第五章 『掛け軸の中での再会』

(1)


「さて……と。随分と寒いところですね」

 手に握り締めていた鬼の髪の毛を解き放ち、自身を抱きかかえるようにして二の腕をさする。

 ひゅう~、ひゅ~と、やけに物悲しい風が吹いていた。

 前から吹いて来るかと思えば、次は後ろから。右から。左から。

 どこからともなくあちらこちらから風が吹きつけてくる場所だった。

 土の臭いがしていた。乾いたものではなく湿った臭い。

 空気は生ぬるく、少しばかり黴臭さも混じっていた。

 墓場の臭い、だった。

 事実、依代の周囲に点在するのは朽ちた家屋と枯れた木々たち。

 人間の気配などどこにもなく正に死した村があるばかり。

 空は月のない夜。星の一つも出ていない。

 だが、その光景を依代が見ることはまだできなかった。目が慣れないうちは認識できるものは一つとしてないということが酷くもどかしく思えるのだが、見えずとも、とても寂しい場所なのだと依代は察していた。

 元いた場所は白に近い世界だった。

 だが、それに比べて『こちら』は黒に近い灰色の世界だった。

 ぐるりと辺りを見回す。

 どこを見ても取り立てて何かが見えることはない。いや、視えるには視えていた。モヤモヤとあちらこちらから立ち上る黒い靄の存在を。燻る《澱み》の存在を。

 少なくとも、《菩薩》が住まうような清浄さは欠片もない。

 だとしても、依代は別段驚きを持つことはなかった。むしろ当然のことだと思っていた。

 これでやって来た世界が清浄極まりない空間だったら、それこそ眼を疑っただろう。

 村を襲っていたのは人々の憎しみや恨みの感情。それが《澱み》となり、瘴気を生んで障りをなした。

《菩薩》はその障りを、誠二郎を通じて取り除いて行っただけのこと。

 取り除かれた瘴気は、誠二郎を通じて《菩薩》のいるこの世界へと移されていた。

 消えたのではなく、移動しただけ。それが溜まるだけの空間が正常でいられるはずがなかった。

「後でこちらもきちんと浄化しなくてはなりませんね」

 誰にともなく言い聞かせる。

「だとしても、とりあえずはあの鬼を捜さなければなりません。どちらにいると思いますか?」

 ひゅ~。ひゅ~と風の音。

「私は何となくあっちの方だと思うんです」

 依代が視線を止めたのは、丑寅の方角。

 通り過ぎて行く風の臭いが、そちらから来るとき微かに鉄さびにも似た臭いが混じっているように感じていた。

「駄目で元々って、いい言葉ですよね。とりあえず行ってみましょうか」

 依代以外に動く者がいない世界で、依代は一人、誰かに話し掛けるような、自分に言い聞かせるような口振りで歩き出す。

 シャリ、シャリ、シャリ。と湿った土の上を歩く独特の音がついて行く。

「《こちら》の世界はどのくらい広いのでしょうか?」

 初めて来る世界だった。

 本来であれば、祥之助があれやこれやとどこに何があるのかを教えてくれるが、今依代に教えてくれる者は誰もいない。

 目を閉じたまままっすぐに歩くことは意外と難しい――ということを、一体どれだけの人が知っているものか。

 自分はまっすぐに歩いているつもりでも、気が付くと大分違う方向へずれている時がある。

 導いてくれる者がいなければ、指針となるものがなければ、人は容易く違う方向へ歩みを進めている。

 それが正解の時もあるだろう。意図せず幸運に見舞われればいい。

 だが、気が付いたときには随分と目的地から離れて崖っぷちに立っていることもある。

 歩くということは、導きもなく歩くということは、それだけ恐ろしく不安の付きまとうものだが、見えてもいない依代の足に迷いはなかった。

「ですが、いつ来ても不思議なものですよね。たった一枚の紙の内側に、これだけの世界が広がっているのですよ? そうは言っても、実際には見えてなんかいませんから広さなんてわかりませんけど」

 柄に右手を添えながら、声を弾ませて独り言ちる。

「まぁ、たんに掛け軸が《この世界》の入り口の一つになっているだけなんですけどね。ですが、自分たちの住まう世界のすぐそこに、こんな世界があるなんて、普通は考えませんよね?

