第32話 私はここにいる

 そのうち消滅すると思っていた大型台風は、どうやらこのまま北海道に上陸するらしい。大抵の嵐は、北上して北海道に上陸するかと思う頃には日本列島を逸れている。どんなに大きくて、威力があってもそうなのだった。どんなに他の地域で被害を出していても、それが自分の大地に来るとは思わない。全く不思議な道民性だ。けれど今回ばかりは、到来すると予想していた。この頃は何もかも嫌な方向に考えるようになっていて、私の中でその夏の嵐は、着実に私の下へ迫っていたのだ。


 私は嵐に怯えるように河南を抱きしめた。彼女には彼女の生活があったのだが、そんなことはお構いなしで毎晩抱いた。次第に彼女は疲れ果てて、「ちょっと今日は」と言うようになった。そもそも生理で断られることもあった。そういう日、私は無性に腹が立った。自分が不調の日だって必要と思えば能動的な行為はする。する人間とされる人間で事情の違いがあることは理解しているけれど、感情が理性に勝たない。


 一人の休日、リビングにいると、ある瞬間に黄昏時は訪れる。赤くなった太陽、西向きの窓から差し込んで、窓に近いところから部屋は燃えさかり、黄金色と一日が寝静まるまでの刹那的な時間になる。その瞬間は一週間の長さを考えれば一秒にも満たない、端粛、まばたきをしている間に、とても大事な何かが起こっている気がする。そんなときだけ、私の精神に平穏はあった。朝でもない、夜でもない。それだけが私の時間だった。ひどく心が落ち着く。


 気分の落ち込みから抜け出すのに、また、捨てる衝動に駆られている。しかし、私には捨てて良いものなんて何も残っていなかった。そもそも、捨てて良いものなんて今までも無かった。みんな自分の一部には違いなかった。ただ、眼を捨てても音は聞こえる。鼻を捨てても味わえる。今までのものは、そういう分類にあったというだけだった。今の私には頭と心臓、そういうものしか残されてはいなかった。

 嵐の近づきと共に、年に何度か行われる、木元の神の公演が近づいている。社内で辞令が出るタイミングも、来月に迫っている。木元は公演のチケットはいつも取っていて、一人で行くときも二人で行くときもあった。今年は、彼に誘われた。


 舞台は、私たちに馴染みのある小劇場なんかではない。何百人も入るような大舞台だった。その日は祝日、客席は広いのに殆ど満員で、小劇場では見られないような子供連れの家族すらいた。彼らは皆期待していて、それが裏切られるとは少しも疑っていない表情で席に座っていた。

 舞台が始まってみると、私たちとは何もかもが違った。脚本も演出も、演技も、舞台装置も、客の反応も。今流行の若手女優が、舞台袖近くへと身軽に走って行った。そしてバレリーナのように、優雅にくるりとスカートを翻して回り、その瞬間に彼女を照らしていた照明が消えた。舞台中央には乱雑なアパートの部屋のセット、男が一人、女が消えたことにも気が付かないでテレビゲームをしていた。彼は普段、ひょうきん者としてテレビに出ているのに、今は孤独な男以外のテイストが無かった。その演出を目にしたときに、私の心は激しく震えた。神、神か、木元が崇拝するわけだ、なんと美しい去り際なんだろうか。こんなことが舞台で可能なのか。金があるからか、才能か、壮大な舞台装置があるからか、思わず他の観客の顔を見て、そこに何の感慨もないことを認めて愕然とする。木元は端から一人のファンとして、一挙手一投足も見逃さない眼光。前のめりに体を屈めて、口元に手を当てている。芝居の面白さよりは、舞台の風景、そこに生命感があることに感動した。実在感を伴った美しさ、次の瞬間には消滅する切なさ。それが私の胸を締め付けて離さない。


 ――私はここにいる。そんな言葉が台詞のように、耳の傍から聞こえてきた。近くの席で呟かれたのかと思って見回したが、どうやら幻聴、突然降って湧いた言葉だった。自分のどの部分からその台詞が出てきたのか、皆目見当も付かない。

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