第二話 日常を蝕む赤

 十辰じゅうたつはバイトがあるからと夜の町へ。

 小春は酒を買いに量販店りょうはんてんへと向かい。

 俺はひとり、帰途についた。


 すっかり日の暮れた道を、とぼとぼと歩く。

 遠くでは犬の遠吠えが聞こえる。


 ポチが鳴いているのだろうかと、的外れな感想を抱きながら、部屋の扉へ手を掛け――携帯が着信。

 取り出すと、矢継やつばやにメッセが飛んでくる。

 小春だ。


 要約すると、明日は食べに行くからマジ覚悟しろと書かれていた。

 本気でたかる気かよ……


「……まあ」


 服を買うのに付き合って欲しいという彼女の申し出を、ホラースポットへの不法侵入というお世辞にも褒められたものではない理由で駄目にしポシャらせたのは俺だ。

 埋め合わせぐらいはしなきゃ、嘘だろう。


「けど……今日はなんか疲れたな……」


 カーペットの上に置かれたスリッパへと履き替えるのも忘れて。

 上着も脱がず、ベッドへと倒れ込む。


 出しっぱなしの炬燵こたつの上には、朝もらった菓子折りが、そのまま放置されている。

 ゼミに持っていく義理もないし、小春に食べさせてしまうかと、うつらうつら考えながら、意識を手放した。

 暗闇のなかに落ちていく感覚。


 ――――――

 ――――

 ――


 どれほど眠ったか解らない。

 ふと、意識が戻った。

 違う。

 


 なにに?

 解らない。

 だが――頭上から、視線を感じる。


 入り口の鍵を閉め忘れた?

 あるいは泥棒が入ってきた?

 ありえない。

 だったら、わざわざ俺を観察なんかしないで、金目の物を掴んですぐに逃げるはずだ。


 じゃあ、はなんだ……?


 脂汗あぶらあせが吹き出す。

 目を開けようとして――そこで、俺は初めて気がついた。

 全身が、言うことを聞かない。


 金縛かなしばりだ。


 ぎゅっと、自由が利かない中でまぶたに力を込めた。

 目は開けられない。そもそも開けてはならない。

 起きていると気づかれてはならないし。

 見ては、ならない。


 高い山へ登ったときのように、キーンと耳鳴りがする。

 心臓の音が、やけに際立ってバクバクとうるさい。


 奇妙な音が室内に響いた。


 部屋の中を、ナニカが動いて回っている。

 衣擦きぬずれの音とするには重く、生々しい音。


 ず、ずず、ず……


 重たいものが、いずり回る音。


 ず、ずず、ず……


 はじめは俺を見おろしている。

 それから一定の間隔かんかくで、ベッドの周りを、炬燵こたつとの間を、それは行ったり来たりして。


 ず、ずず――ピタリ。


 俺の顔をのぞき込む位置で、また止まる。

 なまぐさく、なまぬるい風が吹きかけられる。獣臭じゅうしゅう否応いやおうなく、なにものかの吐息を想像してしまう。


 自分の息の根が止まりそうだった。

 荒くなる呼気を悟られないよう極力押し殺し、飲み下しそうになる唾を限界まで耐え。

 それでも、その〝なにか〟が立ち去らないことに絶望しかけたとき。


 ――ぴちゃん。


 水の滴る音を、聞いた。


 直後、全身が金縛りから解放される。


「うわぁあああああああああ!?」


 悲鳴を上げながら跳ね起き、めちゃくちゃに手を振り回す。

 だが、恐る恐る開けた目は、予想に反して化け物の姿など映さなかった。

 ただ、代わりに。


「おい、おいおいおい……嘘だろ……」


 ぴちゃん。

 天井から、したたり落ちる、赤錆あかさびた水滴が。

 それが、もらったばかりの菓子折りを、びしょびしょに。


 まるで血の海に沈めるように、濡らしていたのだった――



§§



『結局――上の階の水道管が破裂しただけだった。そうだね?』


 浄一センセーが、念押しするように画面の向こうからたずねてきた。

 俺が頷いてみせると、彼は四角くとがった顎を撫でて、小さくうなる。


 錆び付いて耐用年数を過ぎたパイプが割れて、水がこぼれ、下の階だった俺の部屋に流れ込んできた。

 菓子折りを水浸しにした赤茶色の液体は、ただそれだけのことだったのだ。


 蓋を開けてみれば、なんてことない日常的な出来事。

 恐ろしいことなどひとつもない、単なる現象だ。

 直前に、よくない夢を見ていたから勘違いしてしまっただけのことで。


『けれど、室内には染みが残っているのだろう? なにかが這いずり回ったような染みが』

「言い方が恣意的しいてきですよ。俺を怖がらせようたって、そう上手くはいきません」

『例の御朱印帳はどうだい? ページが減っていたり――つまり君が死んでいたということは』

「ないです。ないない。そのままでしたよ」


 すっかり安心しきっている俺が、カラカラと笑えば。

 なぜだかセンセーは、表情を物々しくしてみせた。


『目覚めるとき、水の滴る音がしたと言ったね?』

「それは、水道管の」

『血の滴る音、ではないかな?』

「――――」


 彼の言葉を受けて、絶句する。

 ……待ってくれ。どうして、そういう話になる?

 これは、何事もなかったと、考えすぎだったと、笑い話にするべきところじゃないのか?


 なのに、なぜ蒸し返すんだ。

 わけがわからない。


「――っ」


 なにかを理解しかけて、かぶりを振る。

 恐怖で叫び出しそうなのに、ぺたりと喉が張り付いて、声を出せない。

 その間隙を突いて、センセーが続ける。


『ぼくがいま、追いかけているテーマがあると言った事を覚えているかい? そしてそれは、君から聞いた話に繋がっていると』


 たしか、上半身の怪……


『そうだ。今回の一件は、まさにそのそれじゃないかと、考えている』


 ふと、嫌な光景が、脳裏を過った。

 真夜中、部屋のドアが開く。

 開いた扉の先には、何者もいない。

 けれど、ずるり、ずるりと這いずる音とともに、上半身だけの女が、姿を現し、遅々ちちとした歩みで――わざともったいぶるようにして、中へと入ってくる。

 着ている服は、元は白かっただろうに血で赤く汚れ。

 女がうごめくたび、床にかすれた朱色のラインが引かれる。

 それはにじり寄り、ベッドの上によじ登ると、眠っている俺の顔を見おろして。


 ――ニタァ、と笑うのだ。


『いや……少し怖がらせすぎたね。君の言うとおり、万事解決かも知れないんだ。そう、気落ちしないでくれよ』


 顔色を青ざめさせた俺をなぐさめるように。

 センセーは、らしくもない愛想笑いを浮かべた。

 俺は。

 ただ、震えていることしか出来なかった――

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