第7話

 私たちのように恵まれた環境で勉強をさせてもらっている女子学生の間では「社会の荒波に揉まれて働く」というのが王道だとされ、皆将来の夢を持ち、進路を決定していた。文系の友人は、皆何かしらの資格試験に合格し、安定した職業を目指す子が多かったし、理系の友人は、医者や看護師を目指し地方の国立大学医学部を受験した子が多かった。だから、就職に不利とされている理学部数学科に進学した私ですら、多くの友人に心配された。「できることなら主婦になりたい」と言う春子に至っては、変わったやつだと思われていたのかもしれない。でも、それはそれでアリではないかと思っていた。別に社会の荒波に揉まれることが私たちの人生の最終目標ではない。お金に困らず、幸せな暮らしをすることが目標なのであれば、医者以外の道を見つけ、無難な給料ながらもごく普通の幸せを見つけて生きていく私のような生き方も、専業主婦になって夫と穏やかに過ごす生き方も、自分が良いならそれで良いんじゃない、みたいな。

 一方で、「あの春子が専業主婦か」という意外さは感じていた。春子は皆よりも美しく、皆よりも賢く、皆よりも勝ち気、そして皆よりもモテて、また、皆よりバイオリンが上手い、そういう少女だった。とにかく、競争に強く攻撃的な人間だったのだ。そんな彼女が将来外で働けば、周りの人間をどんどん蹴落として、どんどん出世し、大金持ちになれるのではないか、と思っていたのだ。

 実際のところ、社会というのは必ずしも競争だけを求められているわけではない。時として周囲と協力したり、仲良くしたりするスキルだって必要だっていうことは、大学生になり、就活をするようになって初めて教えてもらった。さらに蓋を開けてみたら、春子は大手のコンサル会社に勤め、(おそらく過労で)自殺未遂を犯し、今や私の家に転がり込んでいるわけだから、ティーンエイジャーの人間観察なんてものはあてにならない。


「フルタイムの仕事見つけるのやめて、私の元で専業主婦になったら?」

「なーんで美雨のために一生働かなきゃいけないのよ」


 春子が笑いながらそう言った。


「愛する人ならOKなの?」

「まあね。……愛するって、大袈裟だけどね」


 なんとなく、高校時代の夢はそのまま生きているのか気になったのだ。春子の返事は明瞭ではないものの、「それはそれでアリだ」ということで正しいのではないかと思っている。

 少なくとも現在、春子に彼氏は居ない。ピンチのときに、男の家でなく、私の家に転がり込んだことから、そう推測している。結婚願望はあるのだろうか。気になったけれど、私と春子は、まだそのような話をするような仲ではない。――高校時代には、恋バナだとか、何歳で結婚したいだとか、その手の話題はたくさんしたけれど、アラサーに差し掛かろうとしている今、「ガチ」の話としてそういう質問をするのは憚られる。





 ビーフストロガノフと、冬野菜のサラダ。春子の料理は、食卓をカラフルにしてくれる。普段、牛丼だとか、焼き鳥だとか、そういった茶色の肉料理ばかり好んで食べる私は、食べ物ってこんなに色が豊富だったのかと思う。実に、緑黄色りょくおうしょくである。ストロガノフは茶色か。


「ねえ、聞いてよ美雨」


 少し、嫌な予感がした。


「今日、バイト初日だったんだけど、マジで最悪だった」


 やはり、と思った。彼女は高校生の頃から、口を開くと愚痴ばかりだったのだ。


「私の教育係に任命された人が三十代半ばの主婦の方なんだけどさ、ずっと旦那の愚痴に見せかけたノロケみたいなの聞かせてくるの。それだけならまだしも、『永野さんは? 彼氏は?』って。会って初日にその調子だと、これから先が思いやられるっていうか」


 あるあるだな、と思った。距離感のバグった人間は扱いに困る。


「そんなどうでもいい話ばっかりしているせいで、なかなか業務が終わらない」

「それは迷惑だね、春子にとっても、書店にとっても」

「そうなの! たぶんあの人、本当に辞めた方が皆のためだよ」


 私は春子の話にうんうんとうなずいていた。高校時代の私ならどうしていただろうか。「そういうちょいウザ上司くらい、どこにでもいるでしょう」「興味を持ってくれるだけまだマシ」と一蹴していただろうか。「辞めた方がいいだなんて言うもんじゃない」と一喝していたのかもしれない。もしくは、江本先生や、佐伯教頭を上司に持つよりよほどマシだろうと、自分の境遇と比較して八つ当たりをしていただろうか。――いや、最後のはあり得ないな。それだけはみっともないことだと、当時の私でも自覚している。

