第33話・後日談(華)

 木炭紙の上でまた木炭が折れた。華は折れた片割れを握り締め、眼の前の石膏像マルスを睨んだ。

 視線の先の石膏像は硬く冷たい表情で華を見つめ返してくる。もちろん腹が立っているのは石膏像に対してではない。

 考えているのは大事な幼馴染みにちょっかいを出すあの男のことだ。熟れた苺のような可憐な唇に似つかわしくない唸り声が漏れる。


「あの野郎…」


「佐藤さん…石膏像に親でも殺された…?」


 横に立って声をかけてきたのは、華の進学した聖マリア女学院の男性教師で、彼女が所属する美術部顧問の塔本天音とうもとあまねだった。既婚者で三十路を超えているはずなのに妙にふわふわした雰囲気の麗しい彼は、女生徒達から『姫』というあだ名で親しまれていた。

 日本人にしては少し色素の薄いウエーブがかった茶色の髪と、少し垂れ気味なアーモンド型の焦げ茶の瞳。細い鼻梁に薄い唇。

 天音はほわほわと髪を揺らしながら優しく笑って首を傾げた。確かに姫っぽい。


「みんな帰っちゃったよ?何か悩みごと?」


 見渡せば美術室に華と彼以外人影はなく、彼女は溜息をついて折れた木炭を拾い、帰り支度を始めた。


「幼馴染みが…悪い男に捕まりそうで心配なんですよ」


 いつもの華ならばそんな愚痴は零さないが、天音の柔らかい口調と雰囲気に気持ちが緩んで、少しくらいなら話してもいいかと思う。


「悪い男?」


「中学の同級生なんですけど、外面いいけど腹は真っ黒」


「そりゃ心配だねえ」


 ちっとも心配してなさそうなのんびりした口調に少々イラッとする。


「付き合ってもいないのに彼氏気取りで周り牽制しまくって鬱陶しいったらありゃしない。彼女も元からぼーっとしてて自分が色んな奴に狙われてるの気付いてないっていうか」


「彼女は彼のことどう思ってるの?」


「分からないって言ってました…けど」


「けど?」


 華は鞄に筆入れを乱暴に突っ込みながら葉の事を思い返した。

 子供の頃から変質者に狙われやすい彼女をずっと守ってきた。つい2年前も家に侵入したストーカーに襲われかけた。その時すぐ駆け付けた臣を少々見直した事もあったが、基本的に葉を取り巻く男は信用できない。華が常に持ち歩くメモ帳兼閻魔帳の要注意人物の欄に名を連ねている。

 葉も葉で、隙あらば何か仕掛けようとする臣から『助けて』と縋ってくる割には彼に甘い。華が制裁を加えようすると悲しそうな顔すらする。

『そんなに悪い奴じゃないし…』と顔を赤らめるのに、じゃあ助けを求めるなと何度ブチ切れた事か。

 同じ高校に通おうと言ったのに、結局臣に説得されて共学に行ってしまったし。自分の意志はないのか?そういえばあんまりなかったわ、と華は頭痛を堪える仕草で額を押さえた。

 昔からなんでも華の後をついてきて、意思決定はほぼ任されていた。優柔不断というか流されるままというか…。そのくせ変に頑固だ。


「私の代わりに他の虫から守ってくれるのはいいんですけどねえ。なんかムカつく」


「大事な幼馴染みが取られちゃいそうで嫌なんだねえ。聞く限りではその男の子も彼女のこと大事にしてるんじゃないの?」


 事情を聞いた天音はニコニコしながら頷いている。毒気を抜かれて彼を見つめた華は、バックに花でも背負ったら似合いそうだなと思う。


「大事にっていうか…執着べったりな感じが気持ち悪い。変態と紙一重…」


「僕の奥さんの話しようか〜?」


 華が眉間にシワを寄せていると、天音が唐突に話を切り出す。急にどうした、と思ったが、この学校の卒業生だという彼の奥さんの惚気話は授業中にもちょくちょく聞かされていたので、ただ言いたいだけかもしれない。


「誰にも言ったことないから内緒だよ。僕の奥さんねえ、前世から僕のこと大好きだったんだよ。執着って言ったら負けるよね〜」


「前世………」


 映画の話かな?それとも不思議ちゃんかな?と思ったが、天音は大真面目だ。華も人の事は言えないが、彼も相当変わっている。


「運命の人っているんだよ。彼と彼女もそうかもしれないね」


「そんなの認めません」


 頑なな華の言葉に天音は苦笑して自分も帰り支度を始めた。


 美術室の戸締まりをした天音と並んで歩きながら、華は運命について考える。彼が言ったことが本当ならどうやって分かったのだろう。前世を覚えていた事も信じ難いが、そんな相手と出会えたのは奇跡に近い。

 考え込む華の横でポケットからスマホを取り出した彼が画面の表示を見て嬉しそうな顔をした。


「あ、奥さんから電話だ。もしもし、茉莉花まりか?うん、まだ学校だよ。え?車で迎えに来る?会社反対方向でしょ?もう外で待ってるの?…分かったよ、心配性だなあ」


 漏れ聞こえた会話から察するに噂通りのラブラブっぷりらしい。少し恥ずかしそうな表情で電話を切った天音は、華に「気をつけて帰ってね」と言って職員室に入って行った。


「運命か…」


 運命など信じない。自分でコントロールできない人生などまっぴらごめんだ。

 少なくとも葉の気持ちがはっきりするまでは負けを認めるつもりはない。

 そろそろ2人も下校する頃だろう。華はスマホで葉にメッセージを送り、学院と隣接している彼らの学校の校門前で待ち合わせる約束を取り付ける。臣は嫌がるだろうが幼馴染みが断らない限りこれからも一緒に登下校するつもりだった。

 仮に2人が付き合ったとしても幼馴染みの地位は不動だ。



☆☆☆☆☆


天音先生のお話は『一方その頃』で書きました。

よろしければそちらもどうぞ。

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