第11話

 それからも携帯に何度も竜道から電話がかかってきた。しかし、表示に竜道と出ていても、竜道でないと分かったので、出ないことにした。電話は一日に何度もかかることもあり、三日もかからないこともあった。鳴ると必ずあけて表示を見る。全く無視してしまうということはできなかった。電話が鳴らなくなって一週間たったとき、珍しく電話が鳴った。ミモザが緊張した面持であけてみると、非通知になっていた。誰だろうと思って、急いでつなげてみると、


「本間ミモザさんですね」


 と、押し付けるような声が入ってきた。


「竜道に買わせてやりましたよ。あんたに買わされて、私に買わないというほうは無いですからね。2000万のへそくりで買わせましたよ。ブラック・オパールの指輪を買わせてやりましたよ。百八十万円ですよ。ダイヤやエメラルドやサファイァやルビーは、とっくの昔に買ってもらっていますからね。ブラック・オパールって知ってますか?そんなことはどうでもええ!竜道は私にぞっこんですからね。私のいいなりですよ。あんたはちょっとつまみ食いされただけです!今後絶対に竜道に近づくな!近づいたら・・・」


 ミモザは、反射的に電話を切っていた。鼓動が高鳴っていた。妻は竜道に君臨しているように見えながら、実は竜道に押さえられているのだということが、よく分かった。竜道が発している男性的オーラに絡めとられ、平伏しているのだ。ミモザに対抗して、物を買わせ、それをミモザにひけらかしてくるとは、なんという女性的な性格なのだろう。大学を出、経理も出来、仕事ばりばりであっても、高校中退とあなどる竜道から、離れられないのだ。「出て行け」と口で言って掃除機の柄で叩いても、おそらく二人は連れ立って宝石を見に行き、帰りには手を繋がんばかりにして、高級なレストランに入って行ったに違いない。


 ミモザの想像はどんどん過激なものになって、疲れ果て、これ以上竜道を求めてもどうにもならないと諦めていくのだった。


 竜道から連絡のないままに、ゴールデンウィークは終った。妻はブラックオパールで気が静まったのか、電話をかけてこない。とうとう勲と約束した離婚届に判を押す日が来た。できれば郵送で済んで欲しかったが、自ら勲と会って判を押すのが離婚の条件だったので、気持を奮い立たせて、大阪の地下街の喫茶店に向かった。


 勲が先に着ていた。勲は俯いて本を読んでいた。狭い地下街の喫茶店だから、気配で勲は目をあげた。ミモザは他人行儀に会釈をしてから坐った。二十五年も一緒に暮らしていて、一月も離れていたのだから、仲のいい夫婦ならどんなにか懐かしくお互いに引き合う気持をみなぎらせたか。けれど、ミモザから勲へは懐かしいと言う思いは湧かなかった。少し痩せたように見える勲に、申し訳ないという思いはわいた。


 ウエイターが注文を聞きに来、ミモザが勲に合わせて同じコーヒーを注文し、コーヒーが運ばれて来るまで、勲は視線をミモザに当てず、じっと遠くの入口あたりを睨んでいた。その不機嫌な顔に身の毛がたった。ウエイターが去ると、


「どんなつもりで、お前はこんなことをしたのが、言いなさい」


 と、小さい声だが、怒気を含んで言った。ミモザは、どんなつもりといわれても、答えようがなかった。


「ちゃんと答えないと判はつかせない」


「どんなつもりと言われても、ちゃんとした考えはありませんでした」


 と、ミモザは俯いて小声で答えた。判はついて帰りたい。ミモザは判をつかせないという言葉に怯えた。


「ぼくの顔に泥をぬり、母にも同じように泥をぬり、陽一を苦しめて、それでもお前は母親か!」


 と、勲はますます怒気を含んで言った。


「すみません。申し訳ありません」


「謝って済むものでない。お前はいつからあんな下劣な男と関係していたのだ」


「・・・・・・」


「ちゃんと真実をいわないと、判は押させない」


「去年の七月です」


「あの、PTAのOB会で、日本海に行った時だな。あれは嘘だったのだな」


「・・・・・・」


「お前は何が不満でこんなことをしたのだ。僕や母は、お前に対して何一つ悪い事はしなかったぞ」


「・・・・・・」


「考えて答えなさい。こんな大それたことをしでかしたのだから、ただわけもなく、では許さない。答えが出来ないなら今度まで判をのばそう」


 ミモザには、竜道の白いスーツ姿が浮んできた。でも、竜道のほうが勲より魅力があったとは答えられない。長年の結婚生活の恨み辛みを言い立てても、勲が理解してくれるとは思わなかった。


