第2話

「君は、真っ直ぐだね」

 何とか絞り出した僕の言葉を受け止め、彼はそんなことを言った。

「強くなりたい。シンプルにそういう言葉で入門を希望する子は、最近なかなかいないよ」

 真っ直ぐだと評価されるような言葉を発した自分自身に驚きつつも、僕は必死に次の言葉を探す。

「えっと、その……夏休み中に、どうにかして力をつけたくて。

 学校に、どうしても潰してやりたい奴がいて」

 彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな笑みに戻った。

「とりあえず、こちらに入りなさい。この道場は、本気で取り組む気持ちのある人なら誰でも入門可能だよ。

 私はここの道場主で師範の諸岡もろおかという者だ」

鳴海なるみ ひかると言います。高1です。よろしくお願いします」


 カバンを道場の隅に置き、道場の床に諸岡師範と向き合って正座する。静かに眼差しを向ける師範の佇まいに自ずと背筋が伸びる。

「夏休みの間に、戦う技を身につけたい、ということだね? 鳴海くん」

「はい。——学校で、クラスメイトから嫌がらせを受けてて……あいつらを叩き潰せたらと、そう思って」

 師範は柔らかく微笑んだ。

「そうか。

 君の中にそういう気持ちが生まれた段階で、君の心はもう彼らに負けることは決してない。何としても勝つのだという強い気持ちは、今の君の状況を必ず変えてくれるよ」


「……」

 薬のおかげで、という話は、やめておいた。


「最初に知っておいて欲しいことは、空手は相手を攻撃する武術ではない、ということだ。

 空手道は、相手の攻撃から身を守ることのみを目的とする。決して人を倒す武器として使ってはならない」

「…………」

 そうなのか?

 ということは、今の僕の欲しい技術とは、少し違うのだろうか。

「——ただ、相手から攻撃を仕掛けられた時は、迷わず技を行使すべきだ。

 君が彼らから身体的な嫌がらせを受けているならば、まさにその場面でこの武術は最大限の力を発揮するはずだ」

 僕は、俯きかけた顔をはっと上げた。

 彼は頼もしい笑顔を浮かべる。

「夏休みといえば、約40日くらいか? 1〜2ヶ月の短期間で空手の技をマスターすることは難しいが、併せて護身術も君に教えよう。あとは君の信念次第で、相手の攻撃に対する効果的な撃退術が身に付けられるはずだ」

「思い切り威力のあるパンチが撃ちたいです」

 思わず口から出た願望に、彼は大きく笑った。

「ははっ。よし。初心者でも効果的に威力ある正拳突きを放つ技術を教えてやる」

「あ、よっ、よろしくお願いします……」

 彼の楽しげな笑い声に、僕は何だか急に恥ずかしくなってもじもじと頭を下げた。


 本気で取り組むつもりなら、夏休みの間毎日ここへ稽古に来なさい、と諸岡師範は快活に言った。他の道場生たちの稽古が始まる前の朝6〜9時の3時間、僕だけに特別な稽古をつけてくれるという。こんなに有り難い話があるだろうか。

 師範はその日のうちに僕の体の採寸をし、僕用の道着を作る手続きを進めてくれた。出来上がるまで数週間かかるらしいが、白く張りのある道着で稽古することで心がより強く研ぎ澄まされるそうだ。自分用の道着ができるまでは、師範の息子さんが昔着ていたものを借りることになった。

 勝手に生きろとでもいうように母の置いていく諭吉が、こういう場面で役に立つとは。大感謝だ。




 毎朝、5時に布団を出る夏休みが始まった。アパートの窓をガタガタと開け、静かに澄んだ朝の空気を吸い込む。近所の公園の桜の青葉がさらさらと心地いい音を立てている。

 例の黒いプラスチックケースから薬を一粒取り出し、爽やかな風を受けながら口に入れる。かりっと噛み砕くと、あのスカイブルーの輝く風が体内と脳内を爽快に巡る。新鮮な力が湧き上がる。 

 この薬のおかげで、僕の毎日が心地いいリズムに乗って回り始めた。 

 朝食を軽めに食べ、大きい水筒にスポーツドリンクを満タンにする。道着とタオル、水筒をリュックに詰めて家を出る。稽古時のコンディションはしっかり整えておかなければ途中で体力切れを起こしてしまう。

