第41話 琴似への転職

 今、ダイニングテーブルの上には一冊のノートと、レモンサワーのロング缶、ノートパソコンが置いてある。私は椅子の背もたれに肘を置いて、レモンサワーを一口啜った。

 脚本を書くと決めた。本来なら、本格的に書き出す前に演出家である木元と、作品の方向性を決める打ち合わせをしなければならないところだ。けれど、とにかく一人で勝負したい思いがあった。以前と異なっていたのは、人物の設定が大方固まっていること。生かしたい人間と、語らせたい言葉はある。どう出来事を組み立てて、論理を生み出せば良いのか、そこが分からない。ヒントを求めて、ベッドルームの、河南が整理した本棚を漁って幾つか本を引っ張り出してきた。そうしたからと言って、何かが進展することは稀だった。ただ、突っ張った心臓が揉み解れるように、日常のつまらないことや、劇的なことへ思いを巡らせる鼓動が私の生活に帰ってきた。焦燥感なんて今更無い、秋が深まった、静けさの塊は部屋を、缶の底で揺蕩う水のようにベッドルーム、リビング、昼夜で満たした。近くの空き地からは蛙の鳴き声は夜、絶えず聞こえていた筈だったのに、それが私の感覚で処理されることは無かった。


 ようやく見つけた勤め先は、地下鉄琴似駅近くに事務所を構える、司法書士事務所だった。事務所のボスは高齢の女性で、垂れた瞼は年齢を感じさせる。けれど、向き合って喋ってみれば、意外と力強い声を出すので面接のときは面喰らった。彼女の他に司法書士として働いているのは少し太った若手の男性が一人、今はまだボスの手伝いをしながら修行をしているらしい。それ以外には雑務を熟すためのスタッフが二名いる。その内の一人が、年末に寿退職するらしく、その補充として採用されたのが私だった。

 少ない人数で廻している個人事務所、手狭で、給料が下がった代わりに煩わしい人間のコロニーも無く、ボスは飄々と案件を熟し、若い先生はあわてふためきながらも一生懸命実力を付けようとしている。そんな個々の世界が、極小の接点を持つことで成立している職場だった。私はしばらくの間、先任の女性にくっ付いて回って仕事を覚えることになった。経理の経験が大いに活きる部分もあったが、それ以上に機密書類を取り扱うことが多くなり神経を使った。仕事は忙しく、殆どの時間をせかせか外を回って過ごしたが、殆どの就業日を定時で上がれる職場だった。

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