分だ。

 しかし俺が向けたUSPは軽々とひなたに払われてしまった。

「まずは裏切り者の先輩をオシオキして……先輩をそそのかした坂本さんはそのあとですね……」

「おい、坂本はなにもしてないだろ」

 坂本は俺をそそのかしたりなんてことはしていない。

 ただ、俺が勝手に坂本を守ろうとしただけだ。

「先輩はなにも気付いてないようですね……」

「は?」

「坂本さんはいつもあんな感じなんです。いつも何かにビクビクして、いろんな男子の保護欲をかきたてるんです。そして用が済んだら男はポイ」

「いや俺は……」

「先輩だって「俺のことが好きなんだろ?」って思ったんでしょ!」

「違う!」

 俺はそんなナルシスト痛いヤツじゃない。

 それにそんな理由で坂本を助けようとしたわけじゃない。

 血を流して痛がる坂本の姿を見たくなかったから助けた。

 俺に頼ってくれたから、それに応えたかっただけだ。栗野はもう手遅れだけど、無傷の坂本はなんとしてでも守りたかったんだ。

「……先輩、残念です」

「え?」

「そこまで坂本さんに毒されているなんて。昔はそんなに物わかりが悪くはなかったのに」

 俺の胸に刺さっている鉛筆に、ひなたが手をかける。

「おい! やめろ! やめろぉぉぉぉぉ!」

 ひなたは俺の懇願を聞き入れてくれなかった。

 俺の胸に刺さっていた鉛筆は引き抜かれ、ぽっかりと空いた穴からは血液がドクッ、ドクッと心臓の動きにあわせて勢い良く吹き出てくる。

「あぐッ!?」

 再び鉛筆が胸に突き刺さる。

 抜いては刺されを数回繰り返し、俺は体を支えきれなくなり床に仰向けに倒れた。

 だがそんなことで彼女の凶行は終わらない。ひなたは俺の腹にまたがり、鉛筆を逆手に持ち替えて再び俺の胸を突いてくる。

 先週もこんなことがあったよな。

「先輩、安心してください。私を裏切った先輩だとしても、最期の最期までずっと側で見守りますからね。あの女の始末はそのあとです」

 俺はもうダメだ。助からない。

 いや別に生き返ることはできるけどさ。

 坂本は遠くまで逃げたかな?