「ただ、誘われて・・・」


「誘われたからって、いい年して前後の見境なくついて行く馬鹿がどこにいる。お前には子供を育てる義務もある。ついていけば、安泰な生活も吹き飛んで、路頭に迷うこともある。そんなことを考えなかったのか」


「すみません・・・。どうか離婚届に判を押させてください」


「お前は大勢の戦争未亡人のことを知っているか?たった一度でみごもって、夫は戦死。はたちやそこいらで夫と死に別れ、一生操を立てて子供を育て上げた人が大勢いるのだぞ。それがお前に何故できない。そういう戦争未亡人の生き方こそが、日本の女性の美徳なのだ。お前は淫乱だ。お前は、7日間逃げてる間に、クズ男と何回したのだ。言え!」


 ミモザは勲のあまりにも下品な言葉に、固まってしまい返事ができなかった。


「言え!答えろ!」


 これが人前でなかったら、首をしめられていたかも知れないと思わせるような怖さだった。お寺の姑の前ではこんなみだらな事は言えないだろうから、外を選んだのだと思った。


「一日何回もか!」


 ミモザは強く首を横に振った。


「私も、向こうも怯えていたので、そんなことはできませんでした」


「向こうもなどと、馴れ馴れしく言うな!」


 ミモザはじっと俯いていた。


「真実を言え!答えたら押させてやる!母も二度と顔をみたくないと言っているのだ。早く決着をつけてしまいたいのだ。言ってみろ」


 ミモザは答えなければ、勲はいつまでも追及すると感じた。勲が納得する答えを考えた。


「二度ほど・・・」


「一週間で二度だな!よし!判を押せ!」


 勲は、鞄の中から、すでに自分のところは書き込んでいる離婚届を出して、ミモザの前に広げた。ミモザは一瞬自分の名も忘れそうになりながら、震える手で名前を書き込んだ。


 勲は書類を鞄にしまい、立ち上がった。ミモザも立ち上がって、勲に最後のお願いをした。


「どうか陽一に伝えてください。あなたにもお願いしたいのですが、陽一に会わせて下さい。陽一の携帯に電話しますので、その旨陽一に伝えてください」


 勲はうんと肯いたように思ったが、無言で支払を済ませて振り返らずに去って行った。


 実家に帰り着くと、父も母も待っていた。


「勲さんはどんなふうだった? 判は押したの?」


 と、母が聞いた。


「判はちゃんと押してきました」


「勲さんは、お前にじきじきに会いたいと言ったのだが、何か話があったのか?」


 と、父が聞いた。


 ミモザは顔を赤らめた。母には言えても父に言えることではない。


「いいえ、ただ、怒っていました・・・」


「当り前だ!こんなことをしでかした娘を、うちに入れるということは、むこうさんに対して申し訳ないぐらいだ。お前は、陽一君のことをどう思っているのだ!」


「陽一には・・・陽一には・・・すまないと思っています」


 ミモザは我が子を食い殺すゴッホの絵を思い出した。急に我が子の頭が喉を通る感覚が襲ってきて、吐きそうになった。ミモザは手を洗う振りをして、洗面所に入り、何度もえずいた。肩を何度もふるわせていたが、何も吐けなかった。ミモザは急いで口を拭くとキッチンに返った。三人は気まずく無言のままで坐っていた。


 その夜八時ごろ、珍しく携帯が鳴った。ミモザは陽一が早電話をくれたのではないかと、期待した。開けてみると公衆電話からだった。竜道からではないかと、急いで出てみると、懐かしい竜道の声だった。


「ミモザ!」


「竜道さん!」


「連絡が遅れてごめん。明後日の二時に大阪駅のこの間のホテルの喫茶店で待っていてくれないか?」


「はい、待っています」


「元気だったのか?」


「元気でなんかないけど・・・あなたは元気そう」


「いや、それじゃあ、急ぐので、あさってね」


 竜道はあわただしく電話を切った。


 竜道にもう望みはないことはわかっていた。駆け落ちの一部始終を妻に打ち明け、妻にブラックオパールを買い与え、お金のない生活は嫌だと言う竜道に期待するものは何もないとわかっていた。でも、竜道の声を聞くと、竜道の方に体も心もなびいていくように感じた。会って真意を確かめて見ようという気もあった。勲と別れた夜に、竜道から電話が来るというのも、竜道との縁がまだ細い糸で繋がっているのではないかと考えたりするのだった。


