第45話 先任の退職

 今度の脚本は、かつて無いほど書き上がるのに時間が掛かった。一番初めに書き上げたと思ったのは、木元が私の部屋に来た晩から三日後のこと。それから、紙に刷って一から見直せば、恥ずかしいくらい未熟な箇所が散見され、それを直しきるのに二週間くらいが経つ、そのときもまた、出来たと思った。出来上がった脚本を木元に送って、私たちはすぐさまいつもの居酒屋に集まった。彼は、最近見ていなかった儀式をした後、「この間は失礼しました」謝罪して、脚本を改善するアイディアを喋り始めた。彼の手元には、赤いインクだらけの私の脚本、彼の提案には、確かに良くなるな、と思わせる舞台的なアイディア、凝り固まった設定を覆してなお、必要性に駆られる程のものがあった。それで、また家に帰って書き直す。その作業の繰り返しに一ヶ月、二ヶ月と掛かった。年明けあたりに劇場のスケジュールを確保していたので、稽古も始めなければならない。それに、稽古している間に勝手に木元が人物の台詞を変えたりするから、殆ど、私も稽古と同時進行で脚本と向き合わなければならなかった。

 十二月三十一日に退職する先任はふくよかな、年上の女性で、近づく結婚生活の期待は、近くにいるとむせかえるほど。年末は忙しい時期だったが、飲食店では持ち帰りのパーティー料理も盛んに売られている時期だった。各々の都合を鑑みて、送別会はあまり広くない職場で行うことになった。その日の職務を終えたあと、そのまま若い先生が車で予約した料理を取りに行って、私たちは丁寧に机の上の書類を片付けた。戻ってきた先生は、私たちでは到底食べきれないような量の料理、高価な酒を一生懸命運んできた。印の付いたカレンダー、結露を吸わせる為に窓の下に貼りつけた雑巾、煌々と灯るストーブ、辺りにはそんな実用的で事務的な物しかなかったのに、くっつけられた事務机に中華のオードブル、大きなチキン、シャンパン、ワイン、ビール、ケーキ、使い捨ての食器の数々が並ぶと、途端に華やか、暖かい雰囲気になった。机の上にあるものは底が円形のものばかりで、ひしめき合っていて、光沢が付いているように煌びやかだった。私たちは普段から、個々が小さな接点で協力しあっていたはずなのに、この日だけは、世界と世界が混じり合っていた。それで、私たちは互いの触れ合っていた世界の中心に居たのが、自分と同じような人間だったのだと気が付いたのだ。職場に居たのは、誰も彼もそれなりに孤独を抱えた人間であった。多分、すぐに事務的な距離感に戻るのだろうけれど、この日だけは、互いに親近感を覚えたのだった。

 会の始まりに、主役の先任が長い挨拶をした。この職場での苦労と、やりがい、嬉しかったこと、そして最後に、全員に感謝をした。挨拶の途中で、いつもクールだったボスがほろりと涙を零した。たちまち彼女に注目が集まり、それに気が付いたボス、「幸せんなりなさい」と、普段の力強い口調で言うのだった。ボスは独身だった。いつも真っ赤なスポーツカーに乗って職場へ来ていた。先任は、「はい」と元気よく答えた。それを見て、急に体の奥が煌々と燃えた。あやうく涙を流すところだった。主役の彼女よりも、私はボスに感情移入してしまった。多分、私の人生には、これから今のような場面が、ボスの主観で何度もあるんだろう。

 それから各々は自由に過ごした。若い先生は嬉しそうにエビチリを食べていた。ボスは先任と、いつも向かいに座っている先輩と話して、笑い合っていた。俯いて紙コップに入ったシャンパンを飲んでいる私に、「相羽さん、これから大変なことはあるだろうけど、頑張ってね」先任が言った。

「はい、頑張ります」と私は答えた。

 私は本当に頑張ろうと思った。

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