第三章 『奇生種屋の主』

(1)

「さて、道行きながらにお訊ねします。あの絵が人を飲み込み始めたのはいつの頃のことですか」

 依代からの質問は、座敷を出た瞬間から始まっていた。

 口調は相変わらず穏やかだったが、ただ一つ違ったのは、穏やかな口調の中に混じる薄ら寒い冷たさ。嘘偽りを述べることは許さないと言われているかのような圧力。

「あなたはあの掛け軸が人を飲み込むことを知っていたのですよね?」

「あ、ああ」

 強張った声音で肯定するころには玄関に辿り着き、

「これまで、どれだけの人が飲まれたのですか?」

 先に土間に降りた祥之助が、上がり框に腰を下ろした依代の足に草履を履かせる横で、すっかり蒼褪めた誠二郎は『解らない』と震える声で答えた。

「それはどういう意味ですか?」

 立ち上がった依代が、立ち上がれないでいる誠二郎を見下ろして重ねて訊ねる。

「途中までは、数えた。でも、途中から、やめた」

「何故?」

「こ、怖く、なったんだ」

「何故?」

「何故って、怖いだろ! いきなり掛け軸に飲み込まれて行くんだぞ?」

 逆切れだった。

 恐ろしさの反動だった。

 容赦なく訊ねて来る依代に怒りすら覚えて顔を上げれば、すでにそこに依代はおらず、戸口で祥之助共々誠二郎がやって来るのを待っていた。

 誠二郎は立ち上がった。膝が情けなくなるほどに笑っていた。

 それでも誠二郎は足を踏み出していた。

 口元に微笑みを湛えなくなるだけで、依代の雰囲気はまるで別物になっていたから。

 言外に、早く来いと言っていたから。

「初めは、村の連中だった」

 無言の依代と祥之助に促され、先に屋敷を出た誠二郎は震える声で答えて行く。

「病が出始めたのは田植えの頃。手足が腐り落ちる病そのものは初夏を迎えるころにはなくなっていて、夏の盛りには掛け軸の噂が広がってあちこちから人が来たり、迎えが来て出向いたりしてた。お礼だなんだって信じられないぐらい物が集まったのが夏の盛りの頃」

「確か、菩薩が消えて鬼が現れたのもその辺りだったのでは?」

「ああ、そうだ。夏の盛りのある時に、掛け軸を開いたら鬼がいた。屋敷を出るときは間違いなく菩薩がいたはずなのに、いざ巻物を使う段階になって開いたら鬼がいたことは昨日話した」

「そうですね」

 まだ薄暗い村の中。本来であればまだ寝ていてもおかしくない時分。

しかし、外にはチラホラと村人たちの姿が見て取れた。

その顔に浮かぶのは、どれもが異様な雰囲気を感じ取った不安げなモノ。

それが誠二郎を見つけた途端、不快気に眉を顰めた。

誠二郎は突き刺さる視線を一切無視するように、足元だけを見ながら足を進めた。

「その頃からだ。再発したって村の連中が来るようになった」

「再発?」

「ああ。突然痣が現れて、今にも腐り落ちそうだってな」

「まぁ」

「屋敷にやって来て、俺に取りすがって、また前みたいに助けてくれって言って来た」

「それで?」

「助けられるわけがないだろ?!」

 冷静に問われて声を荒げる。

 まだまだ紅葉は色づき始めたばかりの時期だった。昼日中ともなれば、ともすればまだ汗ばむほどに温かい時もあると言うのに、早朝は薄手の羽織りものを望むぐらいには涼しかった。

 だが、誠二郎を襲う震えは、何も寒さばかりが原因ではなかった。

 恐怖だった。あの鬼と再びまみえなければならないのかと思った時の、あの恐怖心を思い出していたから。そして、『無理だ』と告げたときの村人の顔が、懇願していた顔が豹変し、まるで鬼のごとき形相で睨み付けて来たことを思い出したから。

 鬼がいる――と誠二郎は思った。あの掛け軸の中の菩薩となり替わった鬼が、今目の前の人間に乗り移って自分を睨み付けて来ていると。

「俺は断った。無理だと言って逃げた。でも、そいつは追って来た。無理とはどういうことかと。もう治せないんだって言っても、信じてくれやしなかった。上がり込まれて罵られて、そして――いなくなった」

「いなくなった」

「意味が分からなかったよ。目の前に確かにあった背中が、《掛け軸の間》に入って、掛け軸に手を伸ばした次の瞬間、目の前から消えたんだ。代わりに飛び込んで来たのはあの鬼だ。俺は腰を抜かした。連れて行かれてしまったのだと解かって、這ってその場を後にした。そんなことが何件も続いた。治してやりたいのは山々だが、掛け軸に触れれば最後、俺だっていつ飲み込まれるか分からない。だから俺は近づくのをやめた。それなのに連中は治してくれって詰めかけて来て、俺を詰った。責めて、罵って」

 あの顔が恐ろしかった。

 村人たちの後ろに鬼の姿がちらついた。

 お前も来い。こっちに来い。まだこっちに来ないのか?

