冬
第1話
ただ長らえることだけを是とするわけでもなく、早くに咲き、早くに散ることを美と称えるわけでもない。そんな私たちの願いは、そんなに贅沢なものだろうか。ただひとつ言えることは、私は間違いなく、ロックスターのように二十七で死ぬよりは喜寿を迎えることを前提に日々を過ごしてきたし、社会の歯車にすらなりきれないまま人生を終えるのだとしても、月に一度、僅かに滲んだ景色に
「いやあ、久しぶりに飲み過ぎてしまいました。先輩方、ごちそうさまっ」
頭を下げたのは、私立
「どうせ数年後には三島先生だって奢る立場になるんだから、今のうちに甘えときなねー」
軽く返答した私、
月一、二で開かれる、豊桜学園若手教師の会、略して「若手会」。私と三島先生、そして今年で四年目になる数学科の竹下先生と、二年目の音楽科・牧野先生の合わせて四人が、この会の参加者だ。年配の先生方や保護者たちの理不尽な言動に対する愚痴を吐き出し、一方でちょっとした面白い情報共有をするだけの、しょうもなさと楽しさだけが詰まった飲み会だ。こういうムダな集まりは時代錯誤なのかもしれないけれど、私は嫌いではない。日本酒は美味しいし、先輩も後輩も、気さくな人間が集まっているので、「仕事のお話ができる同世代の友人」くらいの気持ちで付き合っている。若手の中では年長組になる私と竹下先生は、間違ってもパワハラにならないようにと気を遣い、頻繁に後輩を飲みに誘わないようにしているのだが、後輩(特に、音楽科の牧野先生。彼女はとんでもない酒豪だ)の方から「そろそろ若手会ですよ、原田先生」なんて言ってくるのだから、まあ、後輩たちも満更でもないのだろうと判断している。実際、担当教科もバックグラウンドも、なにもかもが異なる四人で情報交換するのはなかなかに刺激的なのだ。
「……そういう原田先生だって、竹下先生にほとんど奢ってもらってるじゃないですかぁ」
「ばれた? ゴチになります!」
「ゴチになっといてくれ、もう」
ひとつ上の竹下先生は、基本的に後輩に甘い。ちょっとお転婆で毒舌な面のある牧野先生や、やや小賢しい面のある私のことを叱ることもなく、こうして度々ご飯を一緒に食べてくれるのだ。三島先生とは若手男性教師同士、結構仲の良い先輩後輩関係を築いているようである。
わが校は私立の女子校、創立百周年を優に越える伝統ある名門校。中高一貫校だが、高校入試も行っており、ごくわずかであるが、高校から入学する生徒も居る、そういった学校である。偏差値はトップレベルではないが良好。部活はあまり盛んではなく、目立った成績は残していないが校内の風紀の乱れはほぼ皆無。例年、有名大学への現役合格者が後を絶たない。何より、当校は私自身の出身校でもあるのだ――教師としての労働環境は、最高レベルに恵まれているといっても良いだろう。
それはもちろん、私自身の努力というか、作戦勝ちみたいなところもあるだろうが、運や環境といったいわゆる「ガチャ」要素が大きいということも良く理解している。模範的なお嬢様学校と呼ばれる豊桜学園女子部を卒業し、名門国立大学をなんなく卒業して、苦学の経験もなく、社会の荒波に揉まれることもなく、再び学校という閉鎖空間へと戻った上、子どもを産んだ経験すらない私のことを、「ひよっこ」と陰口を叩く保護者がいることは分かっている。こちらが特に攻撃をした覚えもないのに、「原田先生はお子さんがいらっしゃらないから分からないかもしれませんけど」「先生は会社勤めをされたことがないようですけど」を枕詞に無茶な要求をしてくる親御さんは、まれに居る。今日の若手会で、私が三人の前で披露した愚痴の大半は、その類いのものだ。
あの女は、私みたいな狭い世界に閉じた人生、信じられないと切り捨てるんだろうな、と感じることがある。――高校時代、長い青春を共に過ごした、あの女。
きっと、それは予言だったのだろう。
「それでは、今日のところはお開きにしましょう。お疲れさまです、お休みなさい」
若手三人と別れ、帰路に着いた私は、スマホの画面を照らす。
『今日もお仕事お疲れさまです。日曜日、何時ごろ集合? 普通にいつもどおり十二時でいい?』
付き合って三年になる恋人、
