第23話





 四月。春子は無事に新しい職場を見つけ、フルタイムで働き始めた。結局、以前と同じ業種のコンサル会社。詳細は聞いていないが、おそらく環境さえ変えれば解決しそうな問題だったのだろうと勝手に解釈している。新しい部屋探しも始め、いよいよこの家を出ていく準備が整いつつある。――このまま、春子が自殺未遂をした理由は聞かずじまいなのだろうか。

 私はといえば、特に変わりばえのない生活……と言いたいところではあるが、わずかばかりの懸念事項が生じている。例のいじめ事件の加害者生徒の登校が始まったのだ。そして高校一年生となった彼女たちの数学を、今年度も担当することになってしまった。しまった、と思った。ちゃんといじめ対策委員会で発言しておくべきだった、「委員の私は次年度の高一を受け持たない方がいいと思います」と。誰も悪気があるわけではない、単純に忘れているか、そこまで気が回っていないだけなのだ。そもそも藤井と本田らを別クラスにすることすら忘れていたような教師陣だ、自分のことは自分で片付けなければいけなかった。


「じゃあ、行ってきます……って、今日は春子が先か」


 春子が相変わらず作ってくれているお弁当を持って、私は今日も学校へと足を運ぶ。――大丈夫、いうてどうにかなる。割とマジで、そう思っている。






「……ここで、aの値が1より小さいか大きいか、それともa=1かの三通りに場合分けをして考えることになります」


 いよいよ始まった、本田らのクラス――高校一年A組での数学の授業。なんだ、皆ちゃんと話聴いてくれるじゃん。内心、めちゃくちゃ安心した。これで授業にならなかったら、竹下先生か、他の数学科教師に相談して担当を代わってもらおうと考えていただけに、それもこれも杞憂だと分かり安心する。


「……次回は、十五ページから二十一ページまでの問題を解いてきてくださいね。では」


 起立、礼。私は颯爽とA組の教室を後にした。

 引き戸を閉めようとした、そのときだった。急に、扉の閉まるスピードが上がり、右手の中指が強く挟まれる。大人になってからあまり怪我をしたことがなく、どのような反応をしたらよいのか分からなかった。声をあげることもできず、私は右手を引っ張った。――抜けない。むしろ、より挟む力が強くなっている気がする。

 これ以上行くと危ない、そう思った瞬間に、ふっと扉の閉まる力が弱まった。


「先生! ごめんなさい、もしかして挟んで……私、気づかなくて」


 声も出ないほどの痛みに耐えながら、私は大丈夫、と左指でOKマークを作った。


「あの、私」

「いや、大丈夫」


 必死の思いで声を出し、笑顔を作ると私はその場をそそくさと後にした。たぶん、うっかりだ。私が扉に手をかけていることに気づかないまま、彼女は扉を閉めてしまったのだろう。なにかが挟まっていることに気づかずに、閉まりが甘いドアを強く閉めてしまった。――そういうことは往々にしてある。

 次の授業は無い。とりあえず、保健室に行くか。私はノートと教科書を胸に抱え、右手の中指を押さえながら、一階の保健室を目指した。目的地に到着し、保健の先生に声をかけた頃には、目の前が徐々に暗くなってきてしまった。――こういうの、たしか迷走神経反射っていうんだっけ。医学部に進んだのんちゃんが教えてくれたな。そんなことを思いながら、私はその場にしゃがみこんだ。





 しばらくベッドで横になっているうちに、あっという間に気分は良くなった。指の痛みだけじゃなく、もしかしたらこのまま指が切断されるかもしれない、という恐怖から気分が悪くなってしまったのだろう。


「あ、原田先生、起きましたか」

「……すみません、ご迷惑を」

「指を挟んだ、とだけ言って倒れちゃったから」


 簡単に状況だけ説明し、放課後に病院に行くことを約束すると、保健の先生は私を解放してくれた。自分で行っておきながらこんなことを言うのは申し訳ないけれど、正直、保健室は苦手。「そんな大したこと無い症状で来たの?」と思われたら嫌だな、なんて思ってしまうのだ。病院もそう。正直、ドアに手を挟んだくらいで訪れる場所ではないと思う。でも今回は、保健室の先生がそう言ったからな、と自身に言い訳をする。

 午後のホームルームまで、痛みをこらえながら仕事をやり過ごす。


「原田先生、指!」


 中学三年生になった我が担任クラス――中学三年B組の生徒が、驚いた様子で私の手元を指差す。


「ああ、ちょっとドアに挟んじゃって」

「かわいそう」


 先生に向かってかわいそうってなんだ。内心あきれながらも、優しい気持ちにちょっとキュンとする。恋とは違う、かわいいな、のキュン。そういうの、中高の教師をやっていても度々感じることがある。所詮は子どもなのだ。悪さをすることはあれど、大人社会の恨み辛みほど怖いものはないと思っている。