 その夜の眠りも浅かった。明後日には竜道と会えると思うと、別れてから四十日余りの思いを竜道にぶつけてみたかった。竜道に聞きただしたいこともたくさんある。あれこれ思い巡らしているうちに、夜が白んできた。ミモザは母に先立って、朝食の準備を始めた。やかんに水を入れようと水道栓を開くと、母が起きてきた。母はミモザのそばに寄って来て、ささやくように言った。


「ミモザ、きのう、洗面所で吐いていたでしょう。妊娠じゃないの?」


「えっ?」


「待ち腹というのは、妊娠しやすいのよ」


「マチバラ?」


「そう、夫が戦争とかにとられて、ずっと交渉がないとき、休暇で帰って来たりすると、たった一日の休暇でも妊娠したりするの。お腹はじっと待っているのね。だから、妊娠しやすくなるって、謂れなの」


「ええっ?」


 ミモザの顔は青ざめていった。


 妊娠などということがあるだろうか? 陽一が生れてから一度も妊娠しなかったのが、四十四歳にもなって妊娠するなんてことが考えられるだろうか? 


 ミモザはその点に関しては本当に暢気だった。姑が第二子を待ち望んでいたし、避妊などしたこともなかった。竜道とも、避妊具をつけたりしなかった。結婚後七年も子供が生れなかったし、自分は妊娠しにくい体質なのだと思っていた。が、母に注意されて、にわかに不安がつのってきた。そういえば、不規則な体質で心配もしていなかったが、もう五十日近くもない。


 ひょっとして、竜道さんの子を身ごもってしまったのだとしたら・・・。


「ミモザ、大丈夫なの?」


「よくわからない。でも、そう言われたら、心配になってきたの・・・」


「よくわからないって、どうして?」


「もとから、不規則だったのだけれど、もう、五十日もなくて・・・」


「ええ? 早く診てもらわないと、大きくなったら、おろせなくなるのよ」


「でも、こんな年で子供なんてこと、あり得るかしら?」


「だから、さっき言ったように、きっと体が待ち受けていたのよ。本人に自覚はなくっても、体の方で・・・」


 そんなことあり得ないわ。自分が知らないうちに自分の体が生殖を待ち受けているなんて・・・。どう考えても私は妊娠していない。姑にもそれとなく言われたことがあったもの。腰が華奢すぎるって。そんなに華奢な腰の女は妊娠しにくいって。


「今日にでも、お医者さんで診てもらわないと」


「もうちょっと様子みて、あと四、五日もなければ行きます」


「早い方がいいのだけど・・・」


「大丈夫と思うけど・・・」


 そう言いながらも、心配は膨れ上がってきた。あした竜道さんに会うという前の日に、母から教えられるというのも、竜道さんと縁が深いのではないかと思えてくる。


「もう、四、五日待ってね。それまでにこなければ、決心して診てもらうから」


「もしもそうなれば、おろすよりしかたないわねえ」


 と、母は言って、きびしい顔つきになっていった。


 ミモザには急に妊娠ということが現実味を帯びてきた。もしもこのお腹に竜道の子を宿しているとしたら・・・。いとおしい、育ててみたいと思った。


 あくる日、ミモザは、ミモザの花のように装って竜道に会いに出かけた。淡いクリーム色の薄物のブラウスに、山吹色のプリーツスカートをはき、ブラウスよりも少し濃いクリーム色のジャケットを着た。アクセントに薄い草色のスカーフをした。


 ミモザは十分前に着いて、竜道を待った。竜道はなかなか現れなかった。約束の時間より四十分も過ぎて、慌ただしく竜道が現れた。


「ごめん、ごめん。待たせてごめん。ワイフをまくのに苦労したんだ」


 ミモザは、開口一番、ワイフという言葉が出たのに落胆した。


「竜道さん、奥様が私たちのことみんな知ってたのは、どういうわけなの?」


 と、詰問口調になっていた。


「ミモザ、すまない。それには、わけがあって、ワイフがおれの顔を見ると狂ってしまって、一晩中寝させないで、質問責めにして、逐一聞きたがるのだ。適当に答えていたら、明け方逆上して、本当のことを言わなければミモザの家に乗り込んで、外でわめきまくって、二度と住めないようにしてやると言って、飛び出して行くんだ。


 抱きかかえて戻して、おれも、寝てないし、ぼーっとしていて、にせの事を言って騙すという知恵が働かなくなって、つい、口をすべらせちゃったのだ。ごめんよ。ミモザ。ミモザを裏切る気はないよ。ミモザは可愛い。今でも可愛い。今までの人生の中で一番可愛いひとだ」


