③ 椎名守

 椎名空の父、まもるを見たとき、最初に思ったのが「こんなものか」という怒りだった。それは、椎名空という娘がいたからでもあるし、僕が理想を押し付けてしまった結果でもあった。そこで踏みとどまっていればいいものを、あの時の僕はブレーキの踏み場を見失っていた。駆り立てる行き場のない怒りは目の前の椎名守に向いた。

 椎名守は、空よりも幾倍も才能のない、場を支配できない役者だった。空気がない、演技が薄い、主役を張れない。とりたてて目を見張る点もない。未だ役者として未完成の、年上の、娘が才ある役者。その場に耽溺し、上を目指そうともせず己の未完成さに諦め、成長をとどめている。それなのに、みな囃し立てる。空の父だとし、力のない演技をオッケーとカンテラを切られる。警笛が鳴り終わったなあなあの「まあ、よかったんじゃないか」と生ぬるい空気感が漂うあの空間に吐き気がする。

 どれだけ譲歩しようとできなかった。許せなかったのだ。彼が空の父親を名乗り、演技をし、彼女が言う神様になっていることに。そんなことがあって堪るものか。こんなやつが空の父を名乗り、俳優界に重鎮として居座る未来に憎しみすら感じてしまう。

 だから、僕は自身の演技力で椎名守を追いやった。会話の掛け合いシーンで、これまで得てきた記憶を存分に活かし感情を乗せた。まず最近見たドラマの大女優がしていた発声方法を真似てみる。感情は自身が思春期の頃親に反発していたことを乗せた。表情は僕と同世代の俳優のものを。切なさや怒りといった湿った空気感を作るのは椎名空の場を操る演技を。

 こうして継ぎ接ぎな僕の演技はまとめあげられて調和し、役を作り上げられる。どの演技も下位互換でしかないが、これに負けるようなら空の父と名乗ることを剥奪するのもいとわない。

 歯を剥きだしにして彼女の父親との会話の掛け合いシーンに挑んだ。ぴりりと焦げ付く自分自身。思ったよりも世界観に溶け込む僕に恐怖を覚えつつ、椎名守に「来い」と戦いを挑んだ。

 あの椎名空の父親なんだろう。それなら、僕を負かしてくれよ。

 だが、彼女の父は僕の演技に気おされた。このシーンはお互いの演技が拮抗していなければならなかったのに。演技としても父の威厳も、空の父としての威厳もワンカットで地の底に転げ落ちた。カンテラが切られた後、才能の落差に絶望した椎名守は情けなく目の前に崩れ落ちた。みっともなく「もう一度お願いします」と監督と僕に頭を下げて、三カット取ったが最初のカットよりは鮮度が落ちた演技になり、あえなく最初のカットを採用することになった。

 僕たち役者の意見など聞かずともドラマはお茶の間に流されるし、それがどれだけ納得のいかないものだろうとお金は振り込まれる。

 ただ、映像から感じられるものは思ったよりもシビアだ。そこにドラマチック性や、独特な空気感、演技の力、目を惹きつけられるものがひしひしと伝わってくる。記憶に残り、印象付けられる力は役者によって変わってくると僕は思っている。とりわけ空が身近にいるのならなおさら、椎名守は理解しているだろう。

 椎名守がこの大河ドラマを機に俳優業はおろか、脚本すらも請け負わなくなったのは噂に聞いている。

 僕はそれを聞いて一人安堵に浸っていた。

 愚かなことに同時に椎名空が低迷していくなんて思ってもみなかった。


「忘れたらいいのに」

 舞台『青空のハコ』での台詞が、僕の心を急き立てる。

 椎名守のことなど、父のことなど忘れたらいい、と演技と感情が重なりあう。

 ハコの中を空に筆談しながら歩き回る。一緒に住み始めて二日目。彼女とカミサマである青は、海のあるハコを散策する。ハコの奥にある市場に訪れて靴を買う。市場のシーンになると、舞台上に傘が開く。市場へ続く道は傘が誘導している。足音がタイルの乾いた音がする。演技に上手く取りつかれている。

「つらいことがあれば、忘れたらいい。逃げてもいいんだよ」

 母親に涙する彼女に青は何度となく告げた。

 台詞との親和性が妙にある。青と僕は、似た者同士だ。空への憧れに似た好意なんてまさにそうだ。僕は彼女のことに心底惚れ込んでいて、演技をする青を見失いそうになる。板の上に立った今、感情の箱に閉じこもり一人で旅に出ている寂しさを感じる。青を僕という器に入れて動かしているのだ。青を操縦する僕に誰の助けも来ない。