 だって、視えないんですから、あるなんて信じることは出来ませんよね。でも、こうして実際にはあるんです」

 依代は歩く。まっすぐに目的地に向かって。時折風に混じる臭いを嗅ぎ取り、方向を間違えていないことを確かめながら。

 こちらに来た時より、大分依代の眼には《世界》が視えるようになっていた。

 眼を限界まで細めれば、なんとなく物の輪郭が捕らえられるようになっていた。

 だが、《世界》にまだ慣れ切っていないせいで、はっきりと視えるようになったわけではなく。

 だからこそ、本来眼が見えていたら、絶対に進まないその道を依代は歩いていた。

 断崖絶壁の崖と崖の間を、依代はまっすぐに、てくてくと。

 本来であれば、眼が見えてさえいれば、絶対に進まないだろう。

 切り立った崖だった。突如道が消えていた。対岸の崖までは五丈(約十五メートル)。橋でも架かっていなければ渡れない。ましてや、崖下を覗き込んでも底が見えないともなれば、普通は足を止める。迂回をする。諦める。

 しかし依代は何もない空間に恐れもなく足を出し、視えぬ道をてくてくと歩いていた。

「これは……なんでしょうか? これまであまり感じたことのない感触です」

 足の裏に伝わる柔らかいような硬いようななんとも言えない感触に、形の良い眉を寄せて小首を傾げる。

 初めは黒に近い灰色の世界に視えていた。

 今は、世界が赤黒いものに変化して、徐々に空と地上の境なども認識できるようになっていた。だが、今歩いている足元を見れば、真っ暗闇。

 どうしてこの辺りだけ真っ暗闇なのだろうかと思いながらも歩みを止めない。

 その真っ暗闇が、本来道のない場所だということに気づいてもいない。

 異様な光景ではある。あり得ない光景ではある。道なき道を――本当に道のない空間を歩いているという恐ろしい事実を、残念ながら指摘する人間は一人もいない。

 結果、依代は何事もなく対岸へと辿り着き、当然のように歩き続ける。

 聞こえて来るのは物悲しげな風の音。恨みがましい風の音。時に呻き声のような風まで吹いて来る。

 心の弱い者であれば、十分にこの風の音を聞いただけで、気が触れて病むだろう。

 だが、依代はどこまでも《普通》だった。まるで気にしていなかった。依代にしてみれば、《それ》は当たり前のものだったから。怯えて泣いていたのは遠い過去。何より今は独りではない。

 だからこそ依代は言葉に出して喋っていた。

「おそらく、鬼も私が《こちら》に来たことは判っているはずなんですけどね。どうして出て来ないのでしょうか? 思った以上に体力を消費していたのでしょうか? ですが、《こちら》に戻ってくれば回復も早いと思うのですが……。

予想外、だったのでしょうか? そうですよね。本来であれば私に《こちら》に渡る資格はなかったのですからね。《あちら》にいたとき髪の毛を取られたことに気が付いていたのか、気が付いていても気にしなかったのかは分かりませんが、そのせいで私まで《こちら》に来られるようになったのですから。知っていたのであれば今頃は悔しがっているのでしょうか? 知らなかったのであれば驚いているかもしれませんね」