 ミモザはその言葉にぼーっとなってしまった。


 でも、パンティのことまで言わなくてもいいのじゃあないかという、前々からの強い疑問が、理性を呼び覚ました。


「奥様が下着を買ったことまで知っていたのだけれど、秘密にしておいてほしかったわ」


「ごめんよ。持ち出したお金の金額を把握していて、逐一お金の使途を追求してきたのだ。計算機と紙とペンを持ち出して、気が狂ったように怒鳴りたてるのだ。ついパンティと口を滑らせたら、烈火の如く怒って、パンティがどうしたと言って、朝までまくしたてていた。もう、本当のことを言う方が、なだめる最良の方法とあきらめたのだよ。すまなかった」


 理由はいちいち説明がされたけれど、どんな誤魔化し方もあっただろうに、洗いざらいしゃべったということが、ミモザには、どうしても、納得できなかった。竜道は妻が好きで、妻を嫉妬させることによって、自分の方に関心を向かわせようとしているとしか思えなかった。


「ミモザ、借りた四十万円、持ってきたから」


 そう言って、ポケットから茶封筒を取り出して、ミモザの前に置いた。


「奥様から、お金取り返せたの?」


「いいや」


 と、竜道は首を振った。


「知り合いに宝石屋がいてね。客を紹介すると、バックマージンをくれるのだよ」


「奥様に買ったでしょう?」


「ああ、そんなことまでしゃべっていったか」


「ブラックオパール」


 竜道は不意をつかれて、しばらく無言だったが、つっとテーブルの上のミモザの手をとって、


「この綺麗な指にも、ダイヤを散りばめたルビーの指輪をはめてやりたい。いつかきっと」


 というのだった。


「ミモザ、開業資金をつくるために、いましばらく待ってくれないか。今までの二倍腰を低くして顧客をつけ、今までのように斡旋するだけでなく、大工とタイアップして建売も始める。そうやって一から資金を稼ぐから。ね、お願いだ」


「わたし、あなたの子を妊娠しているかもしれない」


「ええっ・・・。そんなことあるのかい?」


「私だって、この年だし、そんなことと思うけれど・・・。はっきりしないけれど・・・」


「いつが来たらはっきりわかる? そんなことが知れたら刃傷沙汰になるかもしれない。ミモザ、頼むからワイフには言わないで欲しい」


 やっぱり竜道さんは私のことよりワイフの味方をしていると、ミモザは直感した。


「もしも、そんなことになったら、ミモザ、お願いだからおろしてくれ」


 もう少し逡巡してくれてもいいのではないかと、こともなげに結果をだす竜道に、ミモザは愛の薄さを感じていた。


「あのお金があったら、ミモザと暮らし子供も可能になったんだが・・・。お金というものが・・・。ミモザと暮らすなら、ミモザになに不自由なく暮らしてもらいたいんだよ。貧乏暮らしはミモザにはふさわしくない。なにがなんでも資金を貯めて・・・」


 ミモザは、それが竜道さんの自分に対する愛のかたちかもしれないと思ってみるけれど、お金のために妻から離れない竜道に、疑惑と嫉妬を感ずるのだった。


「ミモザ、怒ってるの? こんな込み入った話はここでは何だから、いつものところに行こう」


「ええっ?」


「ミモザ、今日はミモザの花の精のようだ。ミモザは美しい。可愛い。ミモザ色に装ったミモザは、ミモザの樹そのものだ。あの圧倒的な樹の繁み。ミモザ、おれはミモザの茂みの中に分け入りたい」


 その言葉に触発されて、ミモザも旅の日々に愛撫された、あの嬉しかった竜道の数々の行為を思い出した。付いて行きたい。そして、あの時と同じように、もう一度竜道に抱かれたい・・・。


 だが、勝ち誇ったような妻の声が耳を打った。ブラックオパールを買い与えて、妻の機嫌をとる竜道はきっと妻から離れられないだろう。ミモザと暮らしたいと言っているのも、嘘のように聞える。


 ミモザは首を横に振った。


「本当に迎えに来てくださる日があれば・・・。その時にしましょう。今は我慢します」


「駄目なの、ミモザ。黄色く美しいミモザ。並んで歩くだけでも晴れがましいミモザなのに、おれはミモザを自分のものにまでした。もう一度だけ、ミモザを抱かせてくれない?」