 そもそもどうして春子はそのような愚痴っぽい話をするのだろう。高校時代の彼女は、頻繁に自分への共感をねだった。社会人になった今も、私なんかに嫌な出来事を共有して、共感してほしいのだろうか。それとも、暗に先ほどの会話をとがめているのだろうか。「私の専業主婦になったら」という冗談が、彼氏の有無や、結婚願望の有無を探るようなものに聞こえて、不愉快だと感じたのかもしれない。うざい先輩のエピソードとして昇華し、「こんなこと訊かれたら腹立つでしょ」と、暗に諭しているのかもしれない。うざい先輩なんて、本当は居ないのかもしれない。


「ねえ、美雨。聞いてるの」

「聞いてるよ、教育係の先輩が距離感バグってるわ、おしゃべりばかりで仕事しないわでマジf◯◯◯って話でしょ」

「そう」

「相手がどういう境遇なのか、どういう価値観なのか分からないまま、プライベートに土足で踏み入ってくる人間はマジf◯◯◯」


 fワードはやめなよ、とたしなめられる。


「うん。そうなんだよ。……でもさ、美雨、変わったね」

「え?」

「昔の美雨は、そういうのじゃなかった」


 春子が言っていることは理解できる。何故ならわざとそうしているから。


「美雨はそうやって、適当に相手に同調するような子じゃなかったじゃん」

「別に私だって盲目的に春子に反発してたわけじゃないし」

「今は盲目的に同意するの? そんなの、私の知っている美雨じゃない」

「……そっか」


 明らかな嫌悪感を滲ます春子のことを、そこまで理不尽だとは思わなかった。むしろ当然の反応だと感じていた。

 私が春子に懐く同情心は、そんなに綺麗なものではない。――春子のような人間は将来間違いなく幸せになると思っていた。くだらない、ティーンエイジャー女子特有のマウント社会には上手く馴染めないようだったけれど、一人でひたすら自分を磨き、圧倒的正しさで周囲を引っ張っていく、そんな大人になるのだと信じて疑わなかった。それが蓋を開けてみたらどうだ。人生に絶望し、私みたいな平凡な女の家に転がり込んで、死にたいと思いながら生きている。

 私なんかに生かされている、そういう哀れみ。


「でもね、キモいもんは、キモいと言ったまでだよ。私は私が正しいと思ったことしか言わない。あえて春子に合わせてるわけではないよ」


 そう言って食事に戻った。春子はそれ以上何も言ってこなかった。彼女は案外、私の発言に対して強く言い返すことは少ない。それは、学生時代からそう。春子の発言に対し、私が何かしらの意見を言うと、それ以上は深追いをしないのだ。他の生徒とはよく口論をしているのを見たから、春子が私にだけ見せるその態度はなんとも不可解なものであった。






 夜ご飯を食べ終わり、ふたりがお風呂に入り終わった頃には、日付が変わろうとしていた。


「夕食作ってくれたのに、こんな遅い時間になってごめん。私が仕事で遅くなったら、春子は先に食べればいいし、寝てていいからね」


 私がそう言うと、彼女は首を振った。


「でも、しばらくは遅くなる日が増えると思うよ? ……ほら、年末だし繁忙期、みたいな」


 年末というか、冬休みにかけて業務が増えるのもそう。それ以上に、私にはいじめ対応という責任が課されている。江本先生に投げ切れなかった、重い責任。


「私は夜型だし」

「無理してないならいいけど、春子だって仕事始まったんだからさ、私にばかり気を遣ってられないでしょ」

「あのさ、美雨って普段、お昼はなに食べてるの?」

「昼? これまた唐突……えっと、今日は海老グラタンだったかな。その前はハンバーグ弁当で、その前はもう思い出せないけど」

「ああ、ごめん。訊き方が悪かった。お昼は同僚の先生方と喫茶店でランチをしているのか、それともコンビニで済ませているのかっていうこと」

「コンビニ弁当@職員室の自席かなー」


 そう、と春子は素っ気なく答えると、この間購入した美容液を頬に押さえつけていた。


「じゃあ、明日からお弁当持っていったら? 私が作るから」

「ええ? そんなの悪いよ」

「私がバイト先に持っていきたいの。そのついで」


 春子より私の方が朝早く出ていく訳だし、「ついで」なんかで済まされる手間ではないと思うけれど、せっかく提案してくれているのだし、正直春子の料理は美味しい。


「じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな……」

「うん、了解ー」


 とてもシンプルな返事だった。

 春子の話題は、山上の気候のようなスピード感で移り変わる。


「ねえ、美雨。……私、訊かれたかったよ」

「何を」

「あんたは彼氏がいるのかって」

「……はあ?」

「さっき、うざい先輩の話をしたとき。……美雨なら、訊いてくれるかなってちょっと思ってたよ、私のこと」


 この人の思考回路は、もう読めない。


「……一ヶ月後だったら、訊いてたね」


 なんの根拠もない数字を出し、私は明日のために眠りについた。

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