第19話 彼氏契約

寺田てらだからは場所と時間しか知らされていないんだが、今日は何の仕事だ?」


 セルフで淹れたコーヒーを飲みながら、先輩が口を開いた。


「あなた、最近変わったわね。最近というか、夏休み終わってからかしら」


 真意が読めない。

 仕事に関係ある話?


「そんなにか?」


 そういえば桃山ももやまにもそれとなく指摘された気がする。

 女の勘ってやつなのだろうか。


「ええ。ほぼ別人とも言えるぐらい」

「大げさだな」


 ここでようやく大岡部おおおかべ先輩が俺の方を流し見た。

 切れ長の目がある種の妖艶さを醸し出していた。


「あなた、今日は整髪料使ってないでしょ」

「今日は、ってか、大体いつも使ってないが……?」


 大岡部先輩が目を細めた。

 あれ?

 もしかしてゲームの中の俺は使っていたってこと?

 そんなオシャレなものが家にあったかどうかも自信ないが、わざわざ言ってくるということはそういうことなのだろう。


「雰囲気から何から別人みたいで少し戸惑って学校ではほとんど話せなかったのよ」

「そ、そっすか」


 小市民の俺の方からも大岡部先輩のような容姿と知名度と実家に恵まれた人間には話しかけづらい。

 あまりにも今更な話なのだが、あのゲームの存在がなければ関わることもなかったのでは?

 吉川よしかわは同じクラス、桃山はゲームという繋がりがあったが、大岡部先輩とは何をすればあのゲーム抜きで子どもを持つところまで行くのか全く想像できない。

 しばらく沈黙が続いて、


「とはいえ、吉川さんに聞いた限りだと、私や桃山さんがあなたと接し始めた頃が異常だっただけという見解だったけど」

「あの頃は色々あってな」


 ようやく本題に入るのか、椅子の向きを変えてこちらを見据えた。


黒田くろだくん。最近カノジョができたみたいね、おめでとう」

「は? また誰か俺のフェイクニュース流してる?」

「ふふっ。また、って」


 ひとしきり笑ってから、


「でも、誤魔化しても無駄よ。桃山さんに『お前が飽きるまでは付き合ってやる』と言ったのでしょう? 何度も自慢されたわ」

「え、それと彼女に何か関係あるの?」


 しかも秒で捨てられたし。

 俺の質問を無視して、顎に手を当てて独り言を言い始めた。


「ふむ。まだ自覚がないだけなのでしょうけど、彼にはそれを断るメリットも特にないはず。つまりは時間の問題。なら……」


 鞄からA四サイズの封筒を取り出した。

 受け取り、その場で中身を確認する。


「彼氏……契約……?」


 一番デカく書かれていた文字を読み上げて首を捻る。

 ちゃんと漢字読めていたかどうか不安になる文字列だ。

 実際、契約書らしく、契約内容や注意点のようなものがずらずらと書かれ、最後の方には自署欄が設けられていた。

 向こうの署名も既に済まされている。


「あーっと、俺、こういう契約するの初めてだからもうちょっと説明くれない?」


 実際、あのゲームでは二年の終わりまで関わっていたというのにこんな一度見たら絶対忘れるわけないクレイジーなブツを見た覚えがない。

 ツッコミやコメント欄の確認、娘たちとの対話などでテキストの理解が中途半端になっていたところがないわけではないが、だとしても見落とすようなものではない。


「見ての通り、私の彼氏として振る舞う契約よ」

「彼氏として、振る舞う? まあ、彼氏って明言してくれなきゃ嫌だ、ってタイプじゃないけどさ」

「契約内容の詳細はそこに書いてある通りだけど、そうね。なぜこういう契約をするのか、という話は書いてないからここでしておくわ」

「お願いします」


 得体の知れない書類を前にして、つい敬語になってしまった。


「私、それなりに有名じゃない?」


 もう少しドヤ顔で言ってもよさそうな言葉だが、もう言い飽きたようなトーンだった。


「俺は正直テレビの芸能人とかにあんまり興味なかったから、寺田に紹介されるまでほとんど知らなかったんだけど、有名らしいな」

「そういうわけで、あなたみたいにフェイクニュースを流されることもよくあるの。父や母の取引相手の接待のためにちょっと出歩いただけでパパ活と騒がれる、とか」


 パパ活。

 そういや、娘の一人はパパ活をしていると言っていたな。

 それでDNAを感じて、とにかく会ってみろ、となったのだった。

 ここでようやくパパ活のネタ晴らしってわけか。

 いや、でも……。


「接待ってパパ活なのでは?」

「パパ活のプロが聞いたら百パーセント怒るわよ」


 一回パパ活と援助交際を同一視して怒られた記憶がある。

 そこまで細かい思い出があるのに名前だけはどうしても思い出せないのがもどかしい。


「かと言って、正直に『彼氏いません』なんて言おうものなら面倒な輩に絡まれることになるのよ。多くの人たちはわざわざ話しかけてくる勇気もないでしょうけど、それでも声をかけてくる人間って大体ヤバいのよ。まあ実家が私と同じレベルの文化圏になってくると少し話が変わってくるけど」

