第38話 なんかしみったれちまったよな

 九月が中頃に入った頃、木元から連絡が入った。彼と会ったのは、一緒に観劇に行ったきりだったから、随分久しぶりに思った。彼と会わない間には、河南と会社、二つの大きな関係の終焉が訪れた。いつもの大衆居酒屋で待ち合わせたのだが、木元の姿はまだ見えない、またあの馬鹿馬鹿しい真似をしているかと思って、路地裏を覗いてみても彼はいない、遅れるという連絡も来ていない。仕方なく一人で店に入ると、木元もいないのに、いつもの彼の神が祀ってあるところの近くに通された。そして、私は隅に張られた木元のサインを見た。そうしていると、私は本物の妖怪を探しているような気分になった。世間のほんの片隅、光も届かないところにいる気がしたのだ。

 しばらく経って、彼は店のスライド扉を開いて入ってきた。私の対面に座ると、埃の臭いがテーブル越しに漂ってきた。香水を付ける習慣は、もう辞めたらしかった。あるいは、無くなったのかも知れない。私は彼の変わりように驚いた。ちょっと前までは、まだ清潔さが残っていたのが、今ではもう、髪も散り散りに、髭も伸びて、シャツもよれている。洗濯はしているようだが、着回すことはしないらしい。

「木元、お金無いの?」

 尋ねると、木元は眼を見開いて頭を振った。

「んなことねえよ」

「劇団の調子はどう?」

「なんもだ。新しいホンがあるわけでもねえし。ずっと、有名なホンの読み合わせとか、遊びみたいなプレリュードとか、筋トレ。俺たちゃスポーツクラブかっての。モラトリアム野郎どもは、俺に相談もしねえで他の劇団の舞台に立ちやがる」

 それから、彼はジーンズのポケットを漁った。けれど、捜し物は見つからなかったらしく、太ももを擦って、静かにレモンサワーを啜った。彼は、もう脚本を書けとは言わなかった。お互いの近況を静かに、淡々と話し合った。職場を退職したいきさつを話すと、驚いた顔で「お互い苦労してんなあ」しみじみと呟いて、それ以上立ち入ったことを聞かれなかった。それは彼の優しさと言うよりは、世間の出来事に対する受容に近い、遠い国の大事件をニュース番組で聞いているような反応だった。それでも、私にとってはありがたい。一人で抱えるには苦しくて、他人に同情されるには繊細すぎる出来事だった。

 

 無闇に思い出話をした。舞台や創作を抜きにして、私たちが語り合えることはそれくらいしか無かった。それで、私は大学時代の自分を思った。当時の自分も、まさかこんな風に未来の自分に追想されるとは思わなかっただろう。

 思わなかった。

 出し抜けに木元がこう言った。

「今度の土曜日な、河南、お前の家に荷物取りに行きたいってよ。新しく住むところ、決まったっつって」

「あ。そうなんだ」

「うん。伝えてって、頼まれたから……」

「河南、今どこで寝泊まりしてるの?」

「実家っつってたぞ。石狩の方の」

 彼女の実家は、色々なことをばらされた、周囲の一部では無かったのだろうか。もしかしたら、彼女は地獄のような日々を送っているのかもしれない。それにしても、河南はこういうことを、直接私に言わないのだな、と思った。気まずさを感じているのか、単純に心の距離が離れたのか。彼女の新しい住居は、結局、すすきのワンルームに決めたらしい。稽古場やバイト先に通うことを考えれば、色々都合が良いんだろう。ただし、それでは今のままだと生活費が足りないだろう。きっとバイトを増やさないといけなくなる。

「なんかしみったれちまったよな」彼は呟いた。

 本当にそうだ。今の私にだって、もう大したものなんか残っちゃいない。退職したときに貰った幾ばくかの退職金、資産というにはほど遠い金額だった。取り敢えず貯金と合わせれば、当面の生活は、贅沢をしなければ食いつなげる程度。人間関係なんて言わずもがなで、無くなっちまったと言わんばかりに、小説や映画に埋没する日々。後ろ向きではあったが、楽しい生活ではある。人との接触が少ない仕事を探しているが、そう都合の良い仕事は中々見つかるもんではない。間を見つけては内職の仕事、貯金は増え無い、けれど手を動かしていれば、無心でいられた。

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