 そう、嘲笑っているような気がしていた。

 心の臓が捕まえられているような息苦しさと、背筋を這う怖気。

 今思い出しても怖ろしさに身が竦む。

「俺はいつも止めたんだ」

 自分は悪くないと主張する。

「嘘は一つもついていない。菩薩は消えた。鬼がいる。病は治せないし、どうしようもないってな。それでもあいつらは耳を貸さなかった。出し惜しみをしているのかと疑って、上がり込んで、何人も何人も掛け軸に飲み込まれた。俺にいったい何が出来たって言うんだよ!」

 慌てふためいて坊主に助けを求めたこともあったが、一度鬼に呪われた坊主は、全力で関わることを拒否して来た。絶対に嫌だとガタガタ震えて、坊主にあるまじき態度で誠二郎を追い出した。

 遠方から『再発した』と怒り心頭で乗り込んで来た連中は刀を振りかざして脅して来た。

 命の危険があると察した誠二郎は、率先して《掛け軸の間》に連れて行き、あえて鬼に連れ去らせたこともあった。

 それだとて、仕方のないことだと誠二郎は思っていた。自分の命を守るためだったのだ。

 誠二郎だって死にたくはない。

 だからと言って、村人たちを攫わせたいわけでもない。

 だから止めた。それでも踏み込んで来たのは村人たち。

 聞く耳を持たずに攫われたのは自業自得。

 そう言い聞かせて生きて来た。

「帰って来ないその身内の方は訊ねては来なかったのですか?」

「来たさ。でも、どうしろって言うんだ? 鬼に攫われて消えたなんて言ったところで誰が信じる?!」

「難しいでしょうね」

 あっさりと返されて唇を噛む。

「俺は、悪くないはずだ! 俺はちゃんと忠告したんだ!」

「そうですね。ただ、その結果、再発された方々はどうなったのですか?」

「!」

 流れとしては当然の疑問に、誠二郎はヒュッと息を飲み込み、口を噤んだ。

 ギュッと心の臓を鬼が握って来たような衝撃があった。

 全身からぶわりと冷や汗が噴き出して、こめかみをつぅっと汗が滑り落ちた。

 結果は、散々なものだった。

 忘れるには早すぎる手足を腐り落とす大きな痣。黒紫色に染まった手足は想像を絶する痛みと熱を人々に与え――

「命を落とされてしまったのですね」

 沈黙から容易に導き出される答えを突き付けられた。

「だからこその反応なのですね」

 一人納得する依代の言葉が飲み込めず、無意識に背後を振り返れば、途中でこちらを見ていた村人たちと目が合い、咄嗟に目を逸らされたり睨まれて合点が行く。

 誠二郎は恨まれていた。憎まれていた。

 一度は助けて《仏の誠二郎》とまで言われてもてはやされた。

 それが今、数か月前までの村八分になっていた時よりも、自分に向けられる目は厳しいものになっていた。

 憎たらしかった。腹立たしかった。誠二郎だって救えるものならば救っているのだ。

 だが、出来なかったのだ。

「俺だって、何とかしたかったんだ」

「でも、出来なかった」

 少しばかり同情の籠った声に、誠二郎は子供のように無言で頷いた。

「再発された方々の身内が、掛け軸に呑まれて姿を消した。救いの手を伸べてくれずに命を落とした家族を持つ者たちは、さぞやあなたを恨んだことでしょう」

「っ」

「その上、救いを求めに家を出た身内もあなたのもとを訪れてから行方知れずともなれば、村の皆さんの心証は悪くなる一方。道理で、《奇跡の掛け軸》があるにも関わらず村の空気がギスギスと緊張を孕んでいるはずですし、一方で《神隠し》の噂も広まっているはずです」

 事実を事実として確認されているだけだというのに、誠二郎は酷く自分が責められているように感じた。

「ですが、判ったこともあります」

 突如、依代の声に明るさが戻る。

 一体何が判ったのかと、恐る恐る肩越しに依代を振り返れば、依代はニコリと微笑んで、

「攫われたのは皆、かつてあなたに病を治してもらった方々の身内。ということですよね?」

「あ、ああ」

 思い返してみても、そうだった。皆が一様に『また』と言っていた。

「だとすれば、かつて治療した方々全ての方が再発してしまったということでしょうか?」

「それは違う」

「即答ですね」

「ああ。断言はできる」

 事実、全員が全員ではなかった。

 それほど住人の多い村ではない。生まれてから一度として村を出ていないし、村八分になる前は普通に交流のあった人々だ。村人全員がほとんど顔見知りのような状況で、自分が助けたのが誰かは把握していた。

 絶縁状態になってしまったかつて親しかった人々に泣いて感謝されたときの心の温かさは今でも忘れられない。

 そうやって、心を温めてくれた村人の身内は一人としてやって来てはいない。

「ということは、再発した方と、していない方の間には、何か明確な違いがあるということです」

「そ、うなるのか?」

「おそらく。だとすれば、その違いは何なのか。何故いきなり再発をしたのか。お尋ねしますが、あなたは鬼が人々を攫った時、何か言っているのを聴いたりはしませんでしたか?」

「き、聴いてはいない。というか、出て来てすらいないと思う」

「そうですか。何か鬼が主張してくださっていれば手掛かりにもなったのですが」

「手掛かり?」

「ですが、面白いですね」

 ふふふ。と笑った声に、誠二郎はゾッとした。

 何故ここに至って笑っていられるのか理解が出来ずに、恐ろしいものを見るような心地で依代を見ると、依代は嬉しそうに、楽しそうに、まるで何かを期待しているように目を細めて微笑んでいた。

 悲鳴染みた声が聞こえていた。

 再発した家の周りには、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが群がっていた。

 一人、また一人と、誠二郎がやって来たことに気が付き、様々な視線を投げかけて来た。

 憎悪。嫌悪。憎しみ。期待。不快感に祈り。

 その視線を一身に浴びながら、一行は大きな栗の木のある家の前に辿り着いた。

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