第26話

 都内は1DK。

 一人で住むにはちょっと贅沢な洋室6帖にDK8帖。

 家賃8万6千円。築30年、駅徒歩12分。

 言わずもがな俺の自宅だ。


「別にもっと寝てていいのに」


 洋室の壁際へと置かれたベッドのうえで、愛姫がパジャマのまま俺に声をかける。

 ベッドは一つしかないから俺はその隣でマットレスと布団を敷いて寝ていた。

 最初の方は気を使ってダイニングに寝ていたのだが、愛姫が気にせず同じ部屋で寝ろというので今は寝起きを共にしている。


「どの道お前が準備してたら目が覚めるからいいんだよ。朝飯作るから先に着替えちまえ」

「分かった。あと逸馬、確か牛乳切れてる」

「マジか。じゃあ今日の帰り買ってきてくれ」

「うん」


 洋室の扉を閉めると、冷蔵庫から材料を取り出して調理開始だ。

 朝飯に限らず大したもんは作れないから、失敗しないようシンプルなメニューを毎日作っている。

 トーストの上にマヨネーズで土手を作って卵落として、ハムとチーズを乗せてオーブンに突っ込む。シンプルだ。どんなバカでも不味くなりようがない。

 コールスローの袋から野菜を皿に移し、パックのオレンジジュースとコップを用意する。

 トーストを焼いてる間に洗面所で歯を磨いてると、着替え終わった愛姫も歯ブラシに手を伸ばしてきた。


 ——愛姫と暮らすようになってから、早三ヵ月が過ぎていた。

 その間は中々に怒涛の日々だったが、一通り手続きや処理が終わって落ち着いたように思う。

 俺の会社は始業時間が遅めだが、小学校はやたらと朝早いので愛姫の生活サイクルに合わせるようにしていた。

 以前は夜型だったが、今では12時前に寝てるので健康的かも知れない。

 ただ、生活サイクルだけを言えばだ。

 

「マジでしんどいわぁ……」


 仕事の休憩時間、今日は外出の用事がなかった俺は昼を食って早々に机で突っ伏していた。

 正直子育てを舐めていたと言わざるを得ない。

 姉貴の「ほら見たことか」という呆れ顔が浮かぶようだ。


 最初の方は色々と大変な分、勢いで何とかなった。

 逆境に立たされているとやるしかねぇって気合いも入るが、次第にそれが日常になってしまうと、先々のことに眩暈を覚える。

 