「本当に迎えに来てくださる日があれば・・・」


 ミモザは決意して立ち上がった。


「一週間後に、電話するから、診てもらっておいてね」


 と、竜道も立ち上がった。


 あっさりと撤退する竜道に、もう自分への関心は薄れてきつつあると、ミモザは感じた。竜道の手にしたい物は、豊かな生活と、可愛い愛人なのだ。中でも、豊かな生活が第一なのだ。妻の家の力なくしては、豊かな生活を手に入れる手立てがないから、竜道は妻から離れられないのだ。あの二千万円を持ち出していたら、私と結婚する積りだった。それは、信じている。私の結納金の百万円では竜道さんは生きていけない。私に二千万円あったら、竜道さんと生きていきたい。でも、二千万円の問題だけでないかもしれない。本当は能力のある妻を愛しているのかもしれない。私のように大学も出ていなく、なんの技術も身につけていない女よりも、気が強くて仕事のできる妻を尊敬しているのかもしれない。竜道は高校も中退したというから、大学出のお金持ちのお嬢さんにはコンプレックスがあるのだ。


 ミモザは、竜道の妻に高飛車にまくしたてられた時、怖かった。教養があるのに、嫉妬に狂うと、パンティだの、洋服のお金を返せだのとがなりたてたのも、信じられなかった。いや、お金とはいわず「金」と言った。勲も信じられないような事を言うために、わざわざ自分を呼び出した。普段の良識ある勲の変貌も、嫉妬で狂ったためだ。自分も嫉妬している。竜道の妻に嫉妬している。でも、妻が怖い。嫉妬で狂うよりも、怖れる方が上回るのだ。だから、竜道に何も言えないし、妻にも言えない。旅の七日間、どんなふうに竜道に愛されたか、嫉妬に狂って妻にひけらかせたら・・・。


 でも、そんなことをしたって、豊かな生活を生き甲斐にしている竜道は、二千万円ないかぎり帰って来ないのだもの。


 ミモザは、翌日病院を訪れた。


 こんな年でと恥じらいつつ下半身裸になり、診察台に上がり、医者の指が触れた時、ああもう一度、竜道にしてもらいたいという感情がうねるようにミモザを襲うのだった。ミモザは顔を赤らめて診察台を下りパンティをはいた。


 思ってもみなかったことが、おこっていた。母の懸念は的中していた。医者は妊娠を告げた。


 ミモザの頭の中に真っ先に浮んできたのは、陽一の姿だった。胎児は、陽一の目に動物的な行いの結晶のように映るのではないかとミモザは悩んだ。もし胎児が存在しなければ、父以外の男と母が行った事は、証拠もなく、空想のうちにうやむやになることもあるのではないか、しかし、胎児を宿したと知ると、母のした事は明白になり、しかも十日足らずの間に、十何年もできなかった、胎児をはらむと言うことまでしでかしたと知ると、母を淫乱な者と軽蔑するのではないかと、恐れた。竜道と一緒に暮らしていける希望があったときは、「行為」は美しく、陽一に対して「行為」を卑下する気持はなかったが、竜道と暮らせない今は、「行為」そのものが、光を無くして、翳りを帯びてくるのだった。


 母はためらうことなく、「おろさなければ」と、早いうちを勧めてくる。ミモザはお腹の中に芽生えた胎児をいとおしむ気持もあった。今はこんな状況になっているけれど、受胎した時は愛の結晶であったのだ。きっと、きっと、竜道さんにとっても、あの時は、愛の結晶だった。喜びの頂点で生れ出た命ですもの、いい子に育つに違いない。「産みたい!」とミモザの本能は叫んでいた。


 だが、妊娠を知った竜道は、執拗に公衆電話をかけてき、おろすように言って来た。嫉妬に狂ったワイフが、刃傷沙汰に及ぶのが恐いとおどすように言ってきた。ミモザも恐かった。又、生まれてくる子が、父のない状況で何故産んだかと、母を責めることも恐かった。生まれてきたくなかったと悩む子供の姿も浮んできて、どうしていいかわからなかった。


 とうとう、母に付き添われて子供をおろした。父には秘密にしたままだった。


 竜道は、費用を渡したいから会ってくれと、言って来たが、ミモザは断った。費用を捻出するために、バックマージン欲しさに、また、妻に高価な宝石を買い与えるのだと思うと、妻に対する嫉妬心がミモザの心を打ち砕いた。竜道が、宝石を買いに、妻と肩を並べて歩いて行く姿を想像しただけで、胎児を喪失したミモザの体にはこたえて、脳貧血をおこし、倒れていきそうになった。

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