第4話

 大原美術館に到着すると、正面玄関で、いきなりロダンの彫刻に出会った。『カレーの市民』の彫刻を前にしてミモザは遠く百年戦争に思いを馳せた。英雄ジャンヌダルクの心の中の苦悩に思いを寄せていると、竜道がミモザの肩に腕を回して来た。ミモザは場所柄を考え、そっと竜道の手をもって、肩からはずした。

 館内は静かだった。本当に絵画が好きだというような人が、絵の前に静かに佇んでいる。見終えた人は足音も遠慮がちに遠ざかって行く。ゴーギャンがタヒチの女性を描いた絵を見ていると、竜道が寄ってきてミモザの腰に手を廻して、

「ミモザの裸の方がずっときれいだよ。このひとはおかしいねえ」

 と、耳の中に囁き込んだ。

 ミモザは顔を赤らめながら、そっと竜道を突き放し、しーっと手を口に当てた。

 こんな恥ずかしい思いをさせてくれる竜道だけれど自分の興味のない所にも、ミモザを喜ばせようと思って、千里を遠しとせず車を疾駆してくれる竜道に感謝していた。その行為を思うと、竜道の愛がミモザの体に浸潤してくるように感じた。ミモザは竜道を退屈させないように、本館の西洋の絵画だけを見て、美術館を後にした。

 宿のワシントンホテルについて、夕食も済ませ、シャワーも浴び、愛を確かめ合ってリラックスしてベッドに横たわっている時、

「こんな近い所なのに、もっと前に来る機会があっただろうに」

 と竜道が言った。

「それがなかったのよ」

「どうしてだ。旦那に頼んだらそれくらい付き合ってくれないか?」

「うちはねえ。お姑様に留守をさせて、二人だけのためには出られないというのよ。それに、檀家でいつ不幸があるかもしれないので、のんびりと旅行に行く気になれないって」

「そんな融通のきかない人じゃ、ミモザも苦労したなあ。可哀想に」

 ミモザはふっと涙がこぼれそうになった。

 陽一にだけはどうにかしてコンタクトをとりたいと思った。

 陽一はおばあちゃん子であった。姑はお寺の跡取が生れるのを待ち構えていた。ミモザははたちで結婚して、七年間子供が生れなかった。姑は、待ちきれなくなったのか、ミモザに活花のお稽古の準備を手伝わせながら、

「ミモザさん、勲の求めにちゃんと応じてやってくれていますか?男の方は、時としては仕事の上の悩みなどで弱る場合があります。けれど、そんな時は女の持っていき方ひとつで、元気になる場合が多いのですよ。この二、三日がチャンスです。ミモザさんから上手に誘ってみなさい。男の方を元気に保つというのも、妻としてのお仕事なのですよ」

 と、はっきりと言うのだった。

 姑は檀家の人々の身の上相談にも応じ、お茶やお花を教えて、民生委員までし、世間では立派な婦人で通っていた。でも、ミモザに対する時は、息子かわいさに目のくらんだ、どこにでもいる愚かな母と同じだった。いや、周りの人に持ち上げられ、尊敬され、気の弱い息子が、いつも母の意を汲んで母に寄り添って生きてきたので、その分我儘であり、言いたい放題だった。

 ミモザはもう元に戻ることはできないし、戻りたくはなかった。その場合、陽一が姑に母以上のものを感じていて、母を慕ってくれない方がうまく納まるのだ、と思うのだった。食べ盛りの陽一を思う時、姑にできるだけ長生きしてもらいたいとさえ思うのだった。

 夜中に泣いていたミモザを、竜道は知っていたのだろうか。

「折角ここまで来たのだから、子供っぽいけど、チボリにも、行ってみよう。ミモザが悲しいとしたら、おれが悪いのだ。今日は二人で今時の若者のカップルを真似て、遊園地で遊んで心配を吹き飛ばそう」

 と、言った。

 竜道は単純だった。チューリップの咲きそろっている庭をみて、「うわー、きれいだ」を連発し、「外国みたいだ。ここはどこの国だ?」という。

 ミモザが、

「デンマークのコペンハーゲンよ。ほらアンデルセンの」

 というと、

「アンデルセン?ああ、オオカミ少年の話だな」

 と言い、ミモザが、

「違うわよ。ほら、人魚姫」

 と言って、池の中の人魚姫の像を指さすと、

「どんな話か知らない」

 と言って、

「ここなら腕を組んでもいいよな」

 と、ミモザに腕を組んでもらいたそうに差し出してくる。

「四十五と四十四の男女が腕を組んで歩くなんて、異常に見えるわよ」

 と言ってミモザが拒むと、折角誰も知らない遠くに来たのに、と不満そうであった。

 竜道は、デンマークに来たのだからデンマークのお城で食事をしなければといい、レストラン『デンマークハウス』に入り、売店では『ロイヤルコペンハーゲン』のイヤープレートを二枚買って、