 まず何が致命的かと言ったら、俺は保護者としての経験値が圧倒的に足りていない。

 子育てという一点において、自分がどれだけ世間知らずだったか痛感する。

 学校の手続きや担任とのやり取り一つ取っても、普通の親なら知っていて当たり前のことを俺はわざわざ確認する必要がある。

 愛姫の身の回りの物の購入や小遣いや門限、髪を切りに行かせたり、友達の親との接し方一つ取っても、事ある毎につまづいてその度調べる必要がある。


 端的に言うと俺は新入社員みたいなもんだった。

 右も左も分からないド新人だから、どんな仕事でもモタついて時間がかかるし、自然にこなせない。

 そのくせ即戦力を求められるもんだからプレッシャーが半端じゃない。

 即戦力というか、なんなら愛姫の最高責任者は俺だ。

 普通の人間が手探りで苦労しながら、それでも一つ一つ積み重ねてきた親としてのスキルが俺にはないんだ。


「どうしたんすか先輩? 腐った死体みたいになってますけど」

「……育児疲れだ」

「ははは、死ぬほど似合わないセリフっすね」

「冗談とかじゃねーんだよ。マジでキツいんだって」

「早くないっすか? まだ三ヶ月とかでしょう?」


 その軽い調子に少しイラッときたが、俺も体験するまで同じような認識だったかも知れない。

 外側からじゃ分からないもんだよな。

 或いはこいつなりに気を使って笑い話にしようとしてくれてるのかも知れないが、いずれにしても独身には分からない苦労だ。


「逆だよ。三ヵ月過ぎて、さぁこれからこの日常が続いて行きますよ、って状況になったからきついんだ」


 何が一番やばいって、経験値の少なさや労力もそうだが、自分の時間がまったく存在しないことが一番やばい。

 定時に上がるために業務スケジュールもカツカツだし、仕事が終われば直帰で外食やちょっと飲みになんてとんでもない。

 帰れば慣れない料理が待ってて、休日は溜まった家事や愛姫の身の回りの物揃えたり、学校の授業や行事の準備だったり、連絡や書類や手続きであっという間に消化される。


「あれだな、子育てって奴隷に近いわ」

「でも娘さん、真面目で我儘言ったりもしないんでしょう?」

「あいつが原因なんじゃなくて、人一人育てるって行為自体の作業グロスが重いんだよ。仮に顧客全員が素直でやりやすかったとしても、契約本数のキャパ超えたらパンクするだろ。それと一緒だ」

「なるほど。つまり日々忙殺される俺も会社の奴隷であると」

「言ってろ」


 実際のところ、愛姫はよく出来た子供だ。

 成績は良いし、我侭も言わないし、仕事に理解があってしっかり者で多少のことは一人で出来る。

 唯一心配してた新しい学校も、担任曰く早々に馴染んでるらしい。


 これが愛姫じゃなかったら本当に地獄だろうな。

 ……いや、逆か。

 本当の意味でクソガキだったなら、俺はきっと手を抜ける。

 あいつがガキの癖に大人で、俺の苦労まで理解しようとしていて、心配をかけまいと立派だから退路が断たれたような気になるんだ。

 そんなことを考えちまう自分にも心底嫌気が刺す。小せえよな、本当に。



「ただいまー」


 仕事が終わりドアを開けて帰宅を告げる。

 愛姫は出迎えこそはしないものの、俺が帰るとそれまでしていたことを中断し必ずおかえりと返してくる。

 そのかしこまった様子がよそよそしくて、俺も毎度少し緊張してしまう。


 だけど今日は返事がなく、心配になった俺は足早に奥の部屋の扉を開けた。

 しかしそれは杞憂で、愛姫がベッドのうえで横になっていた。


「……ん、おかえり」

「珍しいな。疲れてんのか?」

「ううん、ごめん」

「いいよ。飯作るから横になってろ」

「大丈夫。あと牛乳買ってきたから」

「あぁ、ありがとな」

「ご飯も炊いておいたから。準備するから逸馬は着替えちゃって」


 寝ぼけまなこをこすりながら、愛姫が夕飯の準備を手伝おうとしてくる。

 こいつなりに普段から俺の負担を減らそうとしてくるのだが、俺はそれにどの程度甘えていいのか未だにさじ加減が分からなかった。

 家事の分担なんて簡単に言うけど、小学生の頃にそれを継続させることは充分に負担だろう。

 ましてこいつは新しい環境なんだ。出来るだけ周りの子供と同じようにさせてやりたい。

 普通の親ってどの程度子供に手伝わせるんだろう、家のことは親がやって当たり前なんじゃないか、そう考えると自分一人でやるべきのような気がしちまうんだ。

 

