第8話

 脱衣場には大勢の人がいた。子供もたくさんいる。ミモザはたくさんの裸姿に圧倒されながら、洋服を脱いでいった。最後に竜道に買ってもらったパンティを脱いで、浴場に入っていった。


 洗い場でも、たくさんの人の裸の後姿が並んでいて、体を洗っていた。ミモザも空いたカランの前に腰掛け、体中をシャワーで洗い、浴槽につかった。


 浴槽から芝生の庭を隔てた向こうに広がる海は、漁火はなくなり、幾重にも重なるおびただしい闇の中にあった。ミモザは思わず震えた。この浴槽に大勢の人が集っていなかったら、漆黒の海を前にして、恐怖におののいていたことだろう。ミモザは見知らぬ大勢の裸の人たちに守られて、湯の中で目をつぶった。規則正しく打ち寄せてくる波の音が、竜道の心臓の鼓動のように、ミモザに迫ってくる。ミモザは竜道との愛の行為の数々を思い出し、うっとりとして目を閉じた。


 ふと我に返って目をあけると、潮が引くように大勢の人々の姿がなくなっていた。見回すと湯船の端の方に二人の中年の女性がつかっているだけである。暗い海に対峙して、いいようのない恐怖と不安が襲ってきた。ミモザは竜道にすがるように、急いで女湯を出た。


「早かったね。もっと待たされるかと思っていたよ」


「でも、やっぱり待たせてしまったのね」


「いいのよ。ジュース飲んでたから。これ飲む?」


 そう言って竜道は飲みさしの缶を差し出した。


 ミモザと竜道は、缶を渡したり受け取ったりしながらエレベーターで上がって行った。


 二人はちょっと湯にあてられて、ベッドで長くなっていた。


「竜道さん、明日、大塚国際美術館に行ったら、もう大阪に帰りましょう。マンションが決まるまで、また、大阪でホテル暮らしかもしれないしね」


「そうだな。あした絵を見て、それから銀行に寄ってお金をおろして、もう一泊してから帰ろう。帰ったら当分旅行なんかできないから、折角だからもう一泊しよう」


「お金おろさないと、なくなっちゃったの?」


「いや、ごたごたして出てきたからね。とりあえず、目の前にある売上金をつかんで出て来ただけだから・・・。ほら、この前見せたカードね、あれで二千万円出せるのだ」


「そんなに大金出さなくても」


「勿論さ。あしたはとりあえず五十万円くらいと思っている。ここの払いもしなければならないのでね」


「クレジットカードでも払えるのでしょう?」


「そんなもので払ったら、明細が送られてきて、尻尾をつかまれるよ」


「そうなの?」


 ミモザは突然家を出てしまったので、財布の中に一万四、五千円しかなかった。その他に結納金の貯金通帳と印鑑は、逢引する時はいつもバッグに入れていた。ミモザの自由になるお金は、その貯金だけだったので、二十五年、大切に持ち続けていた。


「あしたは、美術館と銀行を予定として、あさって帰る。そういうことにしようね」


 そう言って竜道はミモザを引き寄せた。開け放したバルコニーから、波の打ち寄せる音が聞えていた。ミモザは波の打ち寄せるリズムに従って、竜道のなすままに身をゆだねていった。ミモザはその間中、ずっと幸せだった。


 ミモザは心も体も充分に充たされて目覚めた。カーテンを透してくる光が室内を明るくしていた。ミモザは起き上がり、竜道を見た。竜道は正体なく眠っている。ミモザは竜道の頬にキスをして竜道の体にぴったりと自分の体をくっつけた。竜道は寝返りを打ち、


「もう、朝なんだ」


 と、寝言のようにいい、また寝てしまった。


 ミモザはあきらめて、竜道の寝姿に微笑みかけ、バスルームに入っていって、浴衣をするりと脱ぎ捨てた。華奢ですらりと伸びた四肢、色白で豊満な乳房、くびれた腰。さながらヴィーナスのように整った肢体が現れた。勲がこの美しい四肢を愛さなかったということは、信じがたいことだった。しかし若い時の姑が、ミモザよりももっと美しかったということはあり得ることなので、勲はミモザの美しさを当り前のこととして受け取っていたのかもしれない。でも、ミモザの美しさは神々しいほどのものなのだ。大きなお寺の奥様というはばかりがなければ、大勢の男が言い寄っていただろう。しっかり者の姑と謹厳そのものの夫に守られて、ミモザは置物のような暮らしをしていた。そんな堅固な城砦に踏みこんでミモザを奪おうとした勇気のある男性は竜道だけだった。ミモザは愛おしむように、竜道に愛された体にシャワーをかけた。そして、この体は、自分のものでありながら、それ以上に竜道のものであるのだと思うのだった。


 ミモザは髪も整え化粧もし、いつでも食堂に行ける用意をしてから、竜道の腰に手のひらを当てて、


「あなた、もう朝よ」


 と揺り起こした。


 竜道は寝返りを打って、ミモザの方に向き、起き上がって、


「うわあ、まぶしい。海が光ってるねえ。いい天気だ」


 と言って、眠そうに少しだけ開けた目をまた閉じた。


「もう寝ちゃだめよ。お食事に遅れるわ」


「またミモザの律儀な癖が出たね」


「だって、閉まっちゃったら困るもの」


 ミモザは竜道を抱きかかえて起こすようなまねをして、竜道の額にさっとキスをした。竜道は刺激されて完全に目覚め、ミモザを強い力で抱きしめた。


「駄目よ、竜道さん、いけないわ、いやよ、おくれちゃうわ」と抵抗していたが、竜道が体の中を突き上げると、あまりの嬉しさにミモザは竜道にしがみつき、ことはてた時はぐったりとなって、放心しているのだった。

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