 くすくすくすと、楽しそうに笑う。

「きっと驚いているのかもしれませんね。だから息を潜めているのかもしれません。ですが――」

 不意に依代は笑みを消す。

「このままでは駄目ですね。早く解放してあげなければなりません」

 ひゅおぉぉぉ~と物悲しげな風が吹く。

 シャリ、シャリ、シャリと小さな足音が大きく響く。

 生き物の気配が欠片もない世界。

 あるのは凝り固まった《澱み》たち。

「――――いい加減。何か一言でも返してくれてもいいと思うのですが…………相変わらず応えてはくれないのですね」

 唐突に依代は頬を膨らませて唇を尖らせた。

「ねえ。聞いていますか? 寝ているわけではありませんよね?」

 と、恨みがましく詰ったときだった。

「――――――っ!」

 一度は下げかけた視線を、依代は前方へ向けた。

 確かに聞こえたのだ。助けを求めるその声を。

 足を止めて耳を澄ます。

《眼》を凝らす。

 すると、前方から白っぽい靄が近づいて来るのが『視えた』。

「お~い。そこの……」

 と、心から安堵したような声がはっきりと依代の耳に届き、白っぽい靄が人の形をとるほどに近づくのを待った依代は、

「って、なんだ。あんたあの座敷にいた娘じゃないか」

 露骨な落胆を口に出されて、正直少し頭に来た。

 反射的に浮かべていた微笑みが凍り付くも、

「一体なんだってこんなところに……。あああもう、こっちだ。あんたも鬼に攫われて来たのか? こんなとこにいちゃいけない。逃げるんだ」

 依代が何かを言う前に、さっさと依代の手を掴んで走り出す。

 声は依代の知っているものだった。

 声の主は、今朝方誠二郎の屋敷に怒鳴り込んで来た兼一のもの。

 掛け軸の中にあっさりと引きずり込まれた男のものだった。

「ご無事だったのですか?」

 思わず驚きの声を上げれば、

「生きてるって言う意味じゃご無事だよ。でもな、いつまでもこんなところにいたら意味がない。ここは、人間が生きられる場所じゃない!」

「だとしても、どこへ逃げるというのですか? 出口を知っていらっしゃるのですか?」

「知るか! そんなもん!」

 震える声で怒鳴られた。

「知ってたらさっさと逃げ切ってる! でもな、どこまで行ってもまた同じような場所に戻って来ちまうんだよ! あの崖さえ――対岸にさえ渡れたら違うかもしれないが、渡る手段がない!」

「崖?」

「ああ! どこまでもどこまでも続く崖があるんだよ! 底なんて見えないし、身の毛もよだつような生ぬるい風が吹き上げて来るし! どこかに橋でもないかと探したって、どこにもない!」