 毎回稽古の最初に行う入念なストレッチで、ガチガチに固かった僕の筋肉は柔らかく解れ始めた。指や手首を痛めない拳の握り方、体の芯のブレない立ち方、構え方。基礎的な手足の動きを身につける稽古は一見地味だが相当な体力と集中力を要する。稽古中は、心も体もだらりと力なく突っ立っている暇など一瞬たりともないのだ。


 稽古に通い始めて約3週間後の朝。師範から真っ白な道着と帯を渡された。

 上衣に袖を通し、下衣の腰紐を引き絞り、白帯をしっかりと結ぶ。バリバリとしたさらな布の硬さが一層心を引き締めるようだ。

「立ち姿がさまになってきたな、鳴海くん」

 新しい道着を着た僕を見て、師範がどこか嬉しそうに言う。

 道場の鏡に向き合って立つ自分自身の姿は、驚くほど大きく見えた。気づけば、真っ直ぐに背筋を伸ばして立つことが習慣になっていた。

 

 8月の半ば。稽古を開始して、約ひと月だ。

 その日の朝は、ストレッチを終えた師範がミットを構えて僕の前に立った。

「学んだことを意識しながら、思い切り当ててこい」

 血が一気に沸き立つ。狙うミットをあいつらだと想定し、息をすうっと吸い込む。渾身の気合を込めて突き、蹴った。

「肘が曲がってる!」

「はい!」

「膝から足先が力み過ぎだ!」

「はい!」

 師範の声を無我夢中で聞きながら、練習を繰り返す。気づけば、僕も師範も汗だくだ。

「なかなかいい。君の突きにははっとするような鋭い威力がある」

 首筋に流れる汗をタオルで拭き、水筒を呷りながら師範が小さく呟いた。


 師範は、基本的な稽古と合わせて護身術も伝授してくれた。効果的に相手に打撃を与える方法、少しの力で拳や肘、足先などに最大の威力を持たせる方法。使い方次第で、手足はまさに恐ろしい凶器になるのだ。

 そして、技と知識が身につくごとに、僕の中の怯えた恐怖心は小さくなっていくようだった。




 8月31日、夏休み最後の日の稽古後。

 いつものように師範の後ろに正座し、正面の祭壇に向かい黙想する。

 静かなそのひとときを終えると、師範の穏やかな声が響いた。

「今日までがんばったな、鳴海くん」


「——」

 不意に胸がぎゅうっと詰まり、うまく返事が返せない。

 彼は体の向きを変え、僕に真っ直ぐ向き直った。

「これほどに短期間でここまでしっかりと技を身につけるとは、そうそうできることじゃない。はっきり言って私も驚いている」

 いつもそういう言葉をあまり口にしない師範の言葉と温かい眼差しが、胸に染み込む。


「——ありがとうございました、師範」

 僕は床に両手をつき、師範へ向けて精一杯の思いを込めて礼をした。

 師範は、優しい温もりのこもった声で続ける。

「鳴海くん、自分に自信を持ちなさい。

 君の根気と集中力は、素晴らしい。その能力があれば、どんな困難な目標にもきっと手が届く」


「……」

 薬のせいです、とはやはり言えなかった。


「明日から新学期が始まるな。もしもそのクラスメイト達にまた暴力を振るわれた時は、君の蓄えた力を思い切り見せてやれ」

「——はい。

 明日からは、学校でももっと胸を張っていられそうな気がします」

 僕は、震えそうな声を何とか抑えながら答えた。


「それから——師範」

「何だ?」

「これからも、ここで稽古を続けていいでしょうか」


 その瞬間、諸岡師範はこれまでに見たことのないふにゃりとした微笑みを浮かべた。

 だが、そんなふにゃりモードは一瞬で引っ込め、いつもの落ち着いた声を出す。

「もちろんだ。君のようにやる気に満ちた道場生に去られるのは、私もあまりに寂し……いや、残念だからな」


 少し困ったような表情の師範と目が合い、ふふと小さく笑い合う。

 

「——嬉しいよ。息子が一人増えたようで」

「僕も……あ、うち、父がいないもので」

「そうか」


 窓の外で、夏終盤のセミが盛んに空気を震わせて鳴いていた。



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