 演者は誰でも、板の上では孤独なのだと、ある脚本家は言っていた。

 孤独にならないために役者はある種の『契約』を脚本と行う、と。

 台詞や役柄をおろし、自身の中の孤独を消す。

 魂を売る代わりに架空の誰かと入れ替わる。

 自分ではない人を身に宿し現世に現人神として役を降臨させる。

 その脚本家は、僕たち俳優のことを狂気の沙汰だとなじったが、一方で役を降ろすことに神聖視もしていた。

 僕は役者を卑しいやつらだと、今だったらはっきり断言できる。僕のような、あらゆる人から感情や表情といったものを根こそぎ奪い、継ぎ接ぎの一つとして木偶の坊な演技に取り入れるのだからなおさら卑しく思える。

 靴を買うシーンがきて、白と呼ばれるのっぽの役者が出てくる。白はハコの中のカミサマの一人だ。赴任してきた海のあるハコを管理するカミサマが、彼。新島演じる白は全身黒い服を着て髪が肩まであり、現実の彼と等しく女か男かわからない。

「僕たちカミサマは、システムと『契約』して願い事をかなえる代わりに、体の部位をシステムに捧げる。代替品として機械の手足をもらい受ける。だから普通耳が聞こえない空はシステムと契約して耳を取り戻すことをしても不思議ではないのに、しないのは珍しい」

 新島の台詞が僕の胸に突き刺さる。

 靴を選びながら、カミサマとシステムの関係を物語にのせていく。

「青は、確かに私たちの中でも異端だな」

 ハコの中のカミサマは、証として部位が機械義手になる。僕が演じる青は、四肢が全て機械だった。そのほかにも、肺であったり、胃であったりといった内臓が機械器官として備わっている。システムとの契約をいくつも交わしている証拠だ。

「私は指だけ『契約』した」

 白が青光る機械の指を差し出した。

「青のようにこれだけ多く契約をしたカミサマは私も見たことがない」

「僕も、同じだ。僕以上に証が多いカミサマは見たことがない」

「機械の指だけでもメンテナンスがめんどくさいのに、これだけあったらなおさら手間がかかりそうだ」

「お前の指だって、細かすぎてめんどくさそうだけどな」

「ま、青がいるように彼女のような耳が聞こえない人もハコの中にはいるんだってことだな」

 口の減らないカミサマだ。

 案の定、空は僕と白が早口で会話をしだしてから、興味を失ってしまって靴を選んでいる。横顔の輪郭が綺麗なカーブを描き、言葉を失う。空が靴を置き、足に合うか試す。黒のパンプス、黒のブーツ、黒のハイヒール……白い足によく似合う。

 そのたびに記憶の淀みをすくいあげられ、根底にある記憶の欠片がのぞく。これは青の記憶ではない。演技では出てきてはいけない僕の記憶だ。ぼんやりと影のようなものが部屋の中を行き来している。僕にすがりつく。「あなたの演技って何? どこにあなたがいるの?」目の表面が湿っていく。なぜか胸がしめつけられた。

 僕の演技は、僕はおろか役さえいない。彼女は役の空気そのものを作り出す役者だとしたら、僕は役を違う何かで練り上げて落とし込む人形のような役者だ。まるで青のような継ぎ接ぎの機械でできたような役者で、記憶のない空っぽの人間で、脚本と醜い契約をしてようやく彼女の前に立てている。自身のことをまるごとあけわたす彼女のような役者とはまたわけが違う。僕の演技は観客のためにある上っ面のものだ。

 でも、そんな僕だって、彼女に対しての意思だけは強固に存在する。この意思だけは、誰にも汚されてはいないたった一つの僕のものだ。

 何があろうと、僕は彼女に向き合い続ける。

 舞台の背景に観客にも見えやすいように彼女の言葉が映し出されていた。

『カミサマって、お父さんとかお母さんいないの?』

 こつ、こつ、と黒のパンプスの踵を鳴らし、ハコの中に音を一つ二つと空は増やしていく。歩きながらも器用に紙に言葉を書いて僕に示す。

 黒いタイルが敷き詰められた広場は、朝来た時よりも傘のテントが張られていて、人がまばらに寄り集まっていた。ハコの人口が少ないから、これでも盛況な方なのだろう。システムが生み出した果物、それを加工したお菓子、家畜を裁いた肉の類も売っていた。様々な匂いがひしめきあうのに、空の筆談の音は妨げられないほどに静かだった。