 病院に行き、骨には異常無しと診断され、意気揚々と帰宅すると、ちょうど春子が玄関の前で鍵を開けていた。驚かせてやろうか。


「……わっ」

「ああ、美雨」

「びっくりするかと思ったのに」

「私、あんまりこういうので驚かない」


 そういえばそうだったな。春子は昔から、いろんな意味で隙の無い人間だった。背後から強めに肩を叩き、大きな声を出したにもかかわらず、春子は表情をぴくりとも変えなかったけれど、それは昔からそう。


「お疲れ。……美雨、なんか怪我してない?」

「気づくの早いね。ちょっと今日、仕事でね」

「こわー。気を付けてね」


 私の表情から、大したことないと判断したのだろう。春子はそれ以上、なにかを問うことはなかった。


「初出勤はどうだった、新しい会社」

「うん、なかなか良かったよ。前のところと比べると小さい会社なんだけど、オフィスとかも新しくて、過ごしやすそう。……まあ、コンサルあるある、激務になりそうではある」

「それ、大丈夫なの?」


 思わず、訊いてしまった。口に出してからしまった、と思った。春子の自殺未遂の原因を過労だと決めつけていることを、彼女には悟られたくなかったのだ。


「まあ、働きやすさって、必ずしも労働時間の短さと比例するわけじゃないから? 当面様子見だね」


 春子は、特になんの感情も見せずにそう呟いた。過労ではない。そうすると、やはり前職場での人間関係が理由か。


「……いずれにせよ、体は壊さないように注意する」

「春子。……あんたって、もしかして病気なの」


 訊かずにはいられなかった。一度だけ目にした処方薬の袋。勝手に、メンタルのものだと判断していたのだが、あれはもしかして身体的なものだったのではないか。


「えっと、今は特に」


 その返答から、一時期はそうだったのだと察する。その病気こそが自殺未遂の原因だとしたら。……今は本当に、大丈夫なのか?


「本当に大丈夫なんだからね? なんか疑ってるみたいだけど。元気だし、死ぬ気もないし」

「それならいいけど。……まあ確かに、新しい職場で働こうとしているわけだし、その辺は信じるけど」


 自分の考えが、かなり浅はかだったことを思いしらされた。


「美雨は? 一月二月ごろ、かなり忙しそうだったけど、今年度はどんな感じなのよ」

「まあ、今のところ問題ないんじゃないのかなあ」

「何? 担任業務が忙しいわけ」

「まあ、担任もそうだけど……でも、担当クラスの生徒は結構いい子が多くてまだ楽な方」

「ふうん」


 ある程度のところで、春子はいつもちゃんとブレーキをかける。――これ以上、私に質問をしてはいけない。これ以上、詮索するのは禁物だ。よくよく観察してみると、春子の中で、何かしらのストッパーが働いているのだな、と感じる瞬間は、度々ある。それらを全て、「私への無関心だ」と判断してしまっていたことを、恥じている。


「そういえばさ、いい部屋の候補、何個か見つけたんだよね」

「え? どんなの」

「オートロックつき、1K、ベランダつきでウォークインクローゼットも」

「完璧じゃん」


 春子にスマホを見せられて、私はきゃっきゃとはしゃいだ。


「どうやら、空くのがちょうどゴールデンウィーク直前くらいみたい。ちょうど、期限満了って感じだね」


 危なかった、と春子はほっとした様子だった。――これで、春子は無事に新生活を始められ、私も智輝との結婚生活を始められる。そう思うと、なんだか感慨深い。少し寂しいけれど、これはそういうものなのだ。この数ヵ月間、春子と過ごして、そして智輝にも明確に期限を設定されて、よく分かった。それに、別に春子とはこれで今生の別れ、という訳ではない。これからだって、連絡を取り合えばいいのだ。何ヵ月もの間、部屋を貸してやってたんだ、それくらい許されるだろう。


「美雨。それでさ、提案があるんだけど」

「何」

「ゴールデンウィーク、一緒にどこか行こうよ。鎌倉とか、箱根とか。……あ、別に京都とか、遠いところでもいいか」

「いいね! 新生活応援ってことで」

「そうそう! 同居解消記念」


 こんなにハッピーな同居解消はねえな。そう言うと、春子は本当に、と言って爆笑した。




 それからの私は、春子との旅行、そして智輝との新生活の開始を目標に、日々の教師生活を送ることとなる。授業の準備に、担任業務、そして部活の顧問。たまに面倒くさいな、と感じることもあれど、それもまたお仕事。大きな問題がないだけありがたい、そう思っていた。――


 あの日が来るまでは。

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