二十五歳がこんなにも楽しいだなんて、知らなかったよ。いつだって、子ども時代の私の周りにいた大人たちは、「今が一番幸せなのよ」「学生時代が華なんだから」「大人になったら友だちなんかできないんだから、学生時代のお友だちを大切にね」なんてご親切なアドバイスをくれたけれど、そんなの嘘だ。大人の方が、自己決定に自由度があるわけで、自分が何をしたら幸せになれるのか、そのためにどうやって行動したら幸せになれるのかを計算して行動できる人間は、当然ながら大人になってからの方が満足の行く生活を送ることができるはずだ。今日はボーナス日だった。明日、私はデパートに行く。一階のビューティーフロアで、リップを買おうと思っている。SNSで話題になっていた、ラメ入りのピーチピンク。そういった小さな幸せすら、学生時代の私は叶えられなかったわけだ。
帰宅途中、二十四時間営業のバラエティショップに寄った。化粧水と、台所用洗剤を切らしている。私が今ほしいのはキラキラのリップであって、ただの透明な液体でも生活必需品でもないのに、そういうのに邪魔されるのは本意ではないけれど、大人とはまた、そういうことでもある。ため息をつきながら、五六〇円の、化粧水の大容量容器を手に取る。洗剤を探さなければ、と売場をキョロキョロしていると、不意に一人の女性が目に入った。
艶のある長い黒髪に、色白の肌、そして深紅の口紅。白雪姫というあだ名をつけたくなるようなその女性が身に纏うロイヤルブルーのロングコートがあまりにも鮮やかで、目を引いたのだった。
しかも、その女のことを、私は知っていた。
「……
不思議と、彼女を呼び止めていた。気づかない。
「ねぇ、春子だよね!」
酔っていた私は、思わず大声を出した。周囲の客がこちらを見る。ゆっくりと、彼女はこちらを振り返る。
「私、原田。原田
何度も言い訳をさせてもらうが、このときの私はしこたま酔っていた。あのメンバーで飲みに行くと、たいがい少しだけ飲み過ぎる。判断力が鈍った私は、つい、旧友に声をかけていたのである。それまでの私たちの関係であれば、おそらく、無視する方が自然であったというのに。
「……」
春子はなにも答えなかった。自分だけが明るい声をあげていることが急に恥ずかしくなり、私は返事を催促してしまう。
「まさか、私のこと忘れた? 豊桜学園の――」
「忘れてなんか、ない」
私の言葉を遮る。妙に視線が合わないな、と感じつつ、私は春子が抱えるバスケットの中身に視線をやる。
「練炭? キャンプでもするの」
そもそもこんなバラエティショップに練炭なんて売ってたんだ、と思いながら、私はずけずけと春子に質問を浴びせる。キャンプ? それとも七輪で餅でも焼くの? 一酸化炭素中毒には気を付けなよ。もちろん、練炭が自殺に使われることがあるということはよく知っていた。しかし、春子に限ってそれはないだろうと思ったのだ。正確に言うと、春子や私のような、家庭環境や仕事に恵まれた人間が、自殺なんてするわけがないと瞬時に判断したのだ。
しかし、春子は再び黙ってしまった。
「……えっと、春子?」
「とりあえず、これ返してくる。その間に、お会計して待ってて」
春子はかごを少しだけ掲げると、踵を返し、売場の奥へと入っていく。春子の言うがままに行動する理由なんてない。しかし酔いのせいで判断力が小学生レベルの私は、彼女の言うがまま、慌てて食器用洗剤をかごにいれ、レジの列に並ぶのだった。
「お待たせ」
店の外で、春子は私のことを待っていた。
「どうする? この後、どこか飲みに行くの? まあ、私は既に出来上がってるけれど――」
「美雨って今、一人暮らし?」
唐突に、そんな質問をする春子。
「え? そうだけど……」
「じゃあ、お願いがあるんだけど」
春子は私に向かって頭を下げた。
「私のことを、家に泊めてくれない? 生活費なら、払う。家事だって全部するから」
私はすぐにいいよ、と答えていた。判断力が地に落ちている。ただそれだけではなく、春子があまりに切羽詰まった様子でそんなことを要求してくるから。――いや、それもまた、違うのかもしれない。もしかすると、私は春子との関係をやり直したかったのかもしれない。翌朝目を覚まし、二日酔いの中、春子が自分の部屋にいるのを見たときに、なんとなくそう思った。
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