「だとしたら、一体どこへ逃げるというのですか?」

「知らねぇよ!」

「そうですか」

「そうですか……って、あんたは怖くないのか?! こんな気味の悪い場所にいきなり連れて来られて!」

 手を引かれながら怒鳴られる。

 声が大きくなったことから、こちらを振り返っているのだということは察することは出来たが、

「そうか」と、息を飲む気配がしたかと思うと、

「あんたには見えないんだったな。この世界……」

 舌打ちをしかねない苦い口調で吐き捨てた。

「でも、見えないからこそ、余計に不安じゃないのか?!」

「不安……ではないですね」

「なんでだよ!」

「なんで……ですか?」

「普通は怖いだろ?! いきなりこんな訳の分からない世界に放り込まれりゃよ! そもそもここはどこなんだよ!」

「掛け軸の中ですよ?」

「は?」

「《奇跡の掛け軸》の中です」

 あっさりと繰り返された答えに、言葉を失う兼一。

「なんで、そんなところに?」

「鬼に攫われたのかとおっしゃっていたではありませんか、ご自分で」

「そりゃ、そうだが……でも、なんで?」

「皆様方が約束を違えたからですよ?」

「は? なんだそりゃ。鬼と約束なんか交わした覚えはねぇぞ?」

「ですが、誠二郎さんとはしませんでしたか?」

「は?」

 と意味不明だと言わんばかりに聞き返したときだった。

「うわっ」

 足をもつれさせた兼一が盛大に転んだのは。

 依代は、兼一が倒れた際に驚いて手を放したお陰で、巻き添えを喰らうことなくその場に立ち止まる。

「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫だ」

 全然大丈夫には聞こえなかった。

 足を止めたせいで一気に疲労感が襲って来たのだろう。ゼイゼイと苦しそうに呼吸を繰り返し、それでも、

「こ、こっちだ」

 息も絶え絶えになりながら起き上がり、依代の手を引いてどこかへと導く。

 依代は素直について行き、

「ここなら陰になって見えないかもしれない」

 どさりと腰を下ろす音を聞きながら、どうやら建物か何か遮蔽物があるのだと理解する。

 あともう少し時があれば、もっとはっきりと視えるようになりますね――と思っていると、「で?」と先を促された。

 一瞬、何の話か分からずに小首を傾げれば。

「誠二郎との約束ってなァなんのことだ? あんたはこの件何か知ってるのか?」

 苛立たしげに問われ、依代は答えた。クスリと苦笑を浮かべて、

「つまり、そういうことですよ」と。

「どういうことだ」と、兼一の眉間に深い深いしわが寄る。声には剣呑なものが交じり、思いっきり睨み付けて来るが、依代にしてみればどこ吹く風。相手が怒っていることは十分に理解した上で、言い放つ。

「これはすべて、自業自得なんですよ。皆さんの」

「は?」

「あの時、誠二郎さんは掛け軸を掲げて言いませんでしたか? 『毎日感謝することが出来るか?』と」

「感謝だァ? そんなこと……」

 と苛つきながら言いかけて、唐突に言葉を途切れさせる。

 みるみる兼一の顔は怒りから渋面へと変化した。

「まさか、そんなことで? そんなことでこんなことが起きたのか?」

「そうですよ?」

「そうですよ……って、そんな話があるか!」

「ありますよ? むしろ、今にも腐り落ちそうな手足を、一撫でするだけで完治させるような事象を見ておきながら、どうして今回のことを否定なさるのですか?」

「そ、れは……」

 当然のごとく返されて、言葉に詰まる兼一。

 対して依代は容赦しない。

「病の発端も元はと言えば皆さんが作っていたようなものではありますが、それでも一度は奇跡が起きました。その奇跡を持続させるための最低限の簡単な約束です。それさえ守ってくれていれば、奇跡は続いていました。現に、今も真面目に毎日感謝している方々は再発なんてしていません。ということは、今回の再発は約束を反故にした方々の自業自得なのです」

「でも!」

「それなのに、感謝の心を忘れ去り、奇跡を忘れ去っておきながら、奇跡の加護がなくなった途端に話が違うと乗り込んで来て、一体誰が気持ちよく助けてくれるとお思いですか? 誰だって、恩を忘れて知らん顔された相手に、いきなり上から目線で命令されて気分がいいはずないじゃないですか。頭に来て懲らしめてやろうと思っても仕方がないと思いますよ?」

「それでこんな、《神隠し》みたいなことが起きてたって言うのか?!」

「そうですね。おそらく」

「だとしても、あんまりだろうが! 感謝しなかったからって、そんな……」

「ですが、あり得ない現象を引き起こす者との約束は絶対なんですよ?」

 ニコリと微笑まれて、兼一は絶句する。

「日常ではありえないことを引き起こす者との約束は、破るとそれ相応の罰を受けることになります。今回は、病を元に戻すというものでしたね」

「ふざけるな!」

 怒鳴り付ける声が震えていた。

 それは恐怖心と後悔とやるせなさから来るものだった。

「ふざけてはいませんし、こういう事象の原因は、大体そういうものなのです。

 あ、一応念のためにお断りしておきますが、私は別に説教をしているつもりはないのです。ただ、事実を事実として述べているだけですので、私に怒られても困りますよ?」

「でも、じゃあ、何だって俺はこんなところに来たんだ?! これも罰の一つなのか?!」

「いえ。それこそ、自業自得ではないですか? 誠二郎さんも止めていましたのに、あなたが不用意に掛け軸に触れたから、引っ張られてしまったんですよ」

「じゃあ、あんたは?」

「私ですか?」

 問われてぱちりと瞬き一つ。

 依代はニコリと微笑んで答えた。

「私は自分の意志で来たんですよ。こちらにお住いの鬼に用があったので」

「は?」

 顔を引き攣らせた兼一に、それ以上の返答のしようはなかった。


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