左手のための悪手

竹原穂

プロローグ 畏ラ拝ラの逃走




 痛む足を引きずって暗い夜道を走る。


「ハァッ、はぁ……はぁーっ」


 生まれ育った村の田圃道なのに、気を抜いたらどこか見知らぬ場所に連れて行かれてしまいそうだ。

 無茶苦茶に踏み荒らした雑草の匂いで鼻の奥が咽せ返る。

 一刻も早く自分の家に帰らないと……!

 足が痛い。腰が痛い。胸が痛い。腕が痛い。眼も、耳も、鼻も、口も、喉も痛い。

 酸素を吸うたびに焼けついた喉が悲鳴を上げるから、呼吸すら辛い。

 だけど、まだ息を止めるわけにはいかない。

 僕には目的がある。

 苦痛に耐えながら這々の体で逃げているのは、長年抱いてきた目的を達成するためだ。

 こんなところで、諦められない。


「えっちゃん、待ってよ」


 必死で走っているつもりなのに、後ろの男は悠々とした足取りで僕に迫る。

 足がもつれて転びそうになったけれど、唯一自由が利く左手で身体を支えた。

 手をついた拍子に握り込んだ地面の土を、体勢を崩した僕に拳を振り上げる男に投げつける。相手が一瞬怯んだ隙をついて、また自宅へと走り出す。


「いたた……もう、服が汚れるよ」


 本気を出せば手負いの僕に追いつくことなんて簡単なはずなのに、男はゆったりした歩幅を一定以上大きくしない。その様子が、また不気味だった。


「私と鬼ごっこをして、きみが勝ったことがあったかい?」


 ない。

 後ろの男が見た目の通り僕のよく知る人物ならば、一度も勝ったことはない。

 ないけど……僕は、僕はいま……。


 、に追われているんだろう?


 そんな疑問も、再び走り出したことに伴う苦痛であっという間に霧散する。

 もう、僕の思考は自宅への帰巣本能のみに支配されてしまった。



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