「仕事の撮影スタジオにバイトとしてわざわざ乗り込んでくる、みたいな?」

「自己紹介、どうも」


 一度コーヒーに口をつけ、


「彼氏がいる、という情報を大っぴらにしてもそれはそれで相手はどんなやつなのか、だとか、カップルで普段どういうことをしているのかみたいなことを知りたがる連中が山ほど出てくるから使いどころの見極めが難しいのだけれど、あまりにもしつこい時に使うわけ」

「あー、だから俺も寺田も今までそういうシステムの存在を知らなかったのか」

「ええ。私には彼氏と呼べる存在がいる。それでもこれ以上迫ってくるなら訴訟。この情報を外部に漏らしても訴訟、ってね」


 外部に漏らしたら訴訟ってことは……と書類に目を走らせると、やはり守秘義務が設定されていた。

 仕事を辞めた後も許可なく漏らしたら訴訟、とも書かれており、本気を感じる。


「この制度が生まれた理由は分かったけどさ、何で俺?」


 顔の前で人差し指を立てた。


「まずは口が堅……じゃなくて、そもそも漏らす相手が極端に少ないから」

「知り合い少ないからな」


 次いで中指も立てる。


「少し前から関わりがあったから人となりをある程度把握できていたし、声を掛けやすかったのもあるわね」


 薬指も立てて、少し意味深な笑みを浮かべた。


「最後の理由は、あなたにはカノジョがいる……まあ、あなたは認めないかもしれないけど、もうほとんど確定事項と考えているからよ」


 前二つの分かりやすさに対して、最後の意味不明さがヤバい。

 うーん。

 しかし少しだけ腑に落ちたことがある。

 バレンタインの時に、大岡部先輩がやたらと本命のチョコをもらっていたら仕事を振っていたという話の背景がちょっとだけ分かった。

 や、でも分かったのはバレンタインの時の言動の背景なのであって、何故こんな条件が設定されているのかは全く分からん。


「俺のカノジョ事情がまず分からんのは置いておくとしても、カノジョがいないとダメな理由って何?」

「単純な話よ。彼氏のフリをする人間を募集しているのに、業務中に勘違いして本当の彼氏になろうと暴走する可能性が高い人間を雇うなんてナンセンスじゃない? だから、彼女という重石を必要とするわけ」

「言われてみると筋が通って聞こえるな」


 でも、聞けば聞くほど面倒くささが勝ちそうになる。

 毎月それなりの固定給が振り込まれる形式で、とりあえずは大岡部先輩の卒業までの雇用期間(状況次第で更新可)、業務内容は月一ぐらいのペースで彼氏のフリとしての実績をつくるためにデートのような行為を行うこと。

 普通にバイトするのに比べればアドバンテージしかないわけで、ゲーム実況に大きな支障もなさそうなのだが、コンプラとか細かい項目に気を回すのが果てしなく面倒そうなんだよなぁ。

 この話、どうすっかなー、と契約書を眺めていると、


「安心しなさい。副業は可能だから、今までみたいな雑用を振った時の報酬はそこに含まれないわ」

「ありがたい配慮だとは思うけど、別にそこ心配してねぇから」

「なら、何を?」

「ただの気分の問題だよ。どうしようかな、って」


 大岡部先輩が立ち上がって俺の前に仁王立ちした。

 身長が高いので威圧感がある。


「残念ながら、この話を聞いている時点であなたに拒否権はないわ。桃山さんと吉川さんにも既に説明してあるし」

「何でその二人に?」


 大きく溜め息をつかれた。


「桃山さんはほぼあなたのカノジョみたいなものでしょう? それに、吉川さんとも個人的な交流があって隠し通すのが難しそうだったから」


 桃山がカノジョ同然というのは完全に誤解だと思うが、ここまで外堀を埋められている以上、断る方が面倒な気もする。


「ま、この内容でこの給料ってのは普通にありがたいから契約させてもらいますか」

「それじゃあ署名と捺印よろしく。ハンコは今持ってないでしょうから、拇印でいいわ」


 契約を済ませて家路につく。

 なるほど。こういう接点があったのか……と納得しかけたが、よく考えるとこれもゲームの流れで先に知り合っていたから起きた出来事だ。

 あのゲームの影響がない世界線でどうやって子どもを作ったのか謎過ぎる。

 まあ、今となっては深く考えても無駄なことだが。

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