パンとサーカス

 アティアの勘の良さは、父・セネカの折り紙付きである。

 セネカは、幼いアティアを商談中によく呼び寄せては、こっそりと相手の印象を聞いていた。

 商談がまとまると、船の出航の日時をアティアに相談する。

 アティアの進める日時に出向すると、船は嵐に巻き込まれることもなく、海賊に襲われることもない。


 アティアのおかげで、商いは順調。

 セネカは、あっという間にポンペイで有名な大商人となっていった。

  

 フラウィアは、セネカがことのほかアティアを可愛がり、自由にさせていることが気に入らない。

 アティアが望めば、勉学以外にも乗馬や剣術も習わせた。

 上流階級の女性に相応しくないものばかりする妹に、フラウィアは苛立ちを隠せない。


 父の寵愛を受けることに加えて、アティアの容姿にも嫉妬していた。

 陽の光で、美しく輝くプラチナブロンド。

 誰もが、思わずため息を漏らした。

 そして、全ての人を魅了するアメジストのような瞳。

 もし妹が黒い眼帯をしていなければ、フラウィアは嫉妬と憎しみの沼に身を落としていただろう。

 フラウィアはアティアを『可哀そうな子』と憐れむことで、優越感を抱くことができた。


「あなたって、昔から勘がいいものね」

 フラウィアが、眉根を寄せて呟く。

「へぇ、そうなんですか。見事ですね。ほとんどの観客はクワトロが負けると思っていたようなのに――」

 ユリウスが興味深く、アティアを見つめた。


「あっ、何となく…… 何となくです! そういえば、お相手の剣士はどうなったのかしら?」

 相手の剣士が助かったことなど、試合を観ていなくてもアティアにはわかっていた。

 でも、フラウィアの機嫌をこれ以上損ねてはいけないと、わからないふりをして誤魔化す。


「彼なら、勇敢な戦いを見せてくれたので、助命されましたね」

「そう、それは、良かった……」

 アティアは大げさに胸に手を当て、ホッとする仕草をしてみせた。

「——優しいんですね」


 ユリウスの興味が、アティアに向けられる。

 フラウィアは焦った。

 ユリウスの気を引こうと、腰をくねらせ甘い声で話し始める。


「私は最初から、ユリウス様の奴隷剣士・クワトロが勝つと思っていましたわ」

「フラウィア様にそう言って頂けると光栄です」

「ユリウス様は、お父様の後を継いで政治家になるのですか?」

「ええ、そのつもりです。そのためには、強い奴隷剣士を作り上げ、民衆の皆様に、もっと、もっと、喜んでもらいたいと思っているのですよ」

「では、ユリウス様の所には、クワトロのような強い剣士が、沢山いらっやるのでしょうね」

「ええ、戦争捕虜の中から、剣術に秀でた者を買い付け、更に剣術養成学校でその腕に磨きをかけさせます。一人の強い剣闘士を育て上げるには、それなりの時間とお金がかかりますが、クワトロのように素晴らしい戦いをしてくれると、観客の皆様が喜んでくれますから、育てがいがありますね」


 談笑する二人の会話に、アティアは軽い眩暈を覚えた。


 ローマでは、選挙に勝つために『パンとサーカス』を民衆に与えなければならない。

 それは、『食べ物と娯楽』だ。民衆が一番好きな娯楽といえば、剣闘試合である。 

 当初は、今ほど残虐性を帯びてはいなかった。

 ローマが地中海世界の支配者となり、属州から莫大な富が流れてくるようになってから、より残酷に、より過激になってきた。

 猛獣狩り。

 猛獣と罪人による公開処刑。

 剣闘士同士の戦い。

 果ては、闘技場に水を引き模擬海戦まで行われた。

 剣闘試合は、皇帝や政治家、地方の名家が主催し、切符は無料で市民に配られる。

 市民の人気を得るために、主催者は剣闘試合に力を入れていた。


 アティアは二人から静かに距離をとり、父の元へ小走りで近づいた。

「おぉ、アティア。試合の途中で居なくなったと聞いて心配しておったが、気分はどうだ? 大丈夫か?」

「お父様、ごめんなさい。もう、大丈夫。元気になりましたわ」

「アティア! 久しぶりだね。ずいぶん、大きくなって」

「アントニウス様、お久しぶりです。お元気そうで何よりですわ」


 アティアは、アントニウスの大きなお腹に抱きついた。

「おいおい、相変わらずじゃな。しかし、美しくなったのう。まるで、美の女神ウェヌスのようじゃ」

「それが、この通りのお転婆で一時も目が離せんのじゃよ。ゴーディーも手を焼いておる」

「ははははは! まだ、馬に乗ったり、木に登ったり、犬の尻を追いかけまわしておるのか?」

「その通りじゃ。誰も、嫁に貰ってくれないだろうよ」

「お父様! 私は、犬の尻を追いかけまわしたりしていません」


 頬を膨らますアティア。

「大丈夫じゃ。その時は、息子のユリウスの嫁になってもらおう。うちの息子は二十二歳になった。そろそろ、結婚を考えておる」

 そう言って、アントニウスはアティアの頭をポンポンと叩いた。


「アントニウス様も、いい加減にして下さい! 私に結婚は、まだ早いです!!」

「ローマ法では、女の子は十二歳を過ぎると結婚できるんじゃよ。この頃、子どもの数がどんどん減っておるからの、ご婦人方には子どもを五人以上産んでもらいたいものじゃ。元気なアティアなら、何人でも産めそうだと思ってのう」

「もう、冗談はやめて下さい!」

 

 アティアは、ますます頬を膨らまし足を踏み鳴らした。

 初潮を迎えていないアティアにとって、結婚はまだ先の話だ。

 それでも大人たちは、花婿候補をどんどん推薦してくる。

 もちろん、アティアより姉のフラウィアには、山のように結婚の話が届いていた。


 今日の剣闘試合の観戦も、ユリウスと、フラウィアあるいはアティアのお見合い的な意味も含まれているのだろう。

 そう考えると、アティアの心は重く沈んだ気分になった。


 








 

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