第四話 伝染する怪異と祟りの発露

『〝まさん〟を食べて』


 朝、泥のような眠りから目を覚ます。幻聴は聞こえなかったと自分をだます。

 かすむ視界をこすれば、否応いやおうなくそれが目に入る。

 一月前に出来た天井の染みは、いつの間にかまた大きくなっていた。


 人の顔のようにも見えるが……錯覚さっかくだ。

 シミュラクラ現象。あるいは、パレイドリア。人間が持ち得る、創造性のたまもの。そんな話を、センセーから以前聞かされた。


 ……もしかすると、人類がプロメテウスの火を手にする以前、知恵の実をかじって目が開く前は――夜の闇の中でうごめくものすべてが、恐ろしい化け物に見えていたのかもしれない。


 未知という恐怖。

 理解できないという戦慄。

 いま、俺にも同じ現象が起きているとすれば――


「馬鹿げたことを……」


 うめきながら、洗面所へと向かう。

 無知蒙昧むちもうまいな思考を洗い流していると、チャイムが鳴った。

 魚眼レンズから外を覗けば、景色が真っ赤に染まっていてぎょっとする。

 と、同時に強い安堵。


 ノブをひねりながら、俺は怒鳴る。


「小春! 悪戯も大概にしろ」

「えっへっへ。きりたんビビった? ほーんと成長しないんだから」


 きゃらきゃらと笑いながら中に入ってくる彼女の手には、鍋が一つ握られていた。


「シチュー。作り過ぎちゃって」

「どうみても二人分ちょうどじゃねーか」

「いっぺん言ってみたかったの! で? このままだと無駄になっちゃうけど、一緒に食べる?」

「む」


 まあ、腹は減ってるし?


「……食ってやっても、いい。食い物に、罪はないから」

「もー、素直じゃないんだから」


 やはりほがらかに笑いながら、彼女は台所へと向かった。

 悪友こはるが隣に越してきてから三日。

 俺は、どこか彼方かなたへ失ってしまっていたような、平穏と日常を取り戻していた。

 彼女の存在だけが、俺を現実へと、つなぎ止めてくれていたのだ――



§§



 小春と俺の腐れ縁は、生まれたときから続いている。

 彼女の生家せいかはすぐ隣だったし、顔を合わせればつかみ合いの喧嘩ばかりしていた。

 どっちが先にご飯を食べ終わるかとか。

 綺麗な泥団子を作った方が勝ちだとか。

 石を積むのはどちらが上手いかとか。

 本当に些細ささいで、いまからすれば顔から火が出てしまうような幼稚極まる競争ばかり。


 昔の小春は俺より背が高かったし、力も強かった。

 それが逆転したのは、いつからだった。

 ……よく覚えていないが、中学に上がる直前ぐらいから、彼女は俺へ、怖い話をするようになった。


 どこで聞きかじってきたのか知らないが――いま思えば浄一センセーから教えられていたのだろう――古今東西、それこそ学校の怪談のようなものを俺に語って聞かせた。

 俺が怖がるたびに、彼女は大喜びで。

 思えばそれは、当てつけだったのかも知れない。


 あるいは、彼女にとって精一杯の――

 いや、やめよう。


 それから。

 高校生になった頃、俺たちは少しだけ距離を置くようになった。

 廊下ですれ違っても素知らぬ顔で、一緒に登下校することもなくなった。

 単純に学業や部活が忙しかったから……というのもあるだろうが、それ以上に、周りの反応が面白くなかったからだ。


「卒業したら結婚するのか?」

「小田原さん、永久就職できてうらやましい」

「優良物件だぞ、あんないい子、他にいないって」

「逃がすんじゃないぞ」

「尻に敷いてやれ」

菱河ひしかわの家は土地持ってるしね」

「あいつはから」

「だって、切人だもの」


 ……来る日も来る日もかけられる、大人たちと、友人たちの心ない言葉。

 凝り固まったクソのような思考と、デリカシー皆無な忠言という名の揶揄やゆに、俺たちはうんざりしきっていて。


 だから、素直に驚いた。

 俺が大学への進学を決めたとき、彼女が同じ進路を定めたことに。


「小春はさ」

「むぐ?」

「なんで、翠城大学に進学したんだ?」

「――――」


 シチューを口に含んだところで俺が問い掛けたものだから、彼女は随分と奇妙な顔をした。

 ゆっくりと口の中から引き抜いたスプーンを、彼女は空をかき混ぜるようにくるくると回す。


「就職に有利だから?」

「おまえ、嘘が下手すぎるな」

「嘘って言うな。下手って言うな。……嘘じゃなかったんだよ。本当に、あたしは。あたしは、さ……」


 なにかを言いかけて、彼女はうつむいてしまう。

 ごにょごにょとほどけていく言葉の中には、「言われるの、嫌じゃなかったんだ」などという戯言ざれごとも混ざっていた。


「前にも言ったけど……あたしはきりたんに借りがあるの。命に関わる借りだよ」

「俺には覚えがないが、それと進学に関係があるのかよ」

「うー……! この朴念仁ぼくねんじん! 唐変木とうへんぼく!」


 なんだよやぶからぼうに。

 やめろ、殴るな、痛い!


「もう!」


 ぷりぷりと怒っていた彼女は。


「あ、そうだ。聞いてよ、きりたん!」


 突然なにかを思い出したように笑顔を浮かべ。


「あたしの部屋にも、怪異が出たんだって!」


 ……おおよそ、歓迎できない言葉を、口にした。

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