第23話 道彦

 木元は店を追い出された。階段を上ったところのガードレールに腰掛け、俯いていた。こうして見ると、彼のマッシュヘアーはすっかり伸びていた。天然パーマの前髪が目許を隠して、高い鼻だけが突き出ている。「頭冷やしておいで」と店長は言ったから、出禁になったわけでは無いだろう。すっかり雪が溶けた、四月の下旬だった。まだまだ肌寒い季節だった。外で屯している連中はいなかった。歩いている人間は、車道を挟んだ向こうの通りにしかいない。木元の上着は紺色の長袖一枚だったが、大して寒そうにもしていなかった。私はTシャツだけだった、先程の興奮も冷めて、滅茶苦茶寒い。上着を持ってくれば良かった。体が震え出したころ、折良くサクラさんが私たちの上着を抱えて、気怠げに地下から顔を出した。畳まれた私のジャケット、無言で渡されて、「お前、さっきのは駄目だろ」木元のものは雑に路上に投げ出した。

「悪かったよ」情けない声で、屈んで、ぶっちらかったコートの内から、タバコの箱を取り出した。

「ほんっと、馬鹿だな」そう吐き捨ててから、ジーンズの後ろポケットから、彼女もタバコを取り出して吸い始めた。二本の細い指で、火を付けるときは存外男らしかった。彼女が煙草を吸うのを初めて見た。そういえば、私はバーでしかサクラさんと会ったことが無い。

「相羽もな、さっき突き飛ばしてごめんな」

「うん」

 私はただ突っ立っていた。上着の裾を擦り合わせてほっとしていた。けれど、「そんなついでみたいじゃなくて、きちんと謝れ! 女性を突き飛ばすのは最低だろ!」サクラさんの怒声に背筋が伸ばされた。

「そうだな」立ち上がった木元は、姿勢良く私に頭を下げた。「さっきは、ごめんなさい」

 サクラさんが怒っている手前、「はい」私もきちんと答えた。

「ああいう手合いはね、店の人間が上手く捌かなきゃいけない所だから。出しゃばられたら困るんだよ。まあ、さっきはいきなり触られたからさ。私もちょっとびっくりしちゃったんだけど」

「でも俺、ミチヒコが知らねーやつに侮辱されてるの、黙って見てらんねえよ」

 私の不思議そうな顔を見たのか、彼女は恥ずかしそうに、煙草を持った手で目許を隠し、「私の名前。サクラミチヒコ」と説明した。木元はしまったという顔、「あ。すまん」申し訳なさそうに言った。「いや、別に良いけど」彼女は自分の名前を、あまり他人に知られたくないらしい。そこには確かに、木元とサクラさん、二人だけの空間があった。私は、突然彼らのプライベートな空間に放り込まれた気がした。

「知らん顔してなきゃ駄目なんだよ。ああいう時はさ。そういうのが大人の、普通の対応ってやつなんだから」私には彼女の言葉が強がりに聞こえた。怒っているサクラさんも、怒られている木元も、同じくらいに哀れだった。大人になれと、言葉を解せばそういう意味、大人になれだって、なりたきゃとっくになっている。簡単なことじゃない。

「……でも、さっきの木元、ちょっとかっこよかったですよね」

 私は彼らの間に割って入った。彼らを何かから庇いたかった。何から庇おうとしたのかは、よく分からない。ただ、木元の行動に美点を見いだすことが、彼らの肯定になると思ったのだ。

 サクラさんはむず痒そうに頬を歪め、「まあ、ちょっとだけね。ちょっとだけ」小さく呟いて、幾らか興奮も落ち着けて、煙草を吸った。俯いていた木元も、ちょっと口の端を上げて私を見た。次いで、サクラさんの照れている顔を見つめた。台詞一つで世界が幸福になるなら、いくらでも紡いでいたい。久しぶりに、純粋な喜びが私の中に拡がる。彼らの吐く煙草の煙は、妙に甘い煙り方をしていた。いつまでも彼らの周りを揺蕩っているように見えた。上っていく先端だけが、春の夜風に流された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る