シオン①


 夢なら醒めて欲しい。そう思いながら眠りに落ち、目を醒ましたところで現実は変わらない。

 今日もまた一日が始まる。悪夢のような一日が。


 ボクが宿屋の部屋に立て籠もりはじめたのは、たしか三日前のこと。

 

 仲間が逃がしてくれたから、ボクは辛うじて無傷で部屋に隠れられた。ボクがみんなに庇われたのは、ボクが年少で貴族の生まれだからとかいうそんな理由。結果ボクだけが生き残って――


 ぐぎゅるるるる、とお腹が鳴った。


 ――鬱々としていても空腹にはなる。思ったより大きな音がして、慌ててお腹を押さえてつけた。


「お腹空いたなあ」


 携帯食糧は一昨日に食べきっていた。水は昨日寝る前に飲んだのが最後のひと口だった。これ以上部屋に籠っていても渇き死にするだけ。覚悟を決めて外に出なければ。


 外に出て、

 まずは安全な場所まで逃げる。

 それから食糧と水を確保する。

 どちらも無傷でやりおおせなければならない。


 ひとつでもしくじったら死ぬ。

 覚悟を決めるしかない。


 窓から外を確認する。今いる部屋は二階。宿の外の道にはいくつかの人影がうろついていた。人影。元・人間で今・ゾンビ。見える範囲にいるのは……一体、二体。


「昨日より少ないな」


 今しかない。今度は部屋のドアに張り付いて聞き耳を立てた。専門職じゃないけれど、やり方は以前に教えてもらった。いつ、誰に教わったんだったか。なんて今はそんなことを考えている時じゃない。集中。足音は無い。立ち止まってる気配もない。ような気がする。


 廊下は無人だと思われた。

 階段を降りて一階を突っ切って外に出て、ふたり躱せば逃げられる。はずだ。


「よし、行こう」


 そう覚悟を決めた。

 まだ動く体力があるうちに。

 動く気力が残っているうちにここを脱出するんだ。


 魔法の杖と最低限の荷物を身に着けて、ドアノブを掴んだ。深呼吸。心臓の鼓動がうるさい。足が震える。行く。行くんだ。行かなきゃ。


「……」


 音を立てないようにそっとドアを僅かに開けて、隙間から滑り出る。素早く周囲を確認。廊下には誰もいない。よかった。いける。慎重な足取りで階段まで進む。身体を隠して一階の様子を窺った。いた。宿屋の店主。赤ら顔で大きな体を揺すっていつも笑っていたおじさんは、顔色をすっかり悪くしていた。灰色っぽい、青。みたいな色。今や半開きの口からは陽気な歌声ではなくて、単調な呻き声が溢れている。


 ギシ、と足元の床が軋んだ。


 気付かれた! 店主——だったがこちらに顔を向けた。落ち窪んだ目は灰色に濁っていた。


「ひっ」


 喉の奥で変な声が出た。

 震える足で階段を駆け下りる。


 既に店主は階段の手前まで迫っていた。両手がこちらに伸びてくる。赤黒い何かがこびりついた指先がやけにはっきり見えた。


「うわわわっ」


太い腕を前かがみになって、躱す。すれ違うように潜り抜けて、店の扉を押し開けて外へ飛び出した。


 道へ出てすぐに左右を確認。右手側に窓から確認していた二体の姿があった。幸運にも同じ方に固まってくれていた。逆方向に走る。


 このまま村の外まで脱出できれば――


 足音が迫ってきた。

 振り返ると二体のゾンビが追いかけてきていた。

 虚ろな目、半開きの口、青黒い肌。顔が怖い。

 いや、問題なのはそんなことじゃない。

 

「走ってる!?」


 しかも速い。ダンジョンで戦ったことのある緩慢な動きのゾンビとは全然違う。こんな速い個体見たことない。


 なんて感心している場合じゃない。


「軽やかに舞い踊るシルフよ、疾く速く鋭き一陣の風となれ」


 口の中で短く素早く、呪文を詠唱。


「《風精刃ウィンドカッター》!!」


 杖を振って放った風の刃が前にいた一体の腕を半ばから切り飛ばす。血が噴き出した。バランスを崩しながらそれでもまだ追いかけてくる。無傷のもう一体ともつれるようにしながら。それでも速い。ボクが走るより速かった。


「ヤバっ」


 追いつかれた。腕を掴まれる。力が強い。引き倒された。膝を痛打。杖が手からこぼれ落ちた。地面を転がる。起きあがろうにも二体分の体重で身動きが取れない。

 一体が両腕を押さえて、もう一体はどういうわけか僕の股間に顔を近づけていた。


「ちょちょちょちょちょ! ちょっと待って! それは駄目だよ! よくない。本当によくない!!」


 大きく開いた口が眼前と股間に迫る。噛まれてしまう。もし噛まれたら。ボクもゾンビに……! 嫌だ。死ぬのは嫌だしゾンビになるのはもっと嫌だ。誰か。助け。


「たすけて」


 かみさま、と言いかけた。

 その直前。

 血飛沫が舞った。

 吹き出した血はボクのものではなかった。その証拠にどこも痛くない。

 

 ボクを捕まえていたゾンビはもう動かなくなっていた。全身を弛緩させて僕の上に乗っかっているだけで、ピクリともしない。ゾンビの死体——っていうのもおかしいけど――をどかせて身体を起こしたところに、


「シオン、無事?」

 

 ボソボソと無機質な、女の人の声が僕の名前を呼んだ。手が差し伸べられた。顔を上げると、長身の美人が影のようにそこに佇んでいた。

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