第35話 停電

 停電は復旧する気配が無かった。どうやら、周辺の街灯も電気が通っていないらしい。冷房も止まり、部屋に蒸した熱気が籠もってきた。手探りでソファの当たりを探って、なんとかスマートフォンを見つけた。河南が、ベッドルームからスタンドライトを持ってきた。何かを燃やしているような光が、部屋を余計熱くさせた。私たちは、そんなライトを間に挟んでソファと床に座っていた。ソファの方には私がいた。汗が滲んできて、シャツを脱いだ。河南のキャミソールも、彼女の汗で色濃くなっていた。ブラとショーツだけの姿になった私を、彼女は紅い顔で、羨ましそうに見た。そして、暑苦しそうに身を捩ってキャミソールを脱ぎ始めた。ブラも付いているタイプだったから、汗に濡れた乳房が露わになった。彼女は私の視線を気にしながらも、タオルで自分に付いた露を拭った。首の周り、脇の下、胸元、乳首を押し上げるようにして、私を見ていた。私は汗を拭いもせず、彼女の体に浮いた影の、揺れ動く様子を見ていた。思い返すのは夜の行為ばかり、私は彼女の愛を結論として、帰納的に行為を求めていた。そうすれば、行為が愛になると信じていた。その一方で、河南は私の歩く道のりの、もう少し先に立っていた。多分、彼女は長い演繹法で私を愛するようになった。それは、私たちが学生の時代から。色々な苦悩、我慢がそこにはあったのだと思う。

 彼女は私を誘惑しているようだった。いつもはロマンチックな過程は抜きにして、ただ私がベッドに腰掛ける河南にまとわりついただけだった。乳房の下、汗をゆっくりと拭いながら、上目遣いで私を見ている。初めて行為をした夜に、可愛いと言われたことを思い出した。そのときは、謝罪とそれの接続が分からなかった。呪いを掛けるように、声を潜めて何度も呟かれた言葉だった。また、あるときに「可愛いと言って欲しい」という彼女の願いを聞いた。我武者羅に行為に勤しんだ過去、可愛いという呪詛、そういった記憶が、もう遠い過去のように思われた。きっと私の精神は快復してしまったのだと思う。木元と、彼の神の奇跡を目の当たりにしてから。

 そして気が付いた、「可愛い」という呪いの言葉が修飾するのは、きっと女性なのだ。河南は、私に女性として愛されることを望んでいた。彼女自身も、それを呟きながら私を、女性として愛していた。河南にとっては、同性に「可愛い」と言われることこそが、彼女を肯定したのだった。けれど、彼女の露わになった上半身、それを見たところで思うことは、やはり「美しい」だった。彼女にとってはそれこそが呪詛だったのだと、今気が付いた。なぜなら、「美しい」の修飾語は男女生物非生物問わない、もしも、河南がサクラさんと出会っていたら、彼女の価値観は少しだけ変わったのだろうか。何にせよ、今ではもう叶わないこと。失った喉仏を擦っていた。顔のエラを手術で削っていた。可愛いくあることが女性であることの全てでは無い、私はそう思う。けれど、世の中の人々にとっては、女が可愛くあること、それに美しさが伴えば申し分ない、その程度。常識という物は、本当はマイノリティ、マジョリティ問わず牙を剥いている。世間に迎合していたって、常識が心強い味方になっているという、そんな気分になれるだけだ。

 河南が、私に甘えた調子ですり寄ってきた。夕方に、彼女の体温からすり抜けたのを気にしているのか、愛撫を求めているらしかった。彼女は何のてらいも無く私に好意を寄せてくる。私は彼女に嫉妬した。彼女は私が越えられない障害を平然と乗り越えられる性質を持っているんじゃないか。

 彼女の素肌がまとわりつくと、私の体が硬くなった、急に喉から水気が失せた。暑さとは別のものが私に汗を流させている。彼女の頭を撫でた、撫でて、それだけだった。彼女は身じろぎもしない。