『私は、お父さんもお母さんもいたけど、カミサマは常に一人だから』

 揺らぐ彼女の影に椎名空を見る。

 ──私の母は荒んだ父を支えた。仕事なんて放り出して、ただ一人でみじめに布団にくるまり震える父を、それでも見捨てずに必死になって。もともと体が強くないのに。

 夜の吐息とともに流れていく、空の怒りが痛烈に僕の肌を擦らせる。

『私のお母さんは、耳の聞こえない私を支えてくれた。カミサマだって、もともと欠損していたのならそういう人がいてもおかしくないでしょ』

 板の上の空は柔らかく筆を走らせて、思い出しては表情を朗らかにさせる。

 母の思い出で暖をとっているかのような温かさに対し、逆に僕は居心地の悪さを抱かせる。青にとっても、僕にとっても空は執着しているようにしか見えなかった。

 怒りであっても、美しい記憶を呼び起こすことであっても。それはそこに停滞し進むことができない、過去にとらわれているだけで何も生み出さない無意味なものだ。

「僕にもいたかもしれないな」と青が言った。「でも、それはシステムとの契約で触れることを禁忌としているんだ」

『それは悲しい。もしかしたら青はそれだけの欠損を抱えてまで忘れたいことや、叶えたいことがあったのかもしれないのにね』

 わからないよ。

 きみの言う記憶や感情は必要ないことなんだから。

『忘れてるのが悲しい』

 忘れ去られるべきものなんだ。

 ──簡単に忘れられると思わないで。

 ハコの空は、椎名空よりも柔らかく激情を感じられない。瞳に映る切なさは、からだ。真ん丸の水晶玉のような無垢な瞳でカミサマを見上げる。無邪気な子どものようになんの汚れもない空気が諭されているかのように感じられてしまい、僕は引いてしまう。もとより、空も椎名空も、どちらも僕は愛おしいと思っているからか、空の演技力に押され続ける。

 僕たちの掛け合いは続く。若干の僕の後退気味な演技とは裏腹に彼女の演技は際立っていく。飛び跳ねて子どもっぽく見せ、空の愛らしさを演出したり、僕が言った台詞をなんの音も聞こえていないといった風に無視するが、次には気づき顔を青ざめて瞳を潤ませて、耳の聞こえない空の切なさを演出したりと、脚本から逸脱しない程度の本物の空の空気を演出し続ける。スポットライトは二人に当たっているのにも関わらず、空のたもとへ移動しているような感覚に陥る。

 このハコの主役は僕なのに。

 ハコの案内も終わりに差しかかる。母親の勤めていたパン屋さんに訪れ、空はショーウィンドウの中のパンをこつんとつつく。小さな動作はかわいらしい上に哀しさが溢れだす。母親のことを思い蹲る。

「この食パンをください」

 傍らでパン屋と僕の会話が続いているのに、常に観客の視線は彼女にあるように見える。

 蹲り肩を抱きしめて泣きそうになるのをこらえて体を震わす。黒い髪が靡きキューティクルが光る。スポットライトで艶は光の粒になり、瞳の中に夜空を浮かべる。黒い百合のコサージュがそっと横に添えられている。そうしてゆっくりと百合のコサージュが持ち上げられ、蝶のような睫毛がぱちぱちと瞬いた。中にあるのは、何も映していない黒い大きな瞳。持ち上げられた無垢な瞳に何も映していないことが不安にさせる。

 ぽかっと次の瞬間口を開けて、「お母さん」と呟く。

 僕の演技が固まってしまう。と、同時に観客の息が止まるのを肌で感じる。

 彼女の次の動作を

 からからの喉を潤すために、能動的に彼女の演技という水を欲する。あまりに自然、しかしながら普段得ていない潤いある美しい感情を彼女の演技から彷彿とさせる。

 共演者も、彼女の動向をうかがう。

 知らないうちに飲み込まれていた。

 空が立ち上がり、後ろで手を組みながらこちらを振り返った。頭を傾げさせて何もない虚無な表情のまま、頬を上げる。

「か・え・ろ・う」

 こつん、こつん、と水たまりに滴る雨の波紋のようなヒール音が先に行く。広がった波紋はかすれて消えて、僕の不安を再び増幅させる。彼女との演技が恐ろしい。これから先、椎名空の才におぼれて、僕は本来の演技を忘れてしまうかもしれない。

 こつん、とヒールの音が鳴るたびに、これからの脚本を脳内で追っていた。先に見えるト書きのセリフの数々は何度も練習した場面だ。それも、観客や僕という演者の目というもの全て椎名空が奪った今、最も彼女に軍配があがるであろうシーン。

 次のシーンは空と青の会話の掛け合いシーンだった。

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