4

 適当に歩いていくとだんだん道幅が広くなっていくことに気が付いた。つじごとに建つ家の様子も変わっていく。道は南に向かっているようだ。


 中央に噴水のある広場に出るころには『普通に』豊かな街並みになっていた。たぶんこの辺りの住民は子供を学校に行かせる程度は豊かだろう。日々の食事に困ることもあるまい。夜明けから間もないのにパン売りが屋台を引いている。


 なるほど、市は立たないけれど、その時刻時刻に相応ふさわしい物売りがこうして広場に集まるのか。パン屋のほかにはミルクを売る屋台もあった。ミルク以外にスープも売っているようだ。エプロン姿の女将さんが、客が持ってきた空き瓶にはミルクを、鍋にはスープを注いでいるのが見える。


 向こうにいるのは卵売りだ。朝、鶏が産んだ卵をさっそく売りに来たのだろう。卵を買えるほどには裕福、思った以上にこの辺りは裕福だということか。盗人ガキは後ろを振り返った。


 少女と別れてどれほどの距離を歩いたというのか。大した距離ではなかったのに、まるで別世界だ。ここは変な臭いがしない。何より昇り切った太陽がさんさんと輝いて、辺りを明るく照らしている。商品を売り買いする声が朗らかに響いている。


「よお!」

 不意に肩をはたかれ振り向くと、あのリンゴ売りの男だ。反射的に逃げようとしたが腕をつかまれた後だった。


「なんだよ、まだ殴り足りないのかよ!」

 打たれることを予測して硬く目を閉じ身構える。が、打たれる気配がない。恐る恐る目を開けると目の前に男の顔があった。膝を折って目線を盗人ガキに合わせている。


「その様子じゃ骨が折れたりしなかったようだね。いや、一昨日はやり過ぎた ―― 頭が冷えたら心配になっちまって、あの後、あの場所に戻ったけど、もういなくってさ」


 探したけれど見つからなかった、どうしているか気になっていたんだ。リンゴ売りの男はガキの目をじっと見つめてそう言った。


「それがどうだい、パンを買おうと家を出たら目の前にお前がいる。お前にパンを食わせてやれと、そんな巡り合わせだとすぐに思った」


 そこで待っていろと男は言った。―― いいな、俺を信じて待っているんだぞ。


 男は立ち上がるとパン屋の屋台へ真っ直ぐに歩いていく。パン屋の主人と何やら冗談を言い合っているようだ。そして ――


 あのパン屋、昨日のパン屋だ。盗人の顔が青ざめる。そうか、朝は屋台で出張ってきているんだ。オイラに気が付くだろうか。いや、リンゴ売りの男、知っていて俺を足止めしたのか。


 違う、と思った。それなら最初からオイラを引っ張っていけばいい。あんだけオイラを殴った男だ、それくらい簡単にできる。そうしないのは別の魂胆があるからだ。


 どうする? 今ならまだ逃げられる。男はパンの袋を抱えてこちらに向かってくる。パン屋の主人は次の客にお愛想を言っているようだ。


 腹は確かに減っている。昨日食べたパンなんてどこかに消えている。ミルク屋のスープの匂いがさっきから胃の腑をざわつかせていた。


 あの男が『別の魂胆』をあらわにするのは早くても食事の後だろう。食べたら隙を見て逃げ出す……のは無理だ、下手すりゃ一昨日の二の舞になる。ここは、ここは……


「待たせたな。俺の家はそこだ。ついて来い」


 ここはどうするか、答えは出ていた。どうせ今まで何度も同じことがあった。いまさら『客』を拒む理由もない。むしろ飢えをしのぐには安全な方法だ。


 男の家はこじんまりしていたがよく手入れされ、男一人なら程よい広さだ。外に続くドアを入るとそこは食堂として使っている部屋で、その奥にはカウンターで仕切られた台所があった。吹き抜けになった食堂のわきの階段を登ると、二階に部屋が二つあるのが見えている。


「もうすぐヨメさんを貰うから引っ越すんだけどね」

はにかんだ笑みを見せ男が言った。


「あの『リンゴ』ってのはずっと東の国で採れるんだよ。その国でいいコを見つけた」


 小作農家の娘で『街に出たい』と言うから嫁さんになってくれるなら連れてくよ、といったら頷いてくれた。


「けどさ、親父さんがウンと言うわけがない。だから今度仕入れに行ったとき、駆け落ちしようって二人で決めたんだ ―― まぁ、来年の秋口だな」


 パンを切り分けながら男は一人でよくしゃべった。


 薄く切ったパンに野菜と塩漬け肉をあぶったものを挟んで皿に乗せて、カップにお茶を入れてよこした。あごで「食いな」と言っている。ガキが食べ始めるのを見届けてから自分の分をこさえて自分も食事を始めた。


「足りなきゃもっとあるからな。遠慮するな、昨日の詫びでもある。それにしても……」


 しげしげとガキを眺めまわすと、

「お前、生まれた家は裕福だったんじゃないのか?」

と聞いてきた。


「いただきます、なんて盗みをするようなガキが使う言葉じゃないぞ」


 酒蔵の旦那様は教育熱心で行儀もうるさくしつけられた。それがつい出てしまった。


「母ちゃんは商売女だった。父ちゃんは知らない。裕福なわけない」


答えると男は「そうか……」とだけ言った。しばらく二人して黙々と、与えられた食事を胃に収める作業をしていた。


 その間も男はガキを眺め続けた。やっぱり、と思う半面、いつもと違う感触を盗人ガキは感じていた。オイラを自由にしようとするヤツは男も女も目がギラついていた。


 この男の眼は穏やかで、だから余計に底知れず不気味で、なんだか泣きたい気分だし、すべて見過ごされているような、何しろ訳が分からない。


 あぁ、もう奴は食べ終わってオイラが終わるのを待っている。そしてオイラもこれが最後の一口だ。


「腹は満たされたか?」

頷くと、

「お茶はもういいのかい?」

と聞くからまた頷いた。


「そうか……それで、お前、これからどうする気なんだい」

「それは ――」


 それはこっちが聞こうと思っていたこと、と言いかけて、すべて自分の思い込みとすぐに悟った。この男は本当に親切心でオイラに恵んでくれたんだ。


 一気にほぐれる緊張と、急激な安堵から、つい涙腺まで緩んでしまった。自覚のないまま頬を涙が伝っている。


「おい、何で泣く? 急に食べたんで腹が痛むのか」


慌てる男の声を聞きながら涙を止められずさめざめと泣き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る