僕と畏ラ拝ラの逃走



 ゾッとするほど冷たい叔父さんの声が耳に響く。

 いやいや、どこに行くんだ?

 どこに行くにしても、車を使った方が早いに決まってる。

 こんな、痛みに苛まれた状態で動いたところで……。


「うわっ……」


 案の定、足がもつれて地面に突っ伏してしまった。


畏等わいら逝拝来いはいらい稀有主けうぬしかわス。これはですね……」


 一歩一歩、確実に近づいてくる叔父さんは本当の解説をはじめる。


「畏等、はワイラハイラのこと。逝拝来、はお帰り願うときのこと。稀有主は、ワイラハイラの器のこと。交ス、というのは……器と中身を一致させることです。最初に使用した道具を使って、起点と終点を交わせます。どうです? お兄さんから聞いた話と一致していますか?」

「う、うん……。でも、中身を……、一致?」


 父さんからは、叔父さんが次の稀有主になることを防いでくれとだけ言われていた。

 そのために叔父さんが作った偽物の本が必要であり、交ス、の部分は自分がやるから……と。


「簡単に言うと、ワイラハイラを終わらせたければ、稀有主と共に自殺しろということですね」


 泥に肘を突いてなんとか上半身を起こした僕の視界に、叔父さんの古ぼけたスニーカーが飛び込む。


「化け物の人間社会観察が終わったら、お帰りはセルフサービスで勝手に死んで下さいって感じですかね。器のことなんて、モノ以下としか考えてないことがよくわかりますよね。まぁ器になるくらいどうでも良い、誰からも要らない存在の末路だと思えば、頷ける部分も大いにありますが」


 こんな露悪的な物言いをする叔父さんを、僕は知らない。


「そりゃ、こんな内容……お兄さんは私に言えませんよね。えっちゃんを殺すことなんて、できませんから。ましてや、自殺に追い込むなんてもってのほかです。もちろん、それは私も同じですよ? でも、きっと……私が知ったら、えっちゃんに悪影響を及ぼすかもしれないと考えたのかもしれません。なにせ私には、生まれたての赤ん坊の首を絞めて無慈悲に殺した前科がありますから」

「……そ、んな……こ、と……」

「そんなことないって? あぁ、えっちゃんはこんな、誰も彼もがこぞって目を背けるような悪手まみれの事実を知っても、まだ私をゆるしてくれるのですか?」

「ッ当たり前だろっ!!」


 身体は動かないし、声だっていつ乗っ取られるか分からない。

 でも、それでも、伝えたいことは言葉にしないと……決して相手に届かないから。


「僕は……っ、最初からずっと、叔父さんの味方だって言ってるでしょ……、なんで、信じてくれないのさ。過去はどうあれ、いま、ここにいる叔父さんが……僕には一番大事なんだ! 助けたいと願って、なにが悪いんだよっ!?」

「………」

「お、叔父さんが……」


 自由が利く左手を頼りに、さらに身体を起こしていく。

 逆光で表情の見えない叔父さんに向かって、僕ともうひとりがおそらく共同で叫んだ。


「僕がワイラハイラであることを、ゆるさないだけだっ!」


 この時だけは、喉を詰まらせずに発声することができたから。

 でも、またすぐに息苦しさが戻る。


「ゆるすとか、ゆるさないとか、そんな、次元の話では……」

「……こんな言葉も、僕が化け物に操られて、無理矢理に言わされてるって……思う?」

「だ、だって……えっちゃんは、私のせいで……」

「叔父さんが見てきた僕は……どんな人間だった?」

「………」

「19年も、一緒にいたでしょ……。叔父さんが一番、僕を知っているはずだ……」


 悠然と僕に迫っていた姿から一転、一歩また一歩と後ずさる。

 逆光から外れた場所に立った叔父さんは、ひどく苦しそうに頭を抱えていた。


「……私の過去が、どうあれ……なんて、言えるのは……確かに、えっちゃんしかいませんね」

「叔父さん……!」

「それでも、私は……もう……」

「後戻りできないなんて、そんなこと……ッ!?」


 ようやく話が通じた気がして、気を抜いたらまた全身に痛みが走る。


「……先ほど話した、似て非なる存在の疑似ワイラハイラたち。覚えていますか? その中のある言い伝えによると、化け物を身体から身体へ移すときは、ひどく痛むようです」

「……えっ?」


 叔父さんは僕に聞こえるほど大きな深呼吸をして、また左右非対称に笑った。


「もう、乗り換え作業は始まっているんですよ。ごめんなさい、痛いですよね。あとは、この残された左の手のひらを切り落とすだけでいいんです。そのための道具が、えっちゃんが盗んだ偽物の本の中に入っていたと思うんですが……心当たりはありますか?」