「いや、いいよ。テレビでも見てろって」

「別に見たいのない」

「じゃあ先に風呂入っちまえ。大して手伝うことないからさ」

「……分かった」


 愛姫がやや不満げながら洗面所へ向かう。

 今日のメニューは麻婆茄子にサラダに味噌汁だ。

 こういう〇〇の素シリーズって最強だよな。誰が作ったって美味いわ。……まぁ初めて作ったときは片栗粉固まらせて失敗したけど。


 けれど、その食卓を二人で囲むことはなかった。

 風呂から上がった愛姫の様子がおかしかったからだ。


「麻婆茄子? おいしそうだね」

「いやちょっと待て、お前本当に大丈夫か?」


 風呂でのぼせるにしては目が虚ろでややふらついてるように見える。

 俺はコンロの火を切ると腰を落として愛姫の顔を覗き込んだ。


「大丈夫よ」

「そうは見えないんだって。ちょっと額貸せ」


 おでこに手を当てて体温を計る。

 ……いや、ダメだろ、これ。


「お前めちゃくちゃ熱あるじゃねぇか! なんで早く言わないんだよ!!」

「これぐらい平」

「ちょっと熱計ってみろ」


 有無を言わさずベッドへ横にさせると、大慌てで棚から体温計を引っ張り出す。

 幸い電池は切れてなくて、数分後に愛姫の脇から電子音が鳴った。


「は、はぁあああ!? 39.6℃だと!?」

「べ、別に平気よ。私、昔から熱上がりやす、うっ……」


 愛姫がしゃべってる途中で口元に手を当てる。

 咄嗟に両脇を抱えてトイレまで運ぶと、背中をさすった。


「どう見ても平気じゃないだろ。動くのしんどいかも知れないけど病院行くぞ」

「……うん」


 吐き気が一旦落ち着いた愛姫に俺の上着をかぶせると、首の後ろと脇の下にタオルで巻いた保冷剤を当てて担ぐ。

 仕事柄、近くで救急外来をやってる病院は分かってる。

 外に出てタクシーを拾うとそのまま飛ばしてもらった。


 病院に着き受診を待つ間、待合い室の長椅子に愛姫を横にする。

 見るからに辛そうで呼吸も荒い。

 俺が帰ってきたときは相当やせ我慢していたのだと分かった。

 

「……お前、俺が気付かなかったらずっと平気なふりするつもりだったのかよ」


 愛姫に聞こえないほど小さく呟き、もう一度その額に手を当てる。

 俺はこんな高熱ここ数年出してない。というか人生でも数えるぐらいだ。

 連れてくるときにおぶった愛姫の軽さが余計に不安にさせる。

 こんな小さいのにこんな熱出て大丈夫なのかよって焦りが滲む。


「お待たせしました。診察室へどうぞ」


 看護婦がわざわざ呼びに来てくれたので、待ってる間に計っていた体温計を渡すと愛姫を抱えて診察室のベッドまで運ぶ。

 熱が高いため横になったままで良いらしく、比較的若い医師が診察を始めた。

 カルテを取り終えて端的に告げる。


「風邪ですね」

「ただの風邪でこんなに熱出るもんなんですか?」

「子供の頃は熱が出やすいんですよ。ただ、もっと小さければ熱に鈍感で多少楽なんですが、これぐらいの頃は熱が出やすいのに辛いのは大人と変わらないんで可哀そうですね」

「そうですか……」

「二、三日続くこともありますが、これ以上熱が上がらなければ問題ないので安心してください。苦しくて寝れない場合や食事が取れないときのために解熱剤を出しておきますね」

「解熱剤だけですか?」

「インフルエンザなどと違って通常の風邪は特定の薬がないんです。熱は身体の中のウイルスを殺すためですし、お子さんの治す力を落とさないことが大切ですね。上手く休めず体力が落ちると免疫力も下がるので、寝れないときに解熱剤を使って下さい。あとは熱で汗をかくのと嘔吐もあったようなので、脱水症状にならないよう水分は小まめに取るようにお願いします」

「分かりました。他に出来ることはありますか?」

「そうですね」


 医師がちらりと愛姫の方を見る。

 辛そうではあるが今は何とか眠っているようだった。

 

「出来るだけ一緒にいてあげてください。お子さんは側にいてくれるだけで安心すると思いますよ」


 そう柔らかい表情で言われた。

 狼狽える俺の様子を見て、新米の保護者だと察したのかも知れない。

 情けないことこの上なかった。

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