「新居でお客さんを呼んでパーティする時に、料理をこれに盛ってもてなそう」

 と言うのだった。

 ミモザはふき出しそうになり、

「これは飾っとくのよ」

 というと、

「あっ、そう。でも使ってもゴージャスな感じでいいんじゃない」

 と言うのだった。

 占いの館に来ると、二人の未来を占ってもらおうというのだった。

「そんなのいやあよ、竜道さん。あなたと別れなければならない相が出ているなんて言われたら、生きていけないもの」

「そんなに真剣に信じるの? おれはいい事だけとって、悪い事言われた時は、なに言ってるんだいって思うんだ」

「あなたは気楽でいいわ。なんかほっとする」

「そうだろ。おれに任せときよ。ミモザ」

 二人は夜のイルミネーションまでねばって、ホテルに帰りついた。

「ねえ、そろそろ物件探しを始めなければいけなんじゃないかしら?」

「そうだね、二人で住むマンションの方が先だね。若い頃、東大阪の不動産屋に勤めていたんだよ。そこなら勝手知った馴染みの場所だし、何かと便利がいいのだが」

「私も、知らない土地の方がありがたいわ。あなたの都合のいいようにしてね。一から事業を始めるのは大変でしょう。私はあなたの奥様とは違ってなんにもできなのだから、ごめんなさいね」

「これは男向きの仕事だから、できないのが当り前なんだ。ワイフは学生時代から親父を手伝って事務はしていたからね」

「奥様は大学出ているの?」

「うん」

「私は高校卒業の時、母が癌になって、抗癌剤の副作用で寝たり起きたりしていたので、大学にはいかなかったの」

「なまじ仕事ができるよりも、妻は妻として夫の仕事に口をはさまず、好きなことをして遊んでいてくれる方がやりやすよ」

 竜道の言葉は自分に対する思いやりなのだなあと思いながらも、ひょっとすると本当に妻に頭が上がらない恐妻家なのかも知れないと思うのだった。

 ミモザが丁度高校を卒業しようという時、母は子宮癌の手術を受けた。気がつくのが遅かったので、抗癌剤を投与し気分が悪くてぶらぶらする日が続き、神経もまいってきて、鬱状態になってきていた。ミモザは親しい同級生が短大や専門学校に進むのを尻目に、自分は看病があるから進学はしないと決めていた。あまり勉強は好きではなく、数学はわからないし、英語の単語は覚えられないし、早く勉強から解放されたいと思った。母は一年あまりぐずぐず言っていたが、体の回復とともに元の精神状態にかえり、ミモザの進学を諦めさせたことを、すまないすまないと詫びた。ミモザにとっては、勉強を止める口実ができてよかったと思うくらいだったので、母が自分に負い目を感じていることを、かえって申し訳なく思っていた。

 その頃、母の知人の、仲人を仕事にしている人が、ミモザに勲との縁談を持って来たのだ。

 母は、そんなご立派なお寺さんに、なんの仕込みもしていなく、学歴もない娘が嫁ぐのは無理だと言った。けれど、仲人の河村は、相手さんにもその事情は通じてあるし、相手さんのお母様が、家でおとなしく母親の面倒をみていたような子は、遊んでもいないだろうし、うぶな娘にちがいないと思うから、かえって得がたい存在だと言ったという。

 ミモザの父は地方から出てきて、中企業の工員からのたたきあげだった。若いうちに工場長になったから、持ち家は手に入れたが、その他に財産はなかった。生活レベルの違いという点からも、お断りした。しかし河村は、相手さんにはもう何度も見合いさせたが、息子さんが気にいってもお母様が気に入らないことが多く、選り好みしているうちに三十五歳になってしまって、母上も少し折れてきているし、何よりもミモザのまだはたちという若さが、息子さんにもお気に召しているし、母上も今時の女の子は何をしているかわからないから、勤めもせず、学生生活も知らない娘は金のような存在だとすごく乗り気になっていると言って、無理やり釣書を書かせて持って行った。

 お見合いの日の父と母の気の使いようはすごかった。父はスーツから靴まで全部新調し、母はそれまで着たこともない和服をデパートから買ってき、ミモザには若さが売りと思ったのだろうか、少女っぽく見えるフリルの一杯ついた洋服をわざわざデパートで選んで買わせ、お見合いの日は、朝早く、まだ開店する前の時刻を美容院で予約し、セットから着付まで入念にしてもらった。美容院から家に帰る途中、近所の人に声を掛けられた時の、母のすました気取った態度が、今でもミモザの目に浮ぶ。

 父も母も、服装から態度、挨拶の言葉まで粗相のないように密かに何度もリハーサルしているようだった。ミモザにも父母の緊張が乗り移り、母に言われるままにお化粧まで美容院でしてもらった。

 河村に連れられてお寺の門をくぐった途端、ミモザにも格式の違いと言うものが理解できた。相手方に気に入られれば、張り切っている父母のためにも、結婚をお受けしようと思った。

 写真でお見合いの相手の顔は知っていたが、写真で見るよりもずっと色が黒かった。ミモザが見慣れている父は、色白で細面だった。今見る相手の顔は四角く大きく、黒く、違和感を感ずる程だった。それに反して母親の方は、色白で目鼻立ちが整い、上品だった。けれど、手入れのいいお庭を背景にして、どしっと坐っている、ミモザから見ればもうおじさんのような相手に、こちらから断るほどの嫌悪は感じなかった。開け放した縁側からみえる、丸く刈り込まれた躑躅や青い飛び石が、相手の顔の周りから目に入って、相手をも清清しく感じてしまったのだった。

 母上の立てたお茶をいただく時、俄か勉強で作法をちょっとかじっただけの父母もミモザも、緊張してしまって、ぎこちなかった。

 お寺を辞した時、父は河村に、

「こんなものでよかったでしょうか?粗相はなかったでしょうか?」

 と、真剣に尋ねていた。

「上出来でございますよ。お嬢さんはあちらさんに比べれば、ほんとうにお若いしお綺麗ですから、すぐにいいお返事が来ると思いますよ」

 と、河村に言われ、父はほっとしたようだった。

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