「………」


 心当たりが、ありすぎほどある。

 あの本に挟まっていた……錆びた折りたたみナイフ。

 叔父さんが、父親から死ねと告げられた証。


「ここで、寝込んでいてもかまいませんよ。自分で取りに行きますから。自宅まで、あと一キロぐらいですよね。大丈夫、道はわかりますので」

「ま、待って!?」

「あと少しだけ、私のかわいい甥っ子でいてください。だいすきな、えっちゃん」


 ダメだダメだ。

 このまま見送ったら、あの部屋でとんでもないことをする叔父さんの姿が目に浮かぶ。

 止めないと……!と強く願ったその途端、身体の痛みが半分軽くなった。

 なんとか泥の中から立ち上がり、痛む足を引きずって暗い夜道を走る。

 すぐにゆっくり歩いていた叔父さんを追い抜かす。

 すれ違いざま、叔父さんが言った。


「あともどり、ゆるさない」

「……ッ!?」


 ワイラハイラは僕の中にいるはずなのに、叔父さんの方からも叔父さんに似て非なる声が聞こえた。


 ——まざって、いる——


 自分の脳内で、そんな言葉も響く。

 僕は頭を左右に大きく振って、とにかく先を急ぐことに集中した。


「ハアッ、はぁ……はぁーっ」


 生まれ育った村の田圃道なのに、気を抜いたらどこか見知らぬ場所に連れて行かれてしまいそうだ。

 無茶苦茶に踏み荒らした雑草の匂いで鼻の奥が咽せかえる。

 一刻も早く自分の家に帰らないと……!

 足が痛い。腰が痛い。胸が痛い。腕が痛い。眼も、耳も、鼻も、口も、喉も痛い。

 酸素を吸うたびに焼けついた喉が悲鳴を上げるから、呼吸すら辛い。

 だけど、まだ息を止めるわけにはいかない。

 僕には目的がある。

 叔父さんを……小籠倫他を助けるという目的が。

 苦痛に耐えながら這々の体で逃げているのは、長年抱いていた目的を達成するためだ。

 これはワイラハイラの目的か?

 身体を得て人間と共生したかっただけなのに、手段と経緯がマズすぎたせいでずっと果たされなかった願いを、ようやく僕越しに実現させたのだ。

 僕に大きな自殺願望がないということは、ワイラハイラも父さんや叔父さんが言うようにこの世に飽きているわけではないはずだと思う。

 ずっと僕のそばに居たのなら、協力してほしい。

 とにかく。

 こんなところで、諦められない。


「えっちゃん、待ってよ」


 必死で走っているつもりなのに、後ろの男は悠々とした足取りで僕に迫る。

 足がもつれて転びそうになったけれど、唯一自由が利く左手で体を支えた。

 手をついた拍子に握り込んだ地面の土を、体勢を崩した僕に拳を振り上げる男に投げつける。

 僕を傷つけるつもりはないと常々言っていた叔父さんとは思えない行動だったから、即座に反撃した。

 相手が一瞬怯んだ隙をついて、また自宅へと走り出す。


「いたた……もう、服が汚れるよ」


 本気を出せば手負いの僕に追いつくことなんて簡単なはずなのに、男はゆったりとした歩幅を一定以上大きくしない。その様子が、また不気味だった。


「私と鬼ごっこをして、きみが勝ったことがあったかい?」


 ない。

 後ろの男が見た目通りの僕のよく知る人物ならば、一度も勝ったことはない。

 ないけど……僕は、僕はいま……。


 、に追われているんだろう?

 そして僕はいま……、なんだ?


 そんな疑問も、再び走り出したことに伴う苦痛であっという間に霧散する。

 もう、僕の思考は自宅への帰巣本能のみに支配されてしまった。

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