「河南、あの動画……」

「動画?」

「初めてのときに河南が撮ってたやつ」

「……ああ、よくそんなこと憶えていましたね」興醒めした様子で前髪を掻き上げ、私は消して欲しいんだよと本心を伝えた。

 部屋は暗い、飛ぶ蚊を追うような彼女の視線、何の表情もそこには無い、やがて、卓上のライトに目は止まった。私は、彼女の瞳孔が静かに閉じていくのを見た。ライトを見続けて、瞬きもしない。そのまま、時間が止まったような瞬間が訪れた。息をしているのは、パソコンの電源ランプだけ。肌はくっつけ合ったままだったから、次第に取っ組み合いに似た体の熱さを感じてきた。スマートフォンに手を伸ばした、瞬間、彼女はもの凄い力で私の手を引っ叩いた。「どうでも良いでしょ!」怒鳴り声を上げた。「何が動画ですか、ンなもん今更……関係無いじゃないですか」

 彼女の表情、醜く歪んで、泣いているような笑っているような、この感情の名前を私は知らない。私は河南のことなんて何も知らない、何も理解していない、本当のところ、同性愛というものを私は、まともに考えたこともない。そこに熱量を感じただけじゃないか、月の、反射している灯りの暖かさを感じていたかっただけのこと。裏側の影の部分、温度も時間も無いような場所には見向きもしない。

「河南は、私以外の女の人を好きになることは出来ないのかな」

 私は優しい声しか出せなかった。

「どうしてそんなことを言うんですか?」

「私は河南みたいにはなれないよ」

「私みたいにって、同性愛者ってこと? 私、一度も沙織さんに変わって欲しいなんて言ったことないよね?」

 同性愛者が自分を同性愛者と言うとき、どうしてその言葉が他人事のように聞こえてくるんだろう。勝手に付けられたあだ名を自分で呼ぶみたいに、そこには本人の温度感が無い。そして、私が彼女をそういう風に思っていたことも、確かな事実、当たり前だという風に、なんの後ろめたさも無く、同性の、裸を見れば喜ぶ人種と、信じて疑わなかった。

「ねえ、河南。マイノリティって、きっとそういうことなんだよ。普通の人にとっては、存在しているだけで変化を求められるんだよ」

「普通の人? 沙織さん、じゃあ、どうして私に優しくしたんですか?」

「私は、河南みたいになりたかったから」

 動機を口にすれば、自分自身が世界で一番卑怯な人間に思える。自分を受け入れる強さが欲しかった。けれど、その強さは自分の何処にも無かった。彼女に触れて得られると思ったのに、孤独に立てない自分の弱さを知るばかり、それが、自分の思春期を抜け出すということなのだと信じていた。確固としたもの、確固としていたい。同性愛者でも世間でもいい、どちらでも良かった。

「お願い、動画を消して……」

 私は泣きながら彼女に哀願した。止めどなく自分の中から熱い物が流れて、それが私の外面を冷ました。下がった体温を求めて、余計流れた。その度に視界が燃えた。あらゆるものの輪郭が太くなって、光と影になった。

「ふざけんなよ」

 河南の怒声は尤もだった。立ち上がって、彼女のスマートフォンを私の顔に突きつけた。

「私を拒絶するんなら、動画、SNSにアップロードしてやるから」

 声を震わせながら冷たく言い放って、せせら笑った。

「私、沙織さんの職場も知ってるんですからね。プリントして、あんたの恥ずかしい姿をばら撒くことだって出来るんですからね」

「ごめん……」

 私は彼女の前に手を突いて、泣きながら謝った。

「河南みたいな強さが欲しかった。自分を見つめる勇気が……」

 彼女は膝を突いて、私に顔をぐっと近づけた。そして、優しい声でこう言った。

「抱きしめてよ、そしたら許してあげるから」

 そして、濡れている私の頬に、唇を滑らせた。

「抱きしめてよ」

 今度は強い口調で呟く。私は頭を振った。すると、彼女はすっと立ち上がった。

「それじゃあ、動画、拡散しておくから。後悔しても、もう遅いからね。勝手に孤独になっちゃえばいい。お前なんか、誰にも愛されないで死んでしまえ!」

 そう言って、頬を擦りながらベッドルームに歩いて行った。

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