 そう思って彼女が逃げた方向を見ると、坂本と目があった。

 坂本はすぐそこにいた。俺の方を振り向いていた。

「何やってるんだ! 早く逃げろ!」

 徐々に暗くなっていく視界のなか、戸惑いを見せていた坂本に怒鳴りつける。

 俺が力尽きたら、次のターゲットは坂本だ。そして俺はそんなに長くはもたない。

 坂本はとうとう這い出した。俺の方に向かって。

「違う! あっちだ! こっちにくるな!」

 さらに視界が暗くなるが、それでも俺は怒鳴り続ける。

 それでも坂本の接近は止まらない。

 伸ばした腕で追い払う仕草をしてみても、坂本の前進は止まらない。

「はや、く…とお……」


【SOTARO IS DEAD】


『宗太郎の死亡を確認。残りライフ二つ』

 暗闇のなか、どこからか聞こえてくる姪乃浜の声を聞く。

「拳銃をおさえられていたのはマズかったな」

『それを反省しているんだったら何も言うことはない。それでどうして急にヤンデレが発狂したか分かるか?』

「俺がひなたを突き飛ばして坂本を取り返したことが、俺に裏切られたように見えたんだろうな」

『分かっているならそれでいい』


【CONTINUE】


 ひなたは坂本の髪を掴み、首筋に鉛筆を近づけている。

 ここからやり直しか。

「上岡先輩は何をしなくてもいいんですよ。この女は私がちゃんと始末しますからね」

「やめろ!」

 俺はひなたに発砲する。

 発射したのは一発だけ。今回は二秒もあれば十分だ。

 命中を確認すると彼女のもとへと駆けはじめる。

 さっきはこのあと、ひなたを突き飛ばした。ひなたを突き飛ばしてまで坂本を守ったのが、彼女には俺が坂本を選んだように見えたのだろう。

 だったら次はこうするだけだ。

 俺は両腕でひなたの体をぎゅっと抱きしめた。五感で彼女を感じる。

 シャンプーの香り、官能的な吐息、加速する鼓動に存在感がありながらも控えめなCカップ……これは惜しいな。

「ひなた!」

「はっ、はい……」

 ひなたの瞳には光が戻り、柔らかそうな頬はみるみる赤く染まってゆく。

「お前に聞きたいことがある」

「はい、赤ちゃんは野球チームが作れるくらい……、十人は欲しいです……」

 まだ何も聞いてないだろ。

 というか何を聞かれると思ったんだ。まだ高校生だぞ。

 しかもひなたが思う野球はDH制なんだな。気が合いそうだ。

「そういうことじゃなくてだな……。なんで好きなチューバ奏者が俺なんだ?」

 一見、どうでも良さそうな質問だが、俺にはこれを聞くべきだと思った。

 ひなたが栗野を殺したのは、栗野が俺の悪口を言っていたからだ。しかもその悪口というのが俺の演奏技術についてのことだったらしい。

 だったらそこに何かのヒントがあるに違いない。

「ほら、俺以外に上手い奴は沢山いるだろ? それにひなたも『講習会の三年生』の話は聞いたことがあるだろ?」

 他の県はどうか知らないが、宮崎ではコンクールの前に県北の学校の吹奏楽部を集めて『課題曲クリニック』という講習会をする。

 代表校が演奏して、それをプロの指揮者や作曲家が指導する。そしてそれを他の吹奏楽部が見学するというものだ。

 この代表校というのは強豪校がするわけではない。くじ引きで決められる。

 俺が三年のとき、俺がいた吹奏楽部はその代表校となった。つまり俺たちは県北の吹奏楽部の目の前で吊るし上げを食らったというわけだな。

 その吊るし上げの開始早々に、講師がマイクを持って真っ先に俺を指差して「お前、本当に三年か? 一年じゃなくて?」と発言した。

 俺がさっき言った『講習会の三年』とはそのことだ。課題曲クリニックに参加していた吹奏楽部のなかでは、演奏技術を指摘するときに「お前、本当に三年か?」というセリフが流行したらしい。

 今となっては懐かしい思い出だ。

 あれっ? なんだか涙が出てきた。人は昔のことを思い出すと涙がでるんだね。

 ともかく俺が言いたいのは、俺の演奏技術はアレだったということだ。

「『講習会の三年』?」

「知らないのか?」

「……はい」

 おかしいな。

 当時の吹奏楽経験者では、俺のアレな演奏技術を知らない奴はいないはずなのに。

「それはなんですか?」

「いや、知らなくていい」

 というか聞かないでくれ。

「ともかく、何で俺の演奏が好きなんだ? 俺はかなり下手だったぞ」

「そんなことありません!」

 ひなたは力強く否定した。

 なんでだろう? どうして目頭が熱くなるんだろう?

「だってその……、先輩は楽しそうに吹いていたから……」

 そんなの当たり前だ。

 あの時の俺は、演奏は下手だったが、チューバに対する愛情は誰よりもあった。

 楽器に『皐月』って名前を付けていたし、その『皐月』と会話したことだってある。そしたらなぜか友達とか、俺より先に挨拶してくれる後輩とかが少なくなって……。

 そろそろ泣いてもいいかな?

 とにかく、下手の横好きってやつだった。

 チューバは誰よりも好きだった。

「私、最初はフルートを吹きたかったんです。でももう一人そういう人がいて……」

「結局じゃんけんになったと」

「はい」

 吹奏楽あるあるか。

 チューバに配属された理由が分かってしまった。

「そしたら、私、負けてしまって……」

「それで誰にも希望されなかったチューバに飛ばされたと」

「そういうことです」

 こういうのは吹奏楽部ではよくあることだ。

 フルートとかトランペットとかの有名な楽器には希望者が集中する。その一方でチューバとかコントラバスなどの低音楽器には希望者がほとんど来ない。

 というか俺の時は希望者どころか見学すら来なかった。

 とにかく、チューバを自分で希望するやつはほとんどいない。たいていの吹奏楽部ではこういう時にはじゃんけんで楽器を決めて、それに負けた人が低音楽器に飛ばされてくる。

「それで最初はいやいや吹いていたんです」

 好きじゃない楽器を演奏するのはかなりの苦痛に違いない。

 幸い俺はチューバが好きだったからその感情は体験していないが、それでも部活をやめなかったひなたは凄いと思う。

「でも、その気持ちも講習会までだったんです」

 チューバが故障したときだな。

「あの時、私のチューバは突然バルブが動かなくなったんです。楽器を壊しちゃった。顧問の先生に怒られる、餅原先輩に怒られる。どうしよう、どうしよう……って怖くなって、とうとう私は泣き出してしまったんです。あ、餅原先輩は私にチューバを教えてくれた先輩ですよ」

「よく知ってる。俺も世話になった先輩だ」

 正しくは、「俺が世話した先輩」だな。

 話を戻すけど、あれは壊したうちに入らねぇよ。

 もしあれが壊したうちに入ったとしても、餅原あいつに比べたらずいぶんマシだ。

 あのアホに至っては、くしゃみの勢いでマウスピースに頭突きを食らわせて、マウスパイプをへし折ってリペア送りにしたんだぞ。しかもコンクール直前のリハーサルで。

 そのとき代わりのチューバを貸したのが俺だ。

 まったく先輩も後輩も世話が焼けるな。

「泣いている私に声をかけてくれる人はいませんでした。でも上岡先輩は別だったんです。私に優しく声をかけてくれたんです」

 そうだったな。

 というか俺、なんで声をかけたんだっけ?

「先輩のはロータリーチューバだったでしょ? なのに形式が違う私のピストンチューバにも詳しくて、一瞬で原因を見つけてあっという間にバルブを分解しましたよね?」

 チューバと言ってもいつか種類がある。

 バルブ、つまり音を変える装置の方式で分類すれば大きく二つ。ロータリー式とピストン式だ。

 ロータリー式というのはバルブの中に収められたパーツが九十度回転することによって、空気の通り道を切り替える方式のものだ。俺や餅原が中学時代に使っていたものがこれだな。

 そして、ピストン式というものはバルブの中に入っているパーツが上下に動くことで、空気の通り道を切り替えるというやつだ。ひなたが使っていたチューバがこの方式。

 ちなみにピストンチューバはバルブの位置で、フロントアクション、トップアクション、サイドアクションに分類される。ひなたが吹いていたのはYBB103って型式のフロントアクションチューバだ。

 もっと言うならばチューバは音域によっても分類される。ユーフォニアムより低い音が出るバスチューバと、伴奏に使われるコントラバスチューバだ。日本でチューバと言ったら大抵がコントラバスチューバを指している。

「ロータリーを分解するんだったらわかります」

「……一応今後のために言っておくけど、アレを分解したら顧問にぶっ殺されるぞ」

「ともかく、知らないタイプのバルブの構造を知っているなんて、とてもチューバが好きなんだなって思ったんです。それに私が聞いてもないのにチューバの歴史について語りだしましたよね? 「ボンバルドンがどうだ」とか、「オフィクレイドがこうだ」とか……」

 たしかそういう話もしていたな。

 ボンバルドンというのはチューバの元となった楽器だ。チューバと比べると横幅が狭くてベルが小さい。オフィクレイドにマウスピースを付けたのがこの楽器の起源らしいぞ。そしてオフィクレイドを開発したのが――

「周りがドン引きなのに説明を続けてくれて」

 ごめん。

 自粛するよ。

「で、そのとき思ったんです。チューバにだって夢中になれる何かがあるんだって。もちろん、基本はリズムだから目立つことはありませんけど――」

「そこがいいんじゃないか! いつもはリズムばっかり吹いているが、たまに来るメロディパート。あのときはみんな「おっ!」ってなるじゃないか!」

 まぁ、俺がメロディを吹くときは、みんな「しくじるんじゃねぇの?」って目で俺を見ていたけどな。俺じゃなくて指揮者見ろよ。

「はい! そこなんです! 子宮に響くようなメロディなんてトランペットやクラリネットにはできませんからね!」

 残念ながら子宮を持っていないからひなたの言う感覚は分からない。だけどその意味は分かる。体の芯が共鳴するような感覚だろう。

「俺たちは音楽の方向性といい境遇といい、なんだが似ているな?」

「え? 境遇?」

 ひなたは驚いた表情を向ける。そりゃそうだ。俺がチューバを吹くに至った過程なんて、誰にも言ったことがないからな。

「これを言うのはひなたが初めてなんだけど。俺もじゃんけんで負けてなかったら、チューバを吹いてなかったかもしれない」

「え? さっきチューバは自分で希望したって……」

「チューバはな。本当は俺、軟式野球部に入るつもりだったんだ」

 なにをどう間違ったら吹奏楽に行くんだと思うだろ? 意外と簡単なことだ。

「俺のいた小学校は、卒業の直前に近所の中学校に見学に行くイベントがあるんだ。そのイベントでは部活も見学する。俺は軟式野球部を希望したんだけど、野球部って花形の部活だろ?」

 あと花形といえばサッカー部とか……そのくらいだな。

「希望者が多くて、じゃんけんで決めることになった。俺はそれに負けて、全く興味のなかった吹奏楽の見学をすることになってしまったわけだ」

「先輩は吹奏楽に興味があったわけじゃなかったんですね、だったらどうして……」

「見学はあまり乗り気じゃなかったんだ。でもそれは音楽室に入るまでだ」

「?」

「顧問が面白い先生でね、なんだか吹奏楽も面白そうに思えてしまったんだ」

 それで中学にあがったら吹奏楽に入部した。

「チューバを希望したのは俺の姉ちゃんが吹いていたから。まぁありきたりな話だけど、ひなたの話と似てるだろ? お互い、じゃんけんに負けなかったら今はこうして会うことも無かったんだろうな」 

「そうかもしれませんね」

 ひなたがニッコリと笑うと、俺の視界が真っ白になった。


【MISSION COMPLETE】


「この人が上岡先輩よ」

「は、はじめまして……」

「え、あ、こちらこそ」

 何が起こったんだ。確か俺はひなたを(やむを得ず)抱きしめていたはずだ。しかし、今の俺たちは普通に廊下に立っている。

 それに記憶もなんだかおかしい。

 たしか俺がこの場に来たときには、ひなたが坂本を殺そうとしているところだった。しかし、ひなたが栗野や坂本と仲良く話をしていたような気もする。

 なにがどうなっているんだ。

『宗太郎、説明は後だ。話を合わせておけ』

 俺は片耳イヤホンを外して、姪乃浜の指示に従う。

 人と話すときはイヤホンを外さなきゃね。

「噂はいつも栗ちゃんから聞いてます」

「……へぇ」

 俺はチラリと栗野のほうを見る。

 おまえ、栗ちゃんって呼ばれてるのな。

「なんかえろいね」

 俺は視線を再び坂本に戻す。

「俺について栗ちゃんはなんて言ってた?」

「えっと……その」

 坂本は言いにくそうにもじもじとし、栗ちゃんは赤面しながら俺に可愛らしく強烈なパンチを当ててくる。

 ちゃんとわかってるよ。

 二人とも俺のことが好きなんだろ?

 栗野は俺をディスっていたといえども、俺の話をしていたことに変わりはない。好きな人の話をするって楽しいもんな。俺の悪口を言いながらもその感情が顔に出て、俺への好意がひなたに悟られてしまったのだろう。

 そして坂本。こっちは栗野とは反対で俺の悪口を聞かされる立場だった。好きな人に関する話って聞くだけでも楽しいよな。聞きながらもその感情が顔に出て、ひなたの殺害対象に入ってしまったのだろう。

 なにより俺が瀕死に追い込まれたとき、追い払っても戻ってきた。きっと大事な俺を助けようとしてくれたのだ。

「言いにくいことだったら別にいいよ」

 二人とも答えにくいことを聞いて悪かったな。


 俺はひなたたちと別れて、階段を降りていく。

 ひなたの思いが俺に伝わった。それが彼女を落ち着かせたのだろう。

 踊り場に出たところで立ち止まり、イヤホンを取り出して左耳に装着した。

「さっきはなにが起こったんだ?」

『宗太郎がヤンデレの鎮圧に成功して、ヤンデレワールドが消滅した。それでいつもの学校に戻ったわけだ』

「彼女たちの記憶はどうなったんだ?」

『あの場所にいた民間人からは前田がヤンデレ化していた時の記憶は消え、大事な記憶だけが違う形で残っている。そして今回のヤンデレ事案を解決した宗太郎にはダミーの記憶と任務での出来事の両方の記憶が残る。まぁSSTをどのような状況・方法で投入したかにもよるんだが』

「分かった」

 よくわからないけど。

『ともあれ、任務は成功だ。よくやったな』


 いよいよ待ちに待った舞香との昼休み。そしてできれば来てほしくなかった舞香の手作り弁当の時間でもある。

「長かったね、何してたの?」

「ちょっと吹奏楽時代の知り合いとばったり会ってさ、つい話し込んでしまったんだよ」

「ふ~ん、それだけ?」

 舞香は何かを疑っているようだ。

 俺は舞香に言えないような事をしていたわけじゃない。やっていたことと言えばSSTとしてヤンデレ鎮圧作戦に行っていたこと。そして、その作戦でヤンデレ化したひなたを抱きしめて鎮圧――これは言えないな。たとえ守秘義務がなくても。

「用事があるって言ってたよね? 知り合いとばったり会う予定があったの?」

「………………」

 確かに人と会う予定はあった。その相手はひなたじゃなくて鬼塚だ。

 だけどこの浮気を疑われているような状況でそれを言うわけにはいかない。

 だってあいつ俺のタイプとは程遠い。そんなやつと会ってたなんて言おうものなら、俺は巨乳好き変態と思われてしまう。

 みっともないEカップより惜しいCカップだ。そのくらいなら「ひなたを抱きしめてた」と言ったほうがずいぶんマシだ。守秘義務なんてクソ喰らえ!

「たまたま会うことが分かってたんだ……。ふぅ~ん……」

「いや、だからその……」

 といってもそれを言う勇気は俺にはない。

 舞香とひなたは顔見知りだ。その顔見知りと三角関係となれば普通よりもドロドロとしたことになってしまう。

 最悪、包丁でめった刺し。

 俺が答えに詰まっていると、舞香の瞳が恍惚と輝きだした。

「……ストーカー?」

「違うわ!」

 舞香が嗜虐的な笑みを浮かべて問いかけてきたものを、俺は全力で否定した。

 こいつ、恋人をストーカーに仕立てあげようとしてやがる。

「じゃあ、会いに行っていたんだね。私を放ってまでして……」

「そういうわけじゃ――」

「私よりひなたちゃんのほうが好きなんだ……」

「違う!」

 舞香が悲しそうな表情をして、俺は咄嗟にそれを否定する。

「じゃあ、宗太郎は誰が一番好きなの?」

「………………」

 恥ずかしくて言えない。

「誰?」

 声が怖いよ、舞香さん。

 ここはどう頑張っても逃げられそうにない。覚悟を決めよう。それにヤンデレ化させるよりかはマシだしな。

「ま……舞香……」

「!」

 おい!

 人に言わせておいてなんで赤くなってるんだよ。

「というか、なんで俺がひなたと話し込んでたって知ってるんだ」

「そ、それは」

「もしかして舞香……ひなたが好きなのか?」

「ちが……そう…た…」

「そうだったのか。俺よりひなたのほうが好きだったんだな」

 だからひなたをストーキングしていた。それならば俺が彼女と話していたことを知っていてもおかしくはない。

「まさか俺はひなた以下だったなんてなぁ。舞香は初めての彼女だったからめちゃくちゃ大事にしていたつもりなんだけど、舞香にとってはどうでもよかったんだな。舞香に愛されるひなたが妬ましいぞ」

 やべぇ、舞香が涙目になっている。

 ちょっとからかいすぎたかな。

 舞香は俺と仲良く話すひなたに嫉妬して、ちょっと問い詰めるようなことを言ったんだ。

 しかも用事で出かけているときの出来事だ。浮気していないか不安だったというのもあるだろう。

 俺はさりげなくフォローする。いつもの性格イケメンモードだ。

「ごめんごめん、ちゃんと分かってるさ。本当は俺が好きなんだろ?」

「そんなことはどうでもいいの!」

 どうでもいいの!?

「ねぇ、俺のこと好きだよね? そうだよね!? ねぇ舞香。ねぇ、ねぇってば!」